というわけで、前回の記事とバランスを取る意味でも、こちらを補足とさせて頂きます、、
前回のような文章を目にすると、時に、計画を立てるべきではない、考えるべきではない、積極的に行動すべきではない、選択すべきではない、コントロールすべきではない、、すべてはあるがままにお任せすればいいなどとして、今ここからどこか手を引いた消極性をよすがとする自我もそれなりにいるわけですが、、
そうした場合には、こちらの文章が功を奏するかもしれませんので参考までに、、
ある意味では選択はできませんが、それでも (生がそうさせるのであれば) あなたは夕食を作ったり、仕事を見つけたり、ピアノの練習をしたり、瞑想をはじめたり、依存からの回復プログラムに参加したり、オリンピックのために練習をしたり、ヘロインを打ったり、何であれこの人物を通じて起こることをしなければなりません。
「何もしない」 でソファーにじっと座って、食べ物が魔法のように自分の口にやって来るのを待っていればいいわけではありません。今ここに行為をする力があって、あなたはその力なのです。
生活費を稼ぎ、食料品を買い、夕食を作り、食べ物を皿から口に運んでそれを噛みます。そのすべては生の流れで、努力なくひとりでにそれ以外ありえないやりかたで現れているのですが、それでも経験的に言えば、あなたがそれをしています。「あなた」 が注意深く観察したときに、この出来事と別のものとして分離して個別に存在する 「あなた」 が見つかることは絶対にないとしてもです。
行為をする力は、幻影の 「私」、つまり蜃気楼にすぎない想像上の行為主体ではありません。自分でコントロールしているふりをしているだけの、物事が起こった後にそれを自分の手柄にしてしまう思考意識でもありません。あらゆる行為の源泉は思考に先立っていて、采配を振っていると思われている想像上のどんな行為主体にも先立っています。
私たちすべてがこの力、この源泉をじかに経験しています。それは <ここ・今> にあって、ここに書かれた言葉を読んでいます。「私」 がこの創造の力、この普遍的な知性、この原初のエネルギー、この気づいている存在ではないということがどうしたらありえるでしょうか?
これこそがまさに、存在しているすべてなのです。
-----------------------------------------------------------------------------------
というわけで、どんな行為であっても、それは運転席に座っている誰か、行為者が起こしているわけではなく、行為 (生) 自体が行為を起こしていると言うこともできるでしょう、、
ですから、内発的な発露であるところの、自然な衝動に対して、「コントロールをすべきではないのだから」 などと信条を振りかざしてそれらをせき止めてしまう必要はなく、
今ここで、計画を立てるという衝動が起きたのであればそのときの生のダンスとして、「計画を立てる」 という行為に明け渡せば良く、練習をする、掃除をする、選択をするといった他の様々なありふれた衝動に対しても、素直にそうしたエネルギーの発露を表現すればいいのです、、
あらゆる行為が、宇宙の、あるいは、気づき (アウェアネス) のダンスであり、エネルギーそのものであるのです、、あなたは宇宙の行為そのもの、表現そのもの、力そのものなのです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!