私が折に触れて、「緻密さの結晶」 と称する、曹洞禅の生みの親、、
道元禅師の留学時代の逸話、、![]()
中国に修行にやって来た道元さんは、、釈迦の真の教え (正伝の仏法) を知りたいと、、
様々な寺院、高僧を訪ね回るが、なかなか自らが納得する答えは得られない、、![]()
そんな中、、ある日の炎天下の折、、とある寺院の隅で海藻を干していた老僧と出会う、、
というわけで、いつもハリーアレンジで参ります、、![]()
あまりの暑さに老僧の身を案じた道元は思わず声をかける、、
もし!ご老僧!!何故、あなたほどの年齢の方が、もっと若い僧侶にやらせればいいものを、、
このような炎天下の中、、食事の準備などをしておられるのですか??![]()
おや?異国の方とお見受けする、、( ̄ー ̄)
なぜ私が料理をするとな??
私がやらずに誰がやるというのかな??
では、ご老僧、、何故、、こんなにも暑い日照りの中であえて作業をなさるのですか?![]()
「今」 やらずにいつやると言うのかな?( ̄ー ̄)v
・・・・![]()
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こうした経験から道元は、、帰国後、、永平寺開山の際、、
食事の支度をする役職を重んじ、、修行の中の大事なポジションとして据えたそうな、、
さて、この老僧の体感は、、まさに、今ここを受け入れ、今ここに帰依していたものであったと言えるでしょう、、![]()
というわけで、相対の私たちは、、往々にして、、「今のままでは充分でない」 と感じてしまうきらいがあります、、![]()
ジョーンさんの観点からすれば、、これは、分離した断片と同一化しているための産物的なエネルギーの様相であるとのことですが、、
この無意識的な個体性から来るエネルギーの振動に無自覚に流されると、、![]()
今ではないどこか、今にはない何か、今ここ以外ものを求めるといった反応が常に付いて回ります、、![]()
これによって起きているエネルギーの動きは、、あるがままの 「今ここ」 に対する抵抗であって、
この抵抗の様相が、、「今ここ」 と 「私」 の二元対立をより一層強化し、全体性 (今ここ) との同調において見かけの上での障害になり得るものであると言えるのです、、![]()
ですから、先の老僧のように、、
自らの置かれた 「ポジション」 にひたすらに取り組むこと、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
これ以外の何かはなく、ここ以外のどこかはありはしないのだということにしかと目覚めて、今ここを受容するとき、、あるいは、この帰依 (明け渡し) の体感に相まって、、![]()
私たちは 「今ここ」 と調和的に同調し、「今ここ」 に溶け去り、本来の姿、「今ここ」 へと還る道を見出すことができるのです、、![]()
今ここ以外を生きることを徹底して手放し、今ここ (真実) のみを相手にし、
真実 (宇宙) とひとつになる生き方、、これを禅と言います、、![]()
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ


