スピリチュアルの帰還 | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

帰省ラッシュついでに、、笑

 

 

私たちの探求の道は、、「帰還」 という言葉で表されることがままあります、、カエル

 

なぜ、そもそも、「達成」 ではなく、「帰還」 なのか、、というわけですが、、ひらめき電球

 

 

 

これは、私たちのエネルギー的な習性に注目する必要があります、、

 

というのも、私たちの 「常態」 というべき意識の在り様、あるいは、エネルギーのフォーカスというのは、それがスピリチュアルの探求という形態に関わらず、日々、「どこか」 を目指すことによって駆り立てられています、、

 

 

ありふれた日常でも、何をするにしても、「目的」 を持ち、それに至る 「経路」 を思い描き、目指すべき 「達成」 はここではないどこかにあるはずだ、としてしまいます、、また時には、目指していたものを成し遂げたときでさえ、往々にして人のほとんどが、、「次の目標」、「次なるどこか」、「さらなる達成」 へと向けられ、(眠った) 意識は決して 「ゴールする」 ということはなく、休まることはありません、、UFO

 

 

これでいい、ここでいい、このままでいい、、ということがないのです、、ランニング

 

 

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である中で、スピリチュアルの探求、、求道の旅、真実を求める道へと足を踏み入れた人たちが、その道の途上で 「どこか」 を求め、「ここにはない特別さ」 を成し遂げようとする段階は大なり小なりその時々で起こり得ながらも、、

 

 

あるとき分かるのは、、自分が明らかに 「帰って来た」 ということの発見であると言えるでしょう、、富士山

 

 

以前、ある人が、「この瞬間の認識を見落とすことがあるのではないか」 という疑問を持っていたのを聞いたことがありますが、、実際のところで、この 「帰還」 の認識は見落とすことはまずないと言っても構わないでしょう、、OK

 

 

例えるに、、今回のような連休に際してなど、自分が、はるばる 「故郷」 に帰って来たことを分からない人がいないのとほとんど同じくらいに、、私たちにその認識が起きる時、、私たちは確かに、、それを 「故郷」 であると悟ることができます、、

 

 

その瞬間、、私たちの 「どこか」 へ向かおうとする習性的エネルギーは静まり、「今ここに在る」 ことがありありと見出されます、、ここから離れたことなど一度としてなかったはずなのに自分は一体、どこを求めて旅を続けていたのだろう、、ここ以外に存在し得ないという明白さを見落としてどうして頭の中の物語を信じて疑わなかったのだろう、、と、、ドア

 

 

 

 

 

それはほとんど、隠された秘密-----初めから私たちは約束の地にいた、初めから私たちは天の王国にいた-----を見つけるようなものです。

 

まさに初めから、仏陀が言ったように、ただ涅槃だけがあるのです。

 

でも、私たちは物事を間違って認識していたのです。自分のマインドのイメージを信じることで、恐れ、躊躇、そして、疑いを通じて収縮することで、私たちは自分がいる所を間違って認識していました。

 

私たちは自分が天国にいたことを理解していませんでした。

 

私たちは自分が約束の地にいたことを理解していませんでした。

 

私たちは涅槃がまさに今ここに、まさに自分がいる所にあることを理解していませんでした。

 

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天の王国は存在の自然な状態です。涅槃は私たちが引っ掴む目標ではありません。

 

・・・・・・

 

この状態は神秘的な状態ではありません。それは無限の状態でもなければ、特別な状態でもありません。それは自然で安楽な状態です。

 

人間的レベルではそれは深い安楽さ、深い自然さ、深い単純さの状態です。別のレベルでは、それはその旅が何であったにしろ、確かな最終的感覚があるという、疑いえない感覚です。

 

 

 

 

 

 

※というわけで、仕事納めとあいなりました、、拍手

 

今年もたくさん読んで下さり、ありがとうございました!いのしし

 

暮れても明けても今ここですが、、良いお年をお迎え下さい!お願い