というわけで、禅には、身心一如 (しんしんいちにょ) という考え方があります、、![]()
即ち、身体も心も途切れのないひとつながりのもの、、的な感じで、、
実際のところ、「身体」 も 「心」 も概念的な 「区切り」 に過ぎませんが、、
便宜上のポインターとしては実に有効に働く場合があります、、![]()
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前回は、求道における 「思考」 との上手な向き合い方を書いたわけですが、、
思考を止めようとするのではなく、それを見守る観照性を日々育成しつつも、、
それでもやはり、「思考」 が語るストーリーの魅惑にどうしても意識が催眠にかかり、![]()
「思考」 に連れ出されるがまま、「今ここ」 を離れ、「どこか」 へとエネルギーが漏れ出すということは、
上級者でもそれなりに起こり得るものです、、![]()
もちろん、それが 「悪い」 というわけでもありませんが、、![]()
従ってこうしたことを踏まえつつ、、禅に目を向けると、、
彼らは、身心一如をベースに、、頭の中のあれこれ (心) の乱れやまやかしを律するために、、
「身体」 からのアプローチを試みます、、![]()
というより、それに 「徹する」 と言う方が正しいかもしれません、、
つまり、日々お伝えしているように、、禅の彼らは、、あれこれの思考の言い分などに構わず、、
目の前の出来事、行為行動を優先し、その中に没入しつつ、、
ただひたすらに行ずるということに溶け去るわけです、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
禅の師たちが、現代まで伝え抜いたこの智恵は実に素晴らしいものがあります、、![]()
実際、「身体」 と共に、一期一会に三昧するということの中から生まれた規律だった調和が、![]()
確実に、「心」 の混乱や焦り、迷い、恐れといった収縮の感覚を見事に解放へと転じてくれると言えるのです、、![]()
というわけで、「心」 が騒がしい様子を感じられたら、、(もちろん、それが 「悪い」 から取り除こうということではなく、、)
静かにその様子に気づき (アウェアネス) を向けつつ、、
目の前にある今この瞬間の出来事の中に、淡々と、あるいは、ひたすらに 「出会ってみる」 ということを実践できるかどうか試してみてください、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
これを、動中の工夫とも言いますが、、この時、、自然と非二元性の扉 (開かれた在り方) が容易に開く様を目撃することもあるかもしれません、、![]()
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

