絶対的意識である「愛」の、千頁を超える開明的叙述であるヤスパースの主著『哲学』は、その核心的な「愛」を節題として端的に掲げている文章のみを挙げれば、ここでぼくが訳した僅かな分量のものである。『哲学』全文を読んでいる者のみが、この簡潔な「愛」の節を充全に理解するのであるが、これだけ読んでも、意義は相当大きい。愛をこの叙述の通り実践することは、本末転倒のことである。自分の愛を自分の経験として真実に生き反省し探求している者にとってのみ、ヤスパースの叙述は、確認の意味をもつ。場合によっては、ヤスパースの叙述の仕方に反撥してもよいのである。それが自分の愛の真実から生ずるのであれば。 

 ヤスパースの叙述を自分の思想の正しさの証拠のように出す者は、最も、ヤスパースの真意から遠い者である。ぼくはそういうつもりでヤスパースの叙述を呈示しているのではない。本物の思想の見本として出しているのである。本物の思想は教示したり命令したりしない。相手自身の思想をみずから確かめるよう促すだけである。



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 「本論」である「愛」の叙述のみここに呈示する。ぼくの訳業として全責任を負う。〔 〕内はぼくの随想。ここでは一部略した。

この凝縮されたヤスパースの叙述を聖典として毎日読めば素晴らしいことになるだろうと思う。 

 

 

'16. 3. 16

 

 

 

1. 愛

愛は、最も理由なく、最も自明であるゆえに、最も概念形成し難い、絶対的意識の現実性である。ここに、あらゆる「有意味的内実」(Gehalt)にとっての根源があり、ここにのみ、あらゆる「探求」(Suchen)の充実がある。
 良心 は、愛がなければ 途方に暮れたままである。愛がなければ、良心は空虚な公式の狭隘さの中に没落してしまう。限界状況の絶望 から解かれるのは、愛によってである。非知 は、愛の高揚のなかで、満たされた現実となる。愛は非知を担い、非知は愛に担われて愛の表現となるのである。眩暈を催して戦慄することから解かれて、愛によって存在の確信へとわれわれは帰還する。
 現存在における存在の深い満足は、愛が現前することとしてのみ、あるのである。「私は憎まないわけにはゆかない」ということは、現存在の痛みであり、「私は浅薄な無関心のまま愛しも憎みもしない」ということは、非存在の空虚さである。高みへ登ることは愛において生じ、落ちることは憎しみと愛の欠如において起こる。
 愛をいだく者は、感性的なものを超え出て或る彼岸に在るのではない。そうではなく、彼の愛は、内在的世界のなかでの超越者の、疑問なき現前なのである。素晴らしきものは此処と今に在るのである。彼は超感性的なものを観照していると自分で思う。実存は、自らの超越者に根ざした自己存在の確信を、ただ愛においてのみ見出し、他のどこにも見出さない。まことの愛の行為は、失われることはありえない。
 愛は無限なものである。愛は、対象的に、愛する存在を知るのではない。対象的に、何故愛するのかを知るのでもない。愛は、自分自身のなかで、〔愛する〕理由 を突きとめることはできない。愛からこそ、本質的であるものは、根拠を得ているのである。愛それ自身は、自らを根拠づけることをもはやしない。


 愛は明察力(hellsichtig) がある。愛の前では、存在するものは、自分自身を開こうとする。愛は閉じようとせず、率直きわまりなく知ろうと欲する。なぜなら、愛は、愛の本質契機として、否定的なものの痛みにも耐えようとするからである。愛は、本質的なことに目を閉じて「あらゆる善」をただ積み重ね、生気なく虚ろな「完全」の築城に携わるものではない。愛をいだく者は、他者の存在を直視しようとする。そしてこの他者を根源的に、理由をつけずに無条件で肯定するのである。愛をいだく者は、愛する他者が「在る」ことを欲する。


 愛において高揚現前する満足 がある。運動と安らぎが、改善と善性がある。そこには情熱的な努力があって、けっして目標(目指すところ)に達しているとはみえないのに、それ自体、特定の「この」形態において、時間の内での現象として、常に目標そのものの現前なのである。
 愛は、満たされた現在として、ただ頂上 であり、瞬間 である。だから愛は、ひとつの郷愁のような気持に取り巻かれているのである。完成されて現前しているような愛のみが、郷愁を解消するであろうが。
 愛は忠実として反復 である。その都度の客体としての感性的現在と私自身は、一度存在したものとして反復されることはない。反復は、その都度の現在として可能な形態のなかに包まれた、愛という永遠に一なる根源なのである。
 愛は「自己となること」 であり、「自己を捧げること」 である。私が真実全的に、保留するところなく自分を与える場合に、私は私自身を見出す。私が私自身を振り向き留保を固執する場合は、私は愛に欠け、自分を喪失する。
 愛はその深みを、実存から実存への関係のなかに持つ。そのとき、愛にとって、あらゆる此の世の現存在は、まるで私的な人間性を持っている(persönlich) かのようになる。愛をいだく者が自然を見る眼差しには、風景の魂が、自然の力の諸々の霊的なものが、あらゆる土地の守護神が、〔謂わば〕啓示されるのである。

〔上の最後の段落は、哲学者がひからびた精神の者達ばかりであるどころではないことの証として、ひじょうに興味深い。〕

 愛においては、唯一回性 というものがある。一般的なものを私は愛するのではない。かけがえのない(他で代えられない)ものとして現前しているものを愛するのである。あらゆる愛をいだく存在と愛されている存在とは、その都度(かけがえなく)結ばれているのであり、そのように唯一的であることによってのみ、失われることがないのである。
 愛においては、絶対的な信頼(Vertrauen) というものがある。満たされた現在(現前)(Gegenwart)は欺くことがない。愛による信頼は、計算や保証にもとづかない。 「私は愛する」ということは、賜物(Geschenk)のようであり、同時に私の本質(Wesen)である。私は愛において、欺かれることのない確信を持つ。もし私が取り違えをするとすれば、私は根源的に自分の本質に責任を負う(schuldig)ことになろう。真の愛の明察性は、取り違えをするということはない。それでも、愛が欺かないということは、私にとって奇蹟のようなものである。この奇蹟にたいし、私はいかなる功労も自分に認めないのである。ただ真正であることによって、つまり私の誠意ある日常行為によって、私は、適宜な瞬間に愛が私を摑むという可能性を準備することができるだけである。そして愛が私を摑むと、愛の前では、その準備的な前提条件はすべて無の様なものとなるのである。

〔上文の印象強い句に傍線を付した。ぼくの「本質」論と深く重なる気がする。愛が明察的に確信するものは、愛する他者の「本質」であり、同時に、愛をいだく「私」の「本質」である。そしてこのふたりの「本質」が、此の世の時間的変転のなかで一貫していることを、賜のような奇蹟と感ずるのである。ぼくが自分の本質的一貫性を、この異常な状態と状況の只中で感ずるのは、絶対的意識の働きの証のような、此の世の奇蹟のようなものである。愛である絶対的意識には、個の魂的本質を感知する明察力がある。「私」が、愛のこの明察力そのものに、何の貢献的付加もなしえないということこそ、自他の「本質」の愛による感知が、純粋で真正なものであることを告げている。それこそ、「存在」「在るもの」との出会いである。高田さんなら「在る美」の「触知」と言うだろう。これは「愛の現前」なくしてありえないのだ。〕

 愛は、闘いをふくむ交わりのなかにある。だが、戦いを欠いて所有物となった共同体の意識に逸脱したり、愛のない喧嘩に逸脱したりすることがある。愛は、尊敬しつつ仰ぎ見る(敬仰する)ことにおいてある。しかし、権威崇拝という依存性へ逸脱することがある。愛は援助の慈善行為のなかにあることもあるが、無選択な同情の自己満足に逸脱する。愛は美の観照のなかにあるが、審美的な無拘束性(Unverbindlichkeit)に逸脱することがある。愛は、未だ対象なき愛の準備という、限界のない可能性においてもあるが、酩酊状態に逸脱してしまう。愛は感性的欲望としてもあるが、ただ享受するだけの性愛へと逸脱する。愛は、開放性を求める根源的な知識欲においてもあるが、空虚な思惟やただの好奇心へと逸脱することがある。愛は、謂わば自らの肉体(Leib) として、数えあげられない無数の形態を持っているこの肉体〔に相当するもの〕が独立してしまうとき、愛は死んでしまうのである。どこにでも愛は現前し得るが、愛がなければ一切は無価値なものへと沈み込んでしまう。愛は心をさらってしまう力があるが、「人への親切心」や「自然への愛」に薄められる〔拡散される〕なら、まだ真の愛とはなっていない。そのような拡散された愛は、その根底に立ち返ってあらたに愛の炎を点火せねばならないであろう。

〔愛の本質は その窮極的な具体性と形而上性とにある。〕
 

 

〔以上、「愛」の項全訳〕