その昔、ある一人の教師が、、自分の周りに集まって来た人々に、、
自分の教えは、「いかだ」 のようなものだと思いなさい、、と言っていたという、、
まぁ、ハリーアレンジ曰く、、こんな感じに、、笑
もし、皆が、、向こう岸に渡る術を探していたとき、、( ̄ー ̄)
自らであれこれ試行錯誤をするものも段階の中では大切だろうし、
もし、そこに私の用意した、「いかだ」 があったのであれば、それを使うのもいいだろう、、
それを使うことで、困難を克服する場面があるように思えたら、
惜しみなくそれを使うがいい、、私は喜んでその 「いかだ」 を差し出そう、、
けれども、もし、渡り終えたのであれば、、
「いかだ」 に執着していけない、、「いかだ」 は所詮 「いかだ」 だ、、
必要なくなる時が訪れたなら、、「いかだ」 を手放し、歩き進めるがいい、、
「いかだ」 を手放しても、それが、例え、「私」 を捨てることになっても、、
私は皆を責めたりなどはしない、、むしろ、、喜んでそれを祝福しよう、、
なぜなら、、皆の教師は、、私ではなく、、私の教えでもないからだ、、
皆にとっての 「真の教師」 は、、皆自身であることを覚えておきなさい、、
私にも、私の教えにも、すがり続けたり、執着しすぎてはいけない、、
皆自身の明かりを頼りにし道を照らして行くのだぞ、、( ̄O ̄)b
というわけで、最後のが大ヒントになってしまいましたが、、
大分ハリーアレンジは入ったと言え (笑)、、このようなスタンスで弟子たちと関わり、、
自灯明 (じとうみょう) という遺言を遺したまさにその人物こそ、、
そう、、釈迦だったと言います、、
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というわけで、、様々な仏教の宗派にあって、、
禅の立場はある意味で、、「特異」 であるとは言えるかもしれません、、
実際、過激な禅僧で知られる臨在禅師は、、求道の道の途中で、、
仮に仏のような神々しい存在に出会ったとしても、、迷わず、それを 「殺せ」 とまでポイントしたとされていますし、、
つまるところ、外側の対象に意識を捧げて、自らの内にある真正さを顧みない態度を厳しく戒める意図があったのかもしれません、、
禅の彼らは、釈迦にも頼らず、釈迦の悟りすらも捨て去り、、仏像にもすがらない、、
ただ、あるがままの自分で、目前のリアリティ (今この瞬間) へ帰依するということにダイレクトに捧げます、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
これがある意味で、、それ以外ない真実 (今ここ) を照らす生き方であり、、悟りを実践し続ける態度でもあると言うわけです、、
私に禅を教えてくれた禅師が言っていた、、「真実を生きる」 というのは、、まぁざっとこんなところです、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ