自我はゴールを目指します、、
今ここでは満足できない自我はひたすらに今ここ以外のどこか、特別なゴール、至高の達成を求めて奔走し続けます、、
というより、今ここで満足してしまうと、防衛性であるが故、自身の存在意義が揺らいでしまうが故、満足することに違和感や恐れを抱きつつ、、まだまだここがゴールであるはずがない、辿り着くべき場所はどこか他の場所にあるはずだと、ゴールを目指すことをやめません、、
そうした中、ようやく目標としていたはずのゴールポイントに辿り着いてはみても、この欠乏感、不満足感、違和感は時の経過と共に、あるいは、瞬時に現れ、また次のゴール、これよりももっと素晴らしい達成を追い求めようと再びどこかへ走り出します、、
あることを見落としたままで、、
さて、自我が見落としているものというのは、実は、ゴールにあるとされる、あるいは、あると思い込んでいる、達成感、満足感、充足感、、もうどこへも行く必要がないと真に安心できる至福といったものは、実はすぐそばに、どこかへ出かけようとする以前に、どこへも行かずとも初めから居るその場所に隠されていたのだということです、、
禅では、看脚下 (かんきゃっか) や、脚下照顧 (きゃっかしょうこ)などと言われるポインターが受け継がれていますが、、まさに、自らの足の下、一歩たりとも動かない、動かずのゴールがいつもここにあるということを伝えているのです、、
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そう言えば、先の春先の読書の中で溝口あゆかさんの本について取り上げましたが、、
その中で、まさかの人物、、ハリウッド俳優のジム・キャリーがエックハルト・トールの講演会に招かれた際の言葉が取り上げられており驚きでした、、
「すべての人が名声や豊かさ、自分が夢見てきたものを全部得られると良いなと思う。そうすれば、それが幸せへの答えじゃないと分かるから。」
そうした流れの中で溝口さんが書かれた幸せについての話がこちら、、
一般的に私たちは、幸せとは何かを得たときに手に入るものだと思っています。これが、微妙な、でも大きな勘違いです。
私たちはほしいものが手に入ったから幸せを感じるのではありません。欲しいものが手に入り、「もう何も求めなくすむ」ために幸せを感じるのです。
求めるということは、言い換えれば今に満足していないこということです。求めるということは、今の状況のどこかがまずいのです。
なので、求めること自体は苦しみにもなります。求めている間は、不安や欠けた感覚、また充分な感覚などがつきまとうからです。
幸せな自分をイメージしてみて下さい。そのときのあなたは何かを欲しがっているでしょうか?おそらくそうではないはずです。
求める必要がなくなった状態。それが幸せなんですね。
求めないことに留まりそこに満足できたとき自我は瞬間不在となり、真我が顔を出すこともあるかもしれません、、が、実はそれは、隠れていたことはなかったというパラドックスですが、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!