ぼくはこの欄の最大の部分を「自分に向って」という主題枠で書いてきたが、最初によくこの主題名をつくったと思う。いま、高田博厚とアンドレ・マルローの各々の芸術論を接合しようと思索反省していて、マルローの「価値」と高田の「もの」とは、同じ、「自分に向って」行動すること、すなわち、自己沈潜的にこの現存在世界を超越することへと、誘うものであることに気づいた。ぼくがこの欄で書いてきたすべてのことも、この意味での、「自分に向って」超越することを目的とし意図とするものであったのである。すなわち、同様に「価値」と「もの」の磁力に引かれて「価値」と「もの」に向って超越する内面的運動であったのだ。 高田の指導観念といいうる「触知し得るイデー」は、端的に言って「もの」にほかならない。漠然とした現実ではなく、真の存在である。マルローが思惟した、人間精神がそこへと向って超越する「価値」も、それなのである。

 

ぼくが実存本能的に最初からやってきたことと、高田博厚の根本思想と、マルローのそれとが、この三つが、いまここでぼくの自覚において出会い結びついた。

 

 

※”336 「当体」の開く問題・手紙205” マルロー的超越と、高田博厚の「もの」