最初から完璧ではないか。これをあの凄まじい時期に書いたのか。全文再録。 ぼくの過去節が敷衍してくれる。反対ではない。 

 

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ぼくはこの電子欄を書きはじめてから、一度だけ裕美さんにメッセージを送ったことがある。
(それ以前にはやはり一度だけ、一聴者より、として、御自身の音楽の道を続けられることを望む、という趣旨をメッセージで送ったつもりであることは既に述べた。最後の結びの言葉を書いている最中に画面が、操作の不手際で消えてしまい、正常に送信できたのか確かめられなかったが。)
その、この欄を始めて以来たった一度だけ、やむにやまれず送ったメッセージの全文は、つぎのとおりである。


 

「あなたは生きていますね!」
 




いま彼女の曲を一演奏聴いた。理屈無くやはり涙が流れた。悲しいからではない、いつも言うように。生きた愛があるから。これはぼくの意志ですらない。生きていて唯一嬉しいことである。
















彼女は一曲一曲にほんとうに心を籠める。他のクラシック奏者も彼女の演奏をよく聴いて精神を見倣ってほしい。その籠める心がこの世のものとは思えないほど純粋で澄みきっている。彼女の生まれた季節である秋の空に魂があればこのようであるだろうように。(彼女はふだんでも感動に涙もろい。どんなに澄んだ心のひとかをしめしている。でなければあの笑顔は生まれない。)「どんな大家になっても指揮・演奏する前は緊張するのが本物だ。ベートーヴェン演奏では特にそれが言える」、と、指揮者アンドレ・クリュイタンスのベートーヴェン演奏の態度を高田先生は称賛した。まさに裕美さんも同じで、演奏の仕事の前にどんなに緊張するかを記しているのを繰り返し読んだ。曲はベートーヴェンではないけれど、ベートーヴェン演奏が奏者に全魂を籠めることを要求するように、まさにその態度で、彼女はどんな曲にも向かっていて、それだから心を、魂を、打つのだ。同じ曲も他の奏者ではけっして彼女の世界と同質なものは、ぜったいつくれないとぼくは断言する。だって、あの箇所でこういう弾きかたをするから心を打つ、こういうものの集積としての演奏、これは彼女だけのものであり、そういうすべてを統一して魂の世界を創っているのは、彼女だけの彼女の魂、自分だけの生きた意志と感情をもって演奏行為を行なう唯一の彼女の魂なのだから。「聴く」とはほんらい、そのように聴くことだとぼくは思う。「人間」が感動させるのであり、その「人間」に感覚が収斂するように聴くべきだ。「心から心へ」とブルーノ・ワルターも云ったという。聴く者の魂に触れるような演奏をする自分の魂を、どう開花させるか、世のクラシック奏者にもこのことを是非真剣に熟慮してほしい。魂の態度と質が、彼女のようになってほしい(生きた愛が感ぜられる演奏家が何人いるか)。彼女の演奏においては、充たされるべきものが充たされている。これまでクラシックしか聴かなかったぼくが、経験を総括してそう実感しているのである。
 彼女の「知性」は、徹底的に「魂」に基礎づけられている知性である

〔ほかのことは何もせずに きみの演奏だけをずっと聴いていたい。きみが作った最高の文章だ。それを理解することはぼくにとって立派な仕事となるだろう!それくらい魂の蓄積されたものが演奏にある。そして、きみは何という手指のうごかしかたをするのだろう!ほんとうに頭のよいひとだけがああいう動かし方をするのだよ!きみはぼく並みの神経をもっている!!
 いま きみを聴くこと 想うことは そのままぼくには「祈り」になっています




*ぼくは思想になど興味はない。その空しさを知っている。美のみに関心がある。ほんとうは魂と言いたいが、そうすると世は魂を思想化する。思想化された魂はどんなものでもすべて偽りである。美との相関においてのみ魂を論じること、正確には、想うこと。神もまたそうである。これは魂や神を審美化することではない。まったく反対に、高度に倫理化することである。この「倫理」はやはり「美」との相関においてのみあきらかとなる。キルケゴールの言う〈美的生活〉とは違い、美は真の形而上(メタフィジック)に-つまり宗教性に-最後まで直結していることによって、美そのものの倫理的根底を自覚する。ぼくが関心をもつ思想とは、このような倫理的関連において本質自覚される美意識の深化そのものであり、そのためにこの欄は捧げられている。イデアは概念ではなく、実証を、形を要求する美の原理である。ぼくの本質的関心は、美意識の自覚・深化であり、その形としての思想である。これは、最初に言った〈思想〉つまり概念装置としての思想とは、言葉が同じだけの、根源的に異なる、「行動であるような思想」(アラン)である。







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24日

だんだんわかってきた。ぼくがどうしてこういう状況に入っていったかということ。日本に帰り、まだ郷里にいた頃、日本について思うところがあって、ぼくの勘で、素人の意見に素直に耳を傾けてくれそうだと思った町村氏に、国のひとつの問題を述べた手紙を書いた。氏からは、自分への連絡先を記した便りが来、丁重な礼が述べてあった。それから、ぼくは気づかなかった(というより、そういうことがあるはずないと否定していたと言ったほうが正しい)が、何らかの関係の人々から、気づかれないように注意されていたらしい、と、いま思っている。人物を確かめようとする人々がいたのだろう。いまはこのくらいにしよう。


異変後、ぼくが何の政治的関係も無い一市民だと認めると、ぼくを解放するどころか殺しにかかった。この経験から、日本も平和憲法だけなら滅ぼされただろうと思う。あるいは、憲法を捨てて自衛戦争をしただろう。どちらも経験せずに済んだのは、米国との政治関係の力による。無力で、一切政治力など関係無く、自分の生活を平和に営む者だと宣言したとたんに、ブレーキの効かない憎悪と攻撃の対象にぼくはなった。力背景無く平和に生きる者を解放せず攻撃することをぼくは許さない。しかし日本も無力平和であればぼくと同じ目に遭っただろう。現実とはそういうものだとぼくは学んだ。内乱の無い日本内で、ぼくは無力の故に殺され、罪まで負わされた。


この社会の裏にはとんでもないものがある。ハイテクと妖術が融合した力を操る人間達が神の力を使って無力な個人の生を勝手に監視・破壊する。ぼくはそれを全的に受けた。ぼくの、誰の害にもならない、ぼく自身にとってかけがえのないぼくの精神生活を勝手に破壊した力、責任をとらない力をぼくは許さないぼくをもとの状態と状況に戻さないかぎり。もしもそれが神そのものであったら、その神を同様に許さない。ぼくの精神生活を破壊しておいて、その責任者を生かしておく気はぼくには無い。創造的なものを想うが故の、創造的殺意・死刑を、いまこそぼくは認める。真に思い遣りのある者は、その、暴力によって失われたものへの思い遣りの故に、死刑を肯定する


不真面目な者が一番嫌いだ。真面目なものを壊すからである。悪が高貴なものを壊すのを助けるからである。天使の笑いと悪魔の笑いが同じ「笑い」という語で呼ばれているのは凄まじく問題である。これによって広範に心術の倒錯・錯覚が起こるからである。民衆は不真面目な笑い即ち悪魔のそれに余りに迎合的であり、悪を拡大伝播させている。聖なるものが壊されると あとは最終破壊たる戦争へ如何なるブレーキも無くなる。民衆は日頃の態度からして如何なる戦争の防壁にもならない。常に最大の戦争協力者であった。


この国、日本、は、「人間尊重」などでできてはいない。個人の自由生活の価値を何ら尊ばない神経には戦慄すべきものがある。尊ぶべき自由の意味・価値は、自由が「神」に関わるような個の圏にしかない。日本権力者にはそれに想到する教養感覚が無い。つまり、権力者もその一人である民衆にそれが無いということである。権力者も民衆も、非(反)創造的な動機から人を殺すことを好むのである。すべてが人命殺傷に至らないだけで、われわれはそれを日常いつもみている。そんな民衆が何で平和の砦になるものか。

〔大衆、庶民、よび方はどうあれ、彼等は知識を拾い集め世界を論じても、けっして責任をもってはやらない。集団は行動の責任をとらないと云うが、個人としても言動の責任を持たないのが、民衆なのである。責任を持たない、つまり現実にたいして戦略的に思考言動をしない。だから為政者が聞くわけがないのである。無責任な議論は、実際に大衆の力を誘導したい為政者にとって恰好なものとなる。大衆はほんとうの意味で「自分で動く」ということがない。動かされることによってしか動かない。報道記事のコメント欄にも、言動の責任を意識している論調などひとつもない。なるほどこれが大衆か。責任をもたないのは ほんとうにかんがえないことだ、ということを知らない。〕


外国に行くと、日本人は同胞を避けたがる。これは日本人特有の性向現象である。


日本人に関する記憶をよび起こすと、自分を何様と思ってか、第三者をみくびりけなすこと甚だしい者が多すぎ、暗澹たる気持になる。「本物」を見る目がない、自己の根底を欠いている自惚れ(そのため、不安を感じ、ほんとうに信頼することができない)。屡々、批判する者自身が最も日本的である。 ぼくの為すすべての批判は、そういうものとは根底が違う。読者はくれぐれもこのことを忘れないように(こういうことをはっきり言いきるのがぼく流であると、思いたい人は思っていただいてよい。ぼくは勿論、完全に意識して断定している)。




日本人のことをかんがえるとほんとうにうんざりする。そういうときは、ぼくや先生や彼女が日本人だと思っている。




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コメント録
〈米国カリフォルニアの高校で猫に学生証を発行〉
「こういう人間性はいいね。ぼくが大学にいた頃学内の敷地で学生達が外猫の家族をかわいがり世話し、段ボールで家を作ってやったら、守衛が火災の危険があるからと撤去、そして「野良猫」と規定し、秩序のために世話しないよう布告して回った。役職の鬼となるのが立派だとする風潮の日本。人間的感情は全部カット。この点はアメリカは自由の国、つまり人間感情の社会だね。公共組織もユーモアをもって人間的に対処するゆとりがある。 8月24日 3時47分」

〔ちなみにその外猫家族をもっともよく世話した学生はぼくで、守衛に踏まれて大怪我した仔猫を医者に手術してもらい-放っていたら死んでいた-治るまで自宅で介抱した。この仔猫の名が「太郎くん」で、ぼくのPCの名にしている。〕
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25日

ぼくの語彙にはない言葉のひとつが「許し」である。これは魂の本質と相容れない。高田先生は、自己を否定する力を拒否する力を欲した。魂を毀損する作用を、われわれは拒絶し得なければならない。これは許しの対極である。許しは魂に反するから、許しを信条とする者は(特にキリスト教徒などそうだが)、かならず偽善者であることを晒す。もちろん、ぼくも、祈りの恩寵によって、「許し」が可能になる如き精神状態があることを、自分の経験から知っている。宗教的経験はぼくには昔から親しいものだ。しかしいまそれがぼくに意味あることだとは思わない。ぼくは結論だけ言っているので、説明はしない。ぼくは先生同様、拒絶する力が欲しいのだ。自分の魂の純粋と愛の純粋状態を護りたい。「そのためには(それ以外の)すべてを否定したい」。これがぼくと先生の根本態度なのである。(こう言うと)ヤスパース自身ではない、日本の愚かなヤスパース学徒が言いそうなことは全部ぼくのほうが知悉している。彼らはほんとうに精神が遅れている。一度の生れ変りでぼくの境位に気づけたら、殆ど信じ難い奇蹟だ。「孤独」の意味を知らねばならない。 ぼくは、魂を反生産的動機で毀損した者は殺されるべきだという法が、天国にはあると思っている。許しの世界ではけっしてない。地上では不純な妥協によってこの天の法の執行は阻まれている。しかし純粋な者は突破者としてこの天の法を行うだろう。魂への罪のみが存在し、破壊的動機で魂を毀損する者のみが死罪に定められる。ぼくはこの、自分が思う天法を 根源的に肯定している。殺す動機が違う。もっとも、ほんとうに拒絶する力を得られたら 殺す必要もないだろう。いずれにせよ、許すなど問題にならない。拒絶は、内面での殺人だろう。マルセルは、彼ほど真に温和な哲学者はいないと思うが、それゆえにこそ、ナチスの非道政策に加担した者に、「私はいささかの寛容もぜったいに示さない」と自ら告白している。



ぼくはいま、自分が生きているとは思えないのである。死のなかに沈潜しながらなおこの世にいるという感覚だ。自分に強いているものなどなにもない。意志的意欲などまったく作動していない。 まったく偶々外の記事にコメントすることもあるが、まれである。書くことによって外の世界になお自分の存在を出現させることができるのが面白い。ほんらいぼくのやることではない。書くこと自体のために書く。




いま思いついたから書いておくが、子供が健全に育つためには学校などないほうがよい。賢い子ほど学校に行く必要はない。学校は必要悪で、消極的態度で充分である。家で親の手伝いもしながら自習する。わからないところをきく。今の学校は社会教育として良い場ではない。行かないほうがよいことが多い。悩み苦しむ必要のないことで死に追いやられる。ほんとうに賢い子なら点数競争に関心を示さないはずであることをぼくは断言する。自分で本を読む時間もない教育はおかしい。学校は読書の邪魔。自分で読んだものしか覚えない。教科書ほど本らしくないつまらないものはない。自習できないようになっている。教師のための教科書だ。ぼくはフランス語など自習教材で二か月で済ませた。すぐに原書を読みはじめた。語学教師は要らないのである。(発音、文法も、自分で完璧に押えられた。)自分でやる気がないなら教師も無駄である。ぼくの言うのは本質論であろうが、これがいちばん大事なのである。



ぼくの電子欄も出発(開始)期に書いた思想にふたたび円環回帰したつもりになっている。意図しなくてもそうなるのは思想にとって自己実証である。最初に書いたものがいま新鮮でぼくをよろこばせる。 (再)自分自身への手紙七‐十七

〔まめに読んでくれる読者が十人ほどはいるようである。感謝である。〕




 

 

je suis tout près de Toi

裕美さんの熱情、繊細、魂の力量を知った曲

最高の再生装置で聴くべきだ


 

 

 


島根、日本海の夕陽が曲の世界と合う





きみにふさわしい場所








ぼくは自分の実感と信念で どこまでもきみの価値を高め、
分際を弁えない連中を恥じ入らせたい。
愛ゆえの高貴な復讐をぼくは誓ったのだ。