つくづく何事も、それそのものというよりは、それそのものの後、等々、ずらしたところでわかることがあるんだなと勉強になった。言葉を馬鹿にしすぎたくはないものだなと思いました。しかしそういう気風が増えているようにも思う。これも時代の戦略でしょうが…。
8月も終わりなので、切り替えたい!。
つくづく何事も、それそのものというよりは、それそのものの後、等々、ずらしたところでわかることがあるんだなと勉強になった。言葉を馬鹿にしすぎたくはないものだなと思いました。しかしそういう気風が増えているようにも思う。これも時代の戦略でしょうが…。
8月も終わりなので、切り替えたい!。
疲れるとネットが苦痛になるか、ネット中毒になるかどちらかかも。
とにかく寝る、のと、野菜を食べる、が疲労回復法。
介護は苦痛ではない。
勿論色々あったけど、格段に慣れたし落ち着いた。
それに、回復しようとする力にこちらが助けられることもある。
色々学ぶこともは多い。
どんなことも、まずは、DNAに敬礼、的なこともあるんじゃないか。
それも、イメージではなくできれば実際に。
その機会があって、本当に良かった。
介護が始まってから、行ったり来たりの生活が始まって、ゲリラ豪雨は結構あったけど、雨に振られて傘をさしたことがない。
駅につけば、ゲリラ豪雨は止んでいた。
これも、多分、踊りと関係がある。
今日はまだまだ眠い。
疲れた。
昨年8月から介護が始まって、それから満員電車通勤も始まってその中で、芭蕉の謡曲を覚えて、稽古もして、宣伝も衣装作りも思うようには出来なかったけど実験発表公演もして、職場が変わって一から新しい仕事をして、この8月に漸く国分寺を引きはらった。誰か褒めて。
今朝は心が痛すぎて起きたので、胸腺を撫でていたら落ち着いた。一息ついたところが、心が一番危ないのかもしれない。
踊りのことで言えば、ある人が、自分等の踊りは、手足をバタバタさせて踊るのとは違う、みたいな発言をされていたけれど、まあこれもスルー力検定なんだろうなとは思いつつも非常にモヤモヤする。ああ神よ仏よ!未熟な私をお許し下されたし。
昔、ある発表で、ソロの曲目で、曲目のイメージとしても、限界まで動くを設定したところ、本番でアドレナリンも出ており、いつもの練習より広い舞台だったので、限界値を超えて動いたらしく、呼吸を忘れたようで、舞台袖に引っ込んだ途端に倒れて咳き込んでしまい、発作のようになってしまった。次の出番はもう無理と、幸い集団だから何とか誤魔化せるかもみんなごめんとおもいながら、通常の苦しさではない咳に転がってのたうち回っていた(大袈裟ではなく)のだけれど、次、いよいよ出番が近づいてきた、という時に、
ぴたりと咳が止まり、しかも身体の中が静まり返って、無事に、舞台に出た。
これから出番という一瞬で、あれほどの咳がぴたりと止まったことに驚き、身体の智慧は計り知れないと思った。それも、自分の限界値を知るという設定を設けなければ、経験できなかったことだろう。
自分達の踊りを特別視したくなる気持ちはわからないこともなく、努力もされてきたのだろうけれど、ものには色々なやり方があり、そこでしか見られない景色もあるものなんじゃないかなと思う。
そういう景色を見て、次へ行く。
そういう景色を見ていないから、言えることはあるんだろうな。
気をつけようっと。
コンプレックスがおありなのかもしれませんけれど。
以上。
スルー力検定に不合格であることを認めます。