というわけで、「気づき」 、気づいている質 (という体感) は、
まさに、「力」 と呼べるもので、、(☆O☆)
この領域が優勢になればなるほど、
思考や感情の (体感的に) 「悪天候」 に見舞われたときでも、
それにしがみ付かない、あるいは、不動にして (意識的に) 眺められる余裕というものが
徐々に育って来るように思います、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
さてここで、先日の、マカエンの禅定 の記事に戻るようですが、、
各種瞑想の類、坐禅などというのは、
ベースを整えるといった意味ではとても大切である一方、、
やはり、「素振り」 であるという認識がよろしいかと思います、、
実際、私たちの日常は、そうした行為から手を引くという場面はごくごく限られており、
行為に携わる、現象に向き合うということの方が圧倒的に多いわけですから、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
そして、白隠禅師の言葉にもあるように、
瞑想や坐禅のような、静中の三昧よりも、
行為行動、出会いの中での三昧、動中の工夫の方が格段に
意識的な領域、気づきの体感を開拓し、確固たる 「力」 の育成に大きく貢献してくれるというのは、
私自身が、これまでの禅的実践の中で大きく納得しているところです、、
ですから、日常の場面場面で、
気づきと共に在る (意識的に取り組む) ということが、
いわば、実践編 (本番) であると同時に、、
そうした、実践の継続が、、ますます私たちに、
気づきの持つ力をまとわせてくれるようになったりするものです、、
たくさんの人たちが様々な方法で気づきを深めることに人生を捧げていて、
それは美しいことです。究極的には、気づきは偉大なる溶解係です。
気づきは境界と限界を溶かし、苦しみを溶かし、あらゆる執着を溶かします。
残るのは、無根拠の根拠、すべてを許し何にも執着しない開かれた在り方だけです。
(ジョーン・トリフソン)
※週明けは、動中の工夫、マカエンの禅定で、「今」 に出会っていきましょう!三 (/ ^^)/