初年に書いたものであるが、まさに、「価値」からの呼びかけに応えるマルロー的超越と、高田博厚の「もの」の問題に収斂することを書いている。重要。

 

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「当体」という観念が焦点となってきたことを感じるが、この言葉に相当するフランス語は「ショーズ(もの)」‐ chose ‐であろう。その存在論的意味の重要性を強調するために頭文字を大文字にして「Chose」と記してよいだろう。精神が脱主観的に志向する「もの」であり、「精神的実在」として理解されるものである。これはマルセル的意味での「存在」に連なり収斂してゆくものだとぼくには思われる。この「存在」は形而上的・イデア的な性格を帯びており、われわれの意識からの独立性が承認されるものとして、件の「当体」として思念される。これに対して生物・霊界も含めた「物質的(形而下的)実在」の次元があるのであり、この次元自体の存在性と、われわれの「当体」の開く形而上的次元の存在性は、常に相互逆転的な存在論的位階関係にあり、この関係の動的要(かなめ)の位置に、われわれ人間の自己決断的選択意志は自らを見出すのである。これは、ヤスパースにおける、超越者と世界との間に置かれた実存の立場を想起させる。問題なのは、世界自体の不気味でデモーニッシュな自己保持的作用と、実存(魂)がそれとの関係でのみ肯定的に自己を見出す超越者(超在)‐トランスツェンデンツ‐のイデア的作用との間で、われわれは不断に熾烈な内的闘争状態に置かれているということである。