種々雑考 | 晩節雑考種々雑考~明るく素直にあたたかく~

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とかくこの世は生きずらい、みだりに悲観も楽観もせず、執念深く生き通していく精神を養いたい・・・・

 先週金曜(週末という言い方はなるべく使わない、土日働いている人に失礼な気がするから)夕方、反原発金曜日行動に参加して、何人か知った方にお目にかかり小さなプラカードをお借りしたのだが、終わるとその方のお姿が見えない、まあビラでも配られているのだろう、と思いながらもお姿を見つけることが出来ず、次回参加した時にお返ししよう、と思い特にメール等お送りしなかったが、翌日わざわざ丁寧なお電話をいただき恐縮。

 次回参加は未定ながら、参加したくてもなかなか参加できない方も少なくないはず、そうした方々のためにも可能な限り参加しよう。

 その帰りスーパー(こんな田舎町でも遅くまで営業している、働いている方々に感謝)でジャガイモ椎茸などの野菜や肉を買い、帰宅して前の仕事で見よう見まねで覚えた具だくさんの味噌汁を作った。これがあれば、場合によってはおかずはいらないくらいの中身。(前の仕事先ではこれをどんぶりでそして焼き魚やいろいろいただいた。)朝老母が、おかげで朝食の支度が助かった、と。土曜の夕方ご近所の方からおかずになるようなものを戴き、老母がお礼に愚生がつくった具だくさんの味噌汁を届けて味わっていただいた。しかし老母はガスの火をつけっぱなしで行ったので危うく鍋が焦げるところだった。大事には至らず味噌汁も減らずに済んだ。デカい鍋で作るので二日ほどは持つ。そしてご近所の方々にもご好評なのがうれしい。焼き鳥や焼き魚もそれなりに焼く自信はあるが、残念ながら仕事として生かせない。

 

 『銀座シネパトス閉館』を引きずっておりますが、近く改めて我がポンコツブログにてふれてみたい。慣れ親しんだ場所がなくなる淋しさ、地震や原発爆発により(目に見えない恐怖の)放射能がまきちらされて故郷を失った人々の気持ちとどこか通じるものがある、と思う。ちょっと大げさかもしれないが、映画を愛する者にとって『映画館は特別な場所』


 これも後日改めてふれてみたいのだが、映画『ラストエンペラー』のベルナルド・ベルトルッチ監督作品『1900年』を二十年ぶりに観た!93年3月今は亡き渋谷東急文化会館地下1階『渋谷東急3』(この場所は現在東横線&地下鉄副都心線渋谷駅への通路の一部になっている)で観た。満席、ちょうどひとついい席が空いていたのですかさず座った記憶がある。ついに観た!そんな手ごたえをおぼえたが、その後なぜか観ていなかった。レーザーディスク化されてもなぜか買っていなかった。なぜだろうか?おそらく共感できない主人公像で二部構成合計五時間以上。共感できない主人公の物語を繰り返し観る余裕がなかったのであろう。今あらためて観る気になった理由は何だろうか?実はよくわからない。『ラストエンペラー』との共通点など新しい発見があった。『タイタニック』並みの中毒症状、早くまた観たい!そんな気持ちを抑えるこの苦しさ。


 部屋の中を少し整理して、2006年夏にある企画でいただいた『原発反対・原発問題についてのチラシ』が出てきた。憶えている。今、経産省裏の反原発テント村等でたびたびお見かけするある団体の方々が配ったチラシ(この方々もおそらくインターネット上で『原発大好き派』の方々から嫌がらせを受けているのではないか?)。『浜岡は危険』『[浜岡原発止めて!決議したいくつもの自治体の存在』そしてすっかり忘れられてしまっている『1999年、東海村での放射能漏れ事件』これは死者が出た、と記憶。当時それでも『反原発』は大きな世論にはならなかった。そして原発でない『再生=自然エネルギー』の可能性。今配られているチラシのようだ。


 図書館で読んだある新聞の投書欄に『ブータンでは、ある村に電気を通そうとしたが、ツルの飛来の邪魔になるので電線を引くのをやめた、と言う』日本では考えられない自然との共生(でも日本で言えば、原発を拒否し過疎の村となることを選んだいくつかの事実に相当するであろう)。


 経済がよくならなければすべては良くならないなどと言う『経済ボケ・経済幻想』から人々が目覚めなければ、世の中は破滅に向かうに違いない。経済発展のためにどれだけ自然が破壊され、さらに戦争になり(戦争の目的は基本的に経済発展にある)多くの尊い人命が失わて来たであろうか?それは今も現在未来進行形で続いている。だれかTPPが戦争につながる危険性を論じてくれないだろうか?

 立ち止まって考えるべきだ。景気回復のおめこぼしにでも与らない限り近いうちの野垂れ死にが間違いない愚生のような愚か者でもわかるのに愚生なんかより頭のよろしい方々の大部分が気が付かないのはなぜだろう?そのよろしい頭を生きるために金儲けに『経済幻想』に洗脳されてしまっているのだろう。もったいない。

 こういう自分とて、貧乏人の生まれゆえに高度経済成長経済大国の時代に生まれ育ちながらその恩恵にあずかれなかったから『経済幻想』に気が付いたが、高度経済成長経済大国の恩恵にあずかっていたら、おとなしく会社を通してこの国の奴隷になって『景気回復最優先!』『原発?仕方がねえだろ、反対したって無駄だよ』『憲法、そうですねえ時代に合いませんね、ハイ、経済のためアメリカの戦争に参加するのは仕方がないですよ』『つべこべ文句たれてられるか!!』などとぬかしていたであろう。世の中にはそのようにお考えの1%とかいう支配者たちに群がりそれを支えている人が少なくないであろう。

 そういう人たちは言うであろう、『ふん、起ちあがれ!だって、バカ言ってんじゃないよ、それで何ができるのさ、経済がダメになったらどうすんの、どうやって飯食っていくんだ!バカヤロー』

 残念ながらこういう人たちへの特効薬はいまだ見つからない。でも希望はある、と思う。かつて『小泉改革』に浮かれていた人たちの中にもそれが誤りであった!と気が付いた人々は少なからずいる。この方々の経験は重要だと思う。かつて戦争を積極的に選択し支持しながらもその後それが間違っていたと気が付いた人たちの経験に匹敵する。こういう方々は『アベノミクス』とやらには騙されない。『原発反対!すべての原発今すぐ廃炉!』をとおして『経済第一主義ではだめなんだ』と言うことに気がついてくれる人が増えてほしい。そしてあらためて『経済とはなんだ?』定義し直すべきではないか?

 大学時代食べるのがやっとの中でも『社会学・社会福祉学』と格闘し、現代社会への素朴な疑問を考えていくうえで役に立ったある講座でその先生は最後にこう言われた『経済の論理に勝る福祉の論理をみなさんに期待したい。』その期待には決して応えられてはいないが、世の中に吹く景気風に流されたりしないようにするうえでとても励みになった。『経済が第一ではないんだ。経済に振り回されてはいけないんだ、どうして金儲けに振り回されて、人生を棒に振らなければならないんだ!』落ちぶれ果てて野垂れ死に間違いなしだからこそ『経済第一主義ではいけない』とはっきり考えることが出来る。

 自分のような者に何ができるだろうか?まずは落ち着いて考え、同じような疑問を持つ方々と語り、連帯感を持つことによって一人ではない、と想える。世の中すぐにはいい方向へは変わらない、即効を期待してはいけない、デモ等の企画があれば無理せず可能な限り参加する。確かに生きていくことは本当に苦しいが、楽しむために人は生まれてきたのだろうか?何か役割を持って生まれてきたのではないのか?それを探求していくべきではないのか?決して楽観的にばかりならず、かといってあまり悲観的にもならず、忍耐強く執念深く生きとおしていく精神、世の中に対して『起ちあが』、と言うことは、まずはこういうことこういう精神を持ち続ける努力をしていくことではないでしょうか?何も抗議の意味を込めて焼身自殺をしたり身体に爆弾を巻きつけて人々に見せつけるように絶叫してボタンを押すことではない、と思う。

 たとえ落ちぶれ果てて野垂れ死にしようとも『経済幻想』に振り回されず、人生への探求を通して起ちあがって行きたい。決して大げさな事大きな事はできないが。