自分の世界と使命を感じることは、一言で言えば、自分の志を感じることであると、この節でぼくは言っている。この志の感知こそ真のエリート意識である。これの無い者は世間の前で崩れる。はっきり公言するが、ぼくはこのようなエリート意識を肯定して生きてきた。この意識をいま再び取りもどし、再び肯定する。これこそ「積極的精神へ戻る  12月09日 03:33」の意味である。 

 

テーマ:

 

自分の世界と使命を感じる者は、他を相手にせず他に行為的に反応しない。 自分の世界と使命を感じない者には、これはできない。

 

すべて精神的に自律していない者は、他とのつまらない関係に生きている者である。それをすら生とよぶのであれば。 たとえば、だから日本人の多くは、他に映る自分の姿ばかり気にしているだろう。ほんとうに自分の世界と使命を生きていないからである。本音の中心は世間にある。どういう〈仕事〉をしていようとも。 

 

 

外国人は、そんなことはないぞ。自己の確立の仕方が日本人とは異質的にちがう。感じるなら、すこし恥ずかしいと思えよ、同胞よ、世間の侵入をゆるし、世間に拡散してばかりいる。きみたちの自己はどこにあるんだ(培っていないから無いだろうが)。愛嬌なんてたくさんだし、だれももとめてはいない。ほんとうに真面目になれ。かれらはそれができている。

 

 

 

自分の世界と自分の使命を結ぶ言葉は、志である。神という言葉を使わない神への志向である。自然体で自分を押し出していながら謙虚でしかも堂々としている外国人の公然たる秘密はここにある。日本人はまだかれらと肩を並べるなんて全然できないことは、明証的なことだ。 日本は、じぶんたちの歴史と伝統とやらをもっと反省し超克すべき段階だ。そうでなければ西欧と出会った意味が無い。

 

マルローの文化論も、そこで日本文化を褒められて自己満悦するならあだ花でしかなく、われわれがとくに西欧から摂取すべきものを反省し我有化する課題に気づく契機になるのでなければ、彼の雷が落ちるだろう。