初めてこの業界で使った電子計算機(コンピュータ) | 酔眼(酔った眼でのあれやこれや)

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マルチチャンネルアンプSR機器でJAZZなど、CinelliとKonaの2×2輪生活、最近は運転していないAlfaRomeoMiTo結局は妻専用スーパー(買い物用)カーとなり果てる、チワワの『らぶ』とPentaxKPなどで撮るへぼ写真、酔った眼でのだらだら・ぐずぐずな年金生活の日々

私がこの業界に入ったのは30数年前のこと、その頃は今のようにパソコンも無ければハードディスクなどのランダムアクセス装置も無かった、あるといえば磁気テープ装置だけでコンピュータ(その頃は電子計算機と呼ぶのが一般的)を動かしていた。

プログラミング言語といえば、Assembler、COBOL、FORTRANの時代で、電子計算機は各企業のなかで「電子計算機室」などと呼ばれる(一部の企業は「IBM室」などと読んでいたが・・)思いっきり冷房(なんと一年中18℃以下)を効かせたデカイ部屋に鎮座していた。

私が最初にプログラミングを教わったのは前掲したストアードプログラム(内部記憶)方式のコンピュータではなく、外部記憶型の計算機(型番はUNIVAC1004)で、メモリーは1KC(キャラクター:6bitや7bitが文字をあらわす最小単位)未満の961キャラクタの容量のものであった(今では1GByte程度はパソコンでも当たり前だが)、しかも磁気記憶装置などの無い代物で、入力データや計算結果は全てカード(パンチカード:一枚の紙に80桁or90桁しかあらわすことが出来ない)で入出力をするPCS(Punch Card System)
からEDPS(Electronic Data Proccessing System)への過度期)の機械で、普通のコンピュータ(メインフレーム)でも64KCや128KCが中型コンピュータと呼ばれていた時代であった(その後、Byte単位での処理をするコンピュータが現れた)。

このUNIVAC1004が、又面白い機械で62×62のコネクタがあるボード(記憶は定かでないが60cm四方の重いボード)で配線(ワイアリング)してプログラムを組むしろもので、普通にプログラムをすると最大62Step(プログラム62行しかコーディングできない・・ようなもの)のプログラムが作れたが掛け算ひとつをとってみても4Stepも使用してしまうのでなかなかプログラミングが難しい。
プログラム配線用のコードを使用して1Step組むのにも、命令で1本、アドレス(入力用)4本、其の計算結果(主力用)で4本、その他にも命令によっては数本のコードで配線をする、その結果かなり重いボードになってしまう。
又内部の回路が62個のリレーと真空管(!)を使用して判断や分岐をする(これがしょっちゅう壊れる)のでかなり苦労した。
今は言語的にはイベント駆動型のVBやJAVAなどでキーボード・マウスでプログラミングできるが当時は頭だけではなく本当の意味で体力勝負の時代だった。

その後、COBOLなどのプログラミングはコーディングシートにコーディングし前掲した80桁のカードのパンチして入力するような仕事に変わりかなり楽になった。

しかし普通のプログラムでも数百Stepから数千Stepなのでカード枚数も同様な枚数となるので、運ぶ途中でばら撒いたら地獄をみることになる・・徹夜続きに朦朧として何回かあった(TT)

今思えば懐かしいが当時は徹夜徹夜の連続で一週間帰宅できないことが日常茶飯事であった(若かったから出来たが今ならとても出来ない)やっと帰宅すると会社から電話が来ていて「はやく戻って来い!」などなど、今考えると(考えたくないが)・・・・・    続く(多分)