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優美の条件  (01月31日 01:57) のような、殆ど自分の思惟のために書き留めた簡潔な文を検索に取り上げていただくのは率直に感謝である。たしかに、わたしにとっては大事な要点を圧縮して述べている。

 

日本のインテリには、ぼくのいう意味での人間味が全然欠けている。欧州の学者は人間と学問とが一つに生きられていて、人間性そのものが優美である。優美の有無として彼方と此方の差をぼくは見てきた。確信などと言うにはあまりにぼくの明証な人間感覚となっている。日本だけに居たら一生、学問態度というものを誤解したままだったろう。向こうに行ってこれに気づかぬ日本人の感覚はぼくには理解できない。この点でぼくには日本人のほうが感覚的に疎遠であり、謂わば別の人種に思える。

 

自分で書いたものであるが、ぼくはベルナールや高田を引用しつつ自分でも彼らに拮抗する珠玉の文章をこの欄におびただしく書いている。言葉を越えた表現への感覚と欲求があるのは人間の本性であるが、自分で書き重ねた内容を大事にして生きたいと思う。世はぼくの文章によってもどれほどゆたかになったことであろうか。この欄の貴重さがどれほどの人々に認識されているか知らないが、認識されなければならないことは、自分で再読して強く感じる。

 

 つぎの一節もこの主題に関連するものである。


 

(この節より)

 

ベルナールによれば、「人生の三つの規則」がある。それは、「規律、自然、恩寵」である。自律的意志、自然の力の恵み、超自然な神の力の助け、のことであろう。この三つが総合的統一に達することが人生の規則、秩序であろう。「そこに到達するまでの道のりは長い。」

「ベルナールは、修道士たちに、キリストと対話することは難しいことが多いと打ち明けている。神の言葉〔恩寵〕がいったん隠れると、すべての対話はとたんになえてしまい、熱意も冷めてしまうからである。

『私にとっての、彼が立ち去ったしるしはこうである。私の魂にどうしようもないほど悲しみが広がる。彼が戻って、いつものように私の魂を内側から暖め直してくれるまでは。それが、彼が戻ってきたことの印なのだ。これが私の神の言葉の経験である・・・』」

 

聖人とされたこの人物においても、このような《心の荒野》は不可避なのだ。これもまたぼく自身において昔から親しい経験である。そしてきみにおいてもこの経験はくりかえしなされていることを、きみの書いたことからぼくはちゃんとぼくの心に留めている。きみがどんなに「心の暖まる」経験を欲しているか、ぼくは心に刻んでいて忘れないでいる。ぼくはきみのなかにはっきりと、と言っていいくらい、「信仰的な真摯さ」の生活の韻律(リズム)を感じる。ぼくはまちがっているだろうか。