日本は何故泥沼の戦争にのめり込み、多大な生命と財産を失い、さらには侵略国家の汚名を着せられ、国民精神もズタズタに切り刻まれて今日まで来てしまった。
かえすがえすも無念な戦いだった。
それでは、何故このような泥沼の戦いにのめり込んでしまったのだろうか?
「軍部の独走」とも言われる。軍部の独走なら独走としてもどうして軍部が独走してしまったのか?それを止めることが何故出来なかったのか?
昭和天皇の昭和38年の御歌に「戦いをとどめえざりし口惜しさ」というのがある。
昭和天皇ご自身がいかに戦争を回避されようと心をくだかれていたか!この御歌によく現れている。天皇陛下さえ止められなかった「戦い」とは、何であり、何故だったのか?
日本国家の歴史上最大の失敗の原因を明らかにすることは、日本と日本国民にとって最大の課題と言えるのではないだろうか!
「戦争が悪かった!」単純にそれだけで片付けられない問題である。
戦後70年が経った今年だったが、その総括は未だ完了していないようである。
「この戦いは油に始まり油に終わった。」昭和天皇の独白の言葉の一つとして知られている。
日露戦争が終わって、その後アジアの情勢は大きく変化して行った。その中で、一番注目して見なければならないのは日米関係の推移である。
日本は日露戦争に辛うじて勝利した。実際その当時の状況としては、とてもその頃大国の一つであったロシアに勝てる状況ではなかった。
明治の開国以来、日本は欧米のその頃の先端技術や社会制度、国家の運営のシステムなど、あらゆる文化や技術を取り入れ、欧米の列強に追い付き追い越す「富国強兵」政策を遂行して行った。明治新政府の重要課題は欧米列強のアジアへの侵出に対抗しうる国力を各方向することだった。それは経済力と軍事力が合わせて必要だった。
日本は日清戦争に勝利して多大な賠償金を獲得した。
しかし、日露戦争では、南樺太の領有権や南満州の鉄道権益などは得たが、ロシアは賠償金の支払いは拒絶した。
日清戦争で多大な賠償金を獲得していたことから、国民の失望は大きかった。
実際日本は旅順の攻防戦や日本海海戦に勝利したとはいえ、莫大な犠牲を払っていた。特に軍事費については当時の国家予算の実に4倍にのぼる軍事費を投入したため、戦費の捻出のため国民の負担は極限にまで達していた。ロシアから賠償金が取れないとわかって国民の不満は爆発した。
当時ロシアとしてみれば日本に敗北したのは局地戦であり、必要ならもっと戦争を継続してもいいと強固だった。そのとき日本はこれ以上戦いを続ける余力はなく。ロシアの条件を呑むしかなかった。
この日本とロシアの講和条約の締結に間に入って働いてくれたのが米国だった。ところが講和の仲介に立って努力してくれた米国だったにも関わらず、講和の内容に満足しなかった日本の世論はその攻撃の矛先を米国に向けるようになっていった。
日米関係がおかしくなっていくのはこれ以降の話である。
どうやら「日露戦争以降」の話は長くなりそうである。
と言うことで今日はここまで・・・あとは「続く」です。
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小生のブログはさほど注目もされていないし、ランクも高くない。別にそれでいいし、必死になるわけでもない。
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最近記事にしたVW(フォルクスワーゲン)しかり、あらゆる失敗した企業や組織にその傾向が見受けられる。
日本企業の中には絶対過剰な成長をさせない堅実な企業がいくつかある。急激な成長をする企業には必ず急激な没落が待ち受けている。
確実に、毎年の成長は低くても絶対前年より下がらない実績を継続しいる企業や団体が最後は勝利を獲得するのである。
山登りにもたとえられる。すごいスピードで登っていても、途中でへこたれて休憩したら一巻の終わりである。たゆみなく休まず進んだ方が最後は一等になることの方が多い。「ウサギと亀」の童話の、そのごとくである。
かくいう私も長くブログを休眠していたので、偉いことは言えない。
今度は、こつこつ長続きする記事を書いていくつもりである。
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