分かり得ないという微笑み | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v


「悟り」 のポインターで実に的を射ていると思っているのが、


これまでも何度か紹介した、、



ソクラテスの、、無知の知、というものです、、



これは何も、自らを謙遜したり、卑下したりして語られた言葉でもなければ、


「これほど知っている私」 でも 「知らないことがたくさんある」 のだ、、


などというような傲慢さの態度の現れでもありません、、



これは、単なる事実、、真実を指し示すポインターであったのだと、


個人的には大きく頷けるところです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)



悟りというのは、「知る」 ものでも、「分かる」 ものでもない、、とはよく言われますが、、


唯一、知ることができるものがあるとすれば、、


知り得るもの、分かり得るものなど 「何もない」 ということでしょうか、、



さて、こうしたメッセージに触れた際往々にしてあるのが、、


こうしたメッセージの言葉だけを思考が捉えて、虚無感に陥るというケースです、、



本当の所で、、この、無知の知、、


知ることができるものなど何もない、、という言葉が指し示す先を観じた時、、



そこに現れるのは、、深い深い安堵であり、、


その体感からは、、ごくごく自然で柔らかい、微笑みが湧き起こったりするものです、、




釈迦の逸話に、拈華微笑 (ねんげみしょう) というものがありますが、、


個人的に、この言葉は、先の体感をまさしく現したものだと思えたりするものです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)



弟子たちが集まる中、釈迦が一本のハスを手に持ちひねって見せた際、、


多くの弟子たちが首を傾げ、、


その行為の 「意味」、あるいは 「理由」 を必死に理解しよう、捉えようとしている中、、



一人の弟子が、、にっこりと微笑んだ、、という話だそうですが、、



おそらく、この弟子の微笑みというのが、、


「意味」 や 「理由」 などを捉えようとする思考の無明性から醒め、



知り得ない、分かり得ないというところに、


シンプルにくつろいだ真正な反応だったのだろうと思うわけです、、



分からなくて良い、分かることなどできない、、


これでいいんだ、これがそれなのだ、、すでにそれであるのだ、、

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というわけで、今日は、微笑みの似合う相棒と、( *´艸`)


見頃を迎えている、あやめを見に出かけましたとさ、、(*´▽`*)












※思えば、昨年のちょうど今の時期に、


比叡山から連れて帰って来た、一隅を照らす相棒、、( *´艸`)


会津に馴染み過ぎてて(笑)、、ますます良い感じです、、( *´艸`)


今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ





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