歴史観の呪縛 | キビコジのブログ

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「偽り」はどこから生まれるのか?

国立大学で、入学式や卒業式に国家斉唱や国旗の掲揚がされない問題が論議されている。
国歌斉唱や国旗の掲揚をしない主な理由は、「混乱を避けるため」ということらしい。
未だに、国歌斉唱や国旗の掲揚に反対して背を向ける教官が結構いるようで、それらの教官により式典が混乱するのを恐れてのことらしい。
今ではかなり改善されてきている全国の小中高校でもまだそのような事例は多いようである。

なぜ、頑なに「君が代」や「日の丸」に拒絶反応を示す教員や教官が数多く存在するのか!
戦後、日本の占領政策の中で徹底的に「愛国心」を否定してきた戦後教育の残滓なのだろうか!

第二次世界大戦の中で日米は激しい戦いを続け、最後はアメリカがその圧倒的な軍事力や広島、長崎への原爆投下や東京はじめ各地の空襲により数多くの民間人の犠牲をもって終結した。
「太平洋戦争」と名付けられた日米の戦いでは日米ともに膨大な犠牲を払った。米国は戦いに勝ったものの日本軍との戦いは容易なものではなく、戦争に勝ちはしたものの、再び日本が立ち上がらないように徹底的に日本と日本人の精神を弱体化させるひつようがあった。そういう経緯の中で日本の伝統的文化や精神を培う教育を否定し、「教育勅語」の廃止や、教育関係者の公職追放を通して。愛国心や伝統文化や精神を否定するような内容を日本の教育政策の柱にするよう求めてきたのである。またその中で戦時中は否定されていた社会主義者などを多く教育現場に用いて来た。それらの人々が教育現場の左傾化を強く推し進めてきたのである。

その残滓とも言える状況が今なお、戦後70年以上を経過した今でも残存しいるということになるだろう。

「歴史」というのはかなり長いスパンで見て行かないと真実は見えてこない。「偽り」や「捏造」があってもしばらくはその権威が持続せざるを得ないのが現実である。
ただし「偽り」がいつまでも継続するわけではない。「偽り」は一時その権力の維持のために役立つようだが、いずれ綻びる時がやって来る。

時の実権者の都合で捻じ曲げられた「歴史」はいずれは歴史の真実が開示されるにつれて綻びその権力と共に淘汰されていくものである。

日本は対米依存の時代を長く通過してきたのでアメリカの残した占領政策の遺物である、教育や文化や歴史観の呪縛から長い間抜け出すことができずに来た。然し今はそのような呪縛から解放されるべき時が来ているようである。

日韓の関係史や中国をも含めた東アジアの関係史も同様であろう。

「統一運動」にもある歴史の呪縛が存在している。
そこから脱却できなければ・・・脱却するまである葛藤が持続することはやむを得ないのかもしれない。ただそれは、歴史の真実を求める人々の「良心」が修正を求めていくことになるだろう。
真実のクオリティーを持たない「偽物」「贋物」は、真実を見る眼をもつものがあらわれて、その鑑定を受ければ、たちまちのうちに捨て去られるものと化するようなものである。