SNSで流れてくる写真や文章。

それをみて、
「なんか安っぽいし、違和感がある」
と感じたことがあるかもしれません。

反対に、
どこが良いのか、
すぐには言葉にできないものの、
なぜか魅力を感じてしまうこともあります。

「これは本物かもしれない」

「この人のことを、もう少し知りたい」

そう思わされることもあるでしょう。



この違いは、
とても大切です。

前者は、

どこかで見たような言葉や演出を、

それらしく並べたものかもしれません。

後者は、
現状の自分にはまだ理解できない未来が、
違和感や惹かれる感覚として現れているのかもしれません。

未来は、

最初から分かりやすい姿で現れるとは限りません。

むしろ、

本当に未来を変えるものほど、

現状の自分にはまだ理解できない形で現れることがあります。

そのことを頭の片隅に置いておくだけでも、
目の前の違和感や引っかかりを、
オラクルとして受け取れることがあります。

先日の記事でも、
こんなことを一緒にみてきました。
 
大切なのは、
現状の自分で判断し、
成否を決めないことです。

今の自分に分かるかどうか。

今の自分にメリットがあるかどうか。

今の自分が納得できるかどうか。

そういう基準だけで判断してしまうと、

未来側の可能性は、

ほとんどスコトーマに隠れてしまいます。

なぜなら、

本当に未来を変えるものは、

現状の自分にはまだ理解できない形で現れることが多いからです。

いまはまだ意味が分からなくても、

あとから振り返ったとき、

そうだったと気づくはずです。

僕が当初は気功というものに

一切興味がなかったにも関わらず、
師匠から学び始めたのも、
まさにそれを感じたからでした。

この人が観ている世界には、

自分がまだ知らない何かがある。

そう感じたから。

未来を感じ取り、
大きな変化をしていくにあたって、
過去は関係ありません。

関係ないけど、
どう生きてきたのか。

何に触れてきたのか。

どんな言葉を受け取り、

どんな世界線を生きてきたのか。



それらはすべて、
「今」という縁起の結節点に繋がっています。

その人がどう生きてきたかは、
鏡のように──
発される言葉にフィードバックされます。

言葉は、
その人と同じように生きるのです。

だから、
たとえば、その鏡に映った言葉に、
思考のない盲従やプライドを守る認知の歪みからくる、人を切り捨ててでも自分の正当性を主張する無思想性と一貫性のなさを感じてしまったとしたら。

それは、
身の毛もよだつような「凡庸の悪」であり、
僕たちはそこにアイヒマンの構造をみるわけです。



まさに悪意があるわけではなく、
「本当に何も考えていない」からこそ、
自らの脳を差し出し、ハルシネーションを起こす生成AIになってしまっている。

ある種の『正義』として堂々と行動できてしまう。

その無自覚なグロテスクさこそが、
まさにアイヒマン的です。



 
アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になって見せよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察で訊問に当るドイツ系ユダヤ人と向き合って坐り、自分の心の丈を打ちあけ、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や出世しなかったのは自分のせいではないということをくりかえしくりかえし説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において、「(ナツィ)政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思想性──これは愚かさとは決して同じではない──、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人となる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみが滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底知れ無さを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。
(ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』p221)

僕たち自身もまた、

何も考えないまま、
ある種の価値観や欲望を模倣し、
それを自分の考えだと思い込んでしまう可能性があります。

そのことには、
気をつけたいものです。

ここで、僕たちが語る、
未来を変えるということに対して、
特別な出来事のように感じているかもしれません。

けれど、
そうではありません。



 

たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは、自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。
(1994年にシリコンバレー歴史協会(Silicon Valley Historical Association)がスティーブ・ジョブズ(当時NeXT社)に行ったインタビュー)

この単純な事実に気づき、

それが透けて観える新しい世界の眼差しを獲得することです。

「これが普通だよ」
「これが現実だよ」
「みんなそうしているよ」
「それで十分幸せだよ」

そういう善意で敷き詰められた澱んだ世界からの脱出であり、間違っている知識が正しいものとして流通している世界を俯瞰して眺める視座の獲得でもあります。

そういったものが、
自分の世界を殻に閉じ込め、
それが幸福だと信じ込まされ、
抜け出せない盆地に落ちていく。

そういう構造が、
自分たちを取り囲んでいるわけです。

そのことに自分では気づくことすらない。

そうやって人生は、
そんなもんだ。」と思わされているだけなのかもしれないのです。

誰かによって構成された自分という存在。

それは果たして自分なのでしょうか。

そうやって、
長く深淵を覗き込もうとせず──
結節点だと考えることができれば、
多くの人が寄ってたかって書き込み、
刷り込み、意味の世界で創られた、
かりそめの風景なのかもしれないということが観えてきます。


僕たちが「現実」と呼ぶものは、
どんな臨場感に生きるかによって変わってしまいます。

言葉や知識の本質が部分関数であり、
その腑分けが間違っていれば、正しく機能しません。(だから言葉の定義が大切ということにも繋がります)

であれば、
一つひとつ、
正しいものを採用しなおし、
その解像度を高めていくだけです。

そういう、
単純な事実に気づけば、
人生は可能性がずっと開けたものとなる
わけです。

その意味でも、
人生は変えられるし、
未来はデザインできるのです。

意識に上がれば、
操作ができるようになります。

あなたが思っている以上に簡単に。

何かにもがき苦しんでいる原因、
なんとなく生きづらさを感じている理由、
頑張っているつもりだけど結果が出ない構造的要因。

それは、
周囲から教わった間違った定義、
間違った補助線を使い続けているだけなのかもしれません。

それを一緒に丁寧に調整していくだけで、
世界の眼差しは大きく変わり、
それによって人生も大きく変わっていくはずです。

あなたの違和感は正しいのです。

今回の記事は、

今月の講座案内を書こうと思っていました。

けれど、

いろいろと思うところがあり、

今日は違う内容を残しておきます。

講座案内は、

また改めて整えていきます。

ではでは、今回はこの辺で。

また次回の記事でお会いしましょう!

Khronos / The salone|Hiro

追伸:
感想・ご質問、大歓迎です! 
たった一言でも構いません。もし何か感じたことがあれば、ぜひシェアしてください。言葉にすることで、見えなかったものが形になり、次の扉が開いていくのです。
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