天国の扉は天にはない! | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v


さて、前々回の補足に次ぐ補足になりますが、、笑



「地獄」 というのは、出来事そのものにその性質があるのではなく、、


出来事に対する、私たちの (思考作用による) レッテル、限定化が作り出している、、


という話をしてきたわけですが、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)


出来事は、人を不幸にすることはできません』、、、エックおじさんの言葉がよぎります、、('◇')ゞ



出来事を観念的な、善悪、幸不幸、上下などの枠に当てはめず、


ただ、「何物」 でもない、「そうであるもの」 としてそれと向き合うとき、



体感的に、どのようなことが起こるのか、、ぜひとも、観察してみてください、、



これは、不快な出来事、辛い経験に対して、


そこから、逃げないでください!と言っているのではありません、、



体感的な不快さから身を護ろうとするのは生命体として、至極自然な行動です、、


ですが、人間である私たちは、生命の維持に関わる物事以外でも、


過去に身に付けてしまった、観念的な反応が先を行ってしまい、



同じような出来事が目の前に現れた場合、無意識のうちにそれらに対する、


瞬間の 「思考による限定化 (レッテル貼り)」  が動き出しているのです、、



注意深く観察してみると分かるはずです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)



さて、そうした動きに無意識のまま流されず、意識的にその動きを見守るとき、、


動かずに (流されずに) その反応をやり過ごす (手放す) ということが


徐々に身に付いてくるようになります、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)



そうなって初めて、私たちは、思考によって作り変えられる前の、


あるがままの、「何物」 でもないものとして、その出来事の真の姿に出会うことができるのです、、


つまりはこれが、受け容れるということであり、抵抗を手放した在り様といったところです、、



※ここで、昨日のジョーンさんのポインターが効いてきます、、


生じることが何であれ、そこから逃げようとするのではなくただそれと共にある、、


離れようとすることなく、ただ今にいる、、


地獄の真ん中にいる時に何の抵抗もないときに天国の扉が開く、、

目覚めとは、進んで地獄にいること、、



ハリー的には、、今から逃げない!地獄から逃げない!てなところで、、m(__)m


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というわけで、、天国の扉は、


「 (思考によってレッテルを貼られた) 地獄」 から抜け出したいと、


天国を 「どこか」 に探し求める先にあるのではありません、、



地獄 (体感的に不快な出来事) を 「地獄」 と限定化するのではなく、


どのようにそれが現れていたにしろ、ただ、「そうであるもの」 として出会い、


いわば、「友」 のようにそれと共にあるときに現れる、、


今ここの開放性、、ごくごく自然な安楽さの広がり、、などと言ってもいいでしょう、、






※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ





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