気絶するように寝てしまい、今起きた。
ここのところあらゆる層においてインプットの嵐だった…。
先月もたまらずマッサージに行ったけれど、ああ、物理的に触れられるとはこういうことを言うのかと深く納得した。
かなり以前に飛び込みで行ったところで、魔法の手を持つ人に当たったことを思い出した。アトピーで苦しんでおられたけれど、今にして思えば、マッサージする領域が違ったと言える。その次に行ったらもういなかった。
あなた!魔法の手を持ってますよ(失礼ですが、こんなところに埋もれている場合ではない!)と、伝えられれば良かったと心の底から思う。
ことほど作用に、才能と言うものは埋もれがちなのであらうか。まあその後栄転されたのかもしれないけれども…。
思想的倫理的教義や何かで平等を謳い、才能を問題にしないジャンルもあるけれど、それが本当に平等性を発揮しているかと思えば、それは全然違う(ちょっと考えればわかることがわからなくなるのが新興宗教的病)。
才能で勝負できないとき、人は舞台に上がる前に戦うのだ。
この不毛なる戦いはまさに悲惨で凄惨そのものだ。
(まあこれは才能以外の椅子取りゲームでもそうだとは思うけど。)
特に、弱い立場に置かれているとされる人に、この、表で勝負せず裏で勝負する傾向は強いように思うし、そういうことに自覚的であるべきなのではないだろうか。人間のすることなので…。
人の才能に嫉妬する時に戒めたいことは、
人のことも、自分のこともよく観えていないということなので、そもそも、その才能が無いということである。なので、嫉妬心を自分の中で昇華しきれず人様に迷惑をかけるぐらいなら、それそのものを志すことを止めるべき。それが志したものに対する敬意ではないのだろうか。
これはある意味ど正論すぎるかもしれないけれど。
しかしまた、どんな試練にあっても自分の持てる能力を発揮したいという願いは死ぬまで続くんじゃないかとも思えるし、もしかしたら、本当に発揮したいのかを試されている試練とも思えるので、万事、なるようになっているということか…。
なので、大いに足の引っ張り合いをして、潰しあったらいいのかもしれない、笑。
本当に、ボディブローのようなにぽん新興宗教化作戦が功を奏して、
今の国がある。
一国の総理がアメリカでの経歴は本当なのかと疑われる程度の英語を嬉々として披露してしまえるところが全てを象徴している。その影に、本当にまっとうに仕事をしている政治家として本当に才能ある人物が潰されていないのか。
しかし、何でも基準は甘い方が、自分に照らし合わせたら楽だからなー。
私も自分に甘いからなー。みんな疲れているしなー。
まあ時代の流れでいいんでしょう。