心が苦しくなるのは、どこかに行こうとするから、、
あるいは、どこかへ行かなければならないと強迫的に駆られそのことに気づいていないから、、(無意識=迷妄=無明)
一般的な世界では、私たちは執拗に何か優れた自分になること、より確固とした安心や安全を築くためにと、
ひたすらにどこかを目指すよう駆り立てられます、、
別にこれは自我の自然な防衛性の発露であるわけですから、それはそれで悪いというわけではないのですが、
あまりにその傾向にハマってしまうと、無自覚のままに奔走と消耗のレールに乗っかったまま知らず知らずのうちに苦しんでいることにすら気づかない精神的なストレスや疲労を常態的に身にまとうことになってしまいます、、
こうしたときには、真実に立ち戻ることをお勧めします、、
即ち、本来、「どこか」などという場所はどこにも存在せず、
私たちは実際のところ「どこか」を目指したとてどこにも辿り着くことなどできないのだということです、、
こうしたことを目にすると、このことに反発したい自我が様々な反応に出ることでしょう、、
じゃー何もしなくて良いって言うわけ!?一生懸命目標に向かって努力していることは間違いだって言うの!?といった具合です、、
もちろん先のメッセージは、「何もしないでいるべきだ」などと言っているわけではなく、、
真実は、「どこか」など存在しないというズバリそのことだけを伝えています、、
前回の記事でも書いたように、私たちの世界では、無常が理であって絶えず物事は変化していきます、、これもまた真実です、、
そうした世界にあって、私たちの肉体や周囲の状況も目まぐるしく変化し、「何もしないでいる」などということは不可能です、、
こうしている間も、喉が渇き、お腹が空いてくることもあるでしょう、、
あるいは、電話がかかってくることもあれば、荷物が届くこともあります、、
トイレに行きたくもなるでしょうし、仕事にも行かなければなりません、、
そうであっても尚、「どこか」などは存在しませんし、「どこか」に辿り着くことも、「何か」になることもできないのです、、
そのことをしかと見て、「どこか」や「何か」へと幻想に駆られてエネルギーを無自覚に垂れ流す様相(有漏路・うろじ)を手放す術は、、
「どこか」を目指して事をなすといった「目的地志向」の観念的な習慣を切り捨て、「どこにも行かない今ここ」であらゆる出来事に向き合い、変化を毎瞬毎瞬生きていくということです、、
即ち、私たちが生きる場所は、「その場」だけになります、、
したがって、もう「どこか」へ行く必要はなくなるわけですから、
それまでの不健全なエネルギーの漏れはなくなり、エネルギーはプールされ活力や生命力が体感的に沸き起こってくることに徐々に気づくはずです、、(無漏路・むろじ)
実際のところ、禅が教えようとしているのはこのことであると言っていいでしょう、、
無常の世に流され変化に踊らされる在り様から、
あらゆる変化と出会い(変化を受け入れ)変化そのものと同化しどこにも行かず真実を生きる在り様へ、、
レッツ、NOW & ZEN!!
※今日も読んでくださりありがとうございます!