一年前の文 :
テーマ:自分に向って
きみと繫がれるのは きみの音楽によって 「もうひとつの別の王国」(un autre royaume)(マルセル)に運ばれてゆくことによってのみ。 ぼくは真剣にかんがえています
きみの魂にぼくはマルセルのようにきみの音楽のなかで触れ知るのだから
この世界にはじつは時空さえもないから だからおかしな現象も起きるのだから それに逆にぼくが自分から参入してきみと繫がりたい
念はまったく時空を超えるのだから ぼくはそれを知っているから
念にとって空間はまったく隔てるものではないことをぼくは知っている
時間は 永遠の現在の記憶的遠近にすぎなくて 実際は記憶とともに いまここ にあるのです
妙な現象はむしろ「別の世界」の実在性を示してくれている
きみの楽の音を きみのショパンやラヴェルを聴きたい!!
自分のために:
覚書・書留 裕美さんのバイブル 679
覚書 観念と判断 ・ 意識的主張性の存在退落性 878
讃 補遺 慟哭 雪 白と白 | ふざけるな 根本悪が審判される
覚記 さかさまの真実 (10日迄)
いまの世相をみると、ぼくの価値を認識する
「悪にはむかうな。それは悪をなすのみだ。」と云われるが、もちろんぼくは自分でそういうことをしはしない。しかしいまのいい気な風潮は言語道断だとおもっている。庶民、物識りを問わない。戦争や殺人は、こんな連中がいるかぎり、起こるのは当たりまえだと思っている。もちろん、裁く側もまちがっている。正気者こそがおかしい。だからこれは言いのがれができない。天罰を降らせよう
こういう連中と、ぼくがどう違うか、ぼくの欄をほんとうのいみで正気で読めば、はっきりわかるだろう。
「悪の華」! 此の世がそのものではないか!
こんな連中など触れたくもない さあ忘れよう
ぼくが、現在 他から潰される以前に、自分で自滅した(本来は短期間で終る疾病がこじれて正常な勉強ができなくなった)のは、その理由は、ひとつしかない。ぼくはあまりに真正の哲学感覚を持っていたから、その意識で妥協なく思想と生と格闘したから、体がもたなかったのだ。なまぬるいやりかただけはがまんならない(そういう日本的な生形態を、ぼくは本来許容出来ない)。体を労ることをしなかった。(ぼくは本当に軍人気質なのかもしれない。)生き延びるためにいいかげんにやるということだけは どうしてもできなかった。そのこと自体には誇りを持っている。 しかし現実結果は悲惨だった。体なしの精神だけでやれる世界にいきたい。 ぼくの希望はそれだろう。 死はなく、生のはじまりである
「名」より「惜しい」のは 誇りである 自分自身への。 自分の自分自身への誇り、これがない者はけっして真に謙虚にはなれない。相手を純粋に尊敬することはできない。
自分に自信と誇りがほんとうにないから、相手を自分のなかで解釈し観念的に位置づけることをやめないのです そういう者ばっかりだった!
そしてほんとうの自信と誇りは、他から与えられたり承認されたりするものではありえない。
世界から与えられる〈自信 誇り〉に沸く日本は、精神劣等国であることを自証している
そして巷は 自信のない者の自己解釈工夫安堵法紹介であふれている 精神世界
過去を正当に誇り得るのは、現在の自らの生き様との同一性が確かめられる場合のみである。 忠実
いっさいをぬくぬくしたたわむれ合いに融かしてしまうこの国の空気をぼくは心底きらう
西欧の観念性・概念性を嫌うという日本心性は、じつに伝統的に観念的ではないかとぼくはおもう。情緒性が観念性の衣を着て思惟思想として発言している。 逆に西欧思想の真骨頂は、じつに突き詰めた実感性である。意識性に徹底的に媒介されなければ情緒性は本質啓示的なものとして復活しない。情緒に直接に語らせてはだめなのである。〈空気〉を突破しなければならない。ヤスパースの「絶対的意識」のみならず これは西欧の精神文化全般から学び覚醒させられるべきことである。
これが、どんなにあがいても「意識」をもつ人間の宿命である。この内的努力を回避する〈楽したい〉日本心性は、幾度も代価を歴史で払うだろう
真の思惟を身につけなければ いかなる人間的自信も(謙虚も)ない。「高慢に陥らず正しく軽蔑する力」もここからくる 〔これが真の「高邁の心」(デカルト)だろう〕。
実存的決意によってこの欄を書き続けよう。
ザーナー氏も、親交を結ぶならぼくと結んだほうがどれだけ根源的に満足したことか!!!
「絶対的意識」というものについてしばらく書こうとおもっているのであるが、書きかたをすごく苦心しているのである。説述だけならあの概説者達と同じになってしまう。それではぼくが伝えたいことがにげてしまうので、一応の説述すらここでするのを自分に禁じている。これはぼくの精神本能的な感覚なのである。それにしてもいま原書を読んでいてあらためてかんじているのだが、このヤスパースというひとは、或るいみであきれるくらい功名心というものがないというか、そういうものを、書く時点で実存的決断によって切り捨ててしまったのではないか、と直感される。自分の使命と信ずるもののために。 ぼくは、説述はしないという決断をしている。これは相反するようだが、おなじ種類の真剣さから来ているのである。ヤスパースが己れの思想をまとめあげたものを、さらに略述するという 益なきことをぼくはしない。ぼくがこれまでこの欄で書いてきたことから、絶対的意識なるものを感得しないのであれば、概説は観念主義者を生むだけだし、感得しているひとには、よけいな、ないほうがよいことだろう。それで、書きかたに逡巡しているのである。窮極の事象について言葉で述べてしまうことの危険性。この点で、ヴィトゲンシュタインの哲学的沈黙は正しいのである。ヤスパースもよくそれを自覚しているので、それを意識的に述べた箇所を紹介する:
《 絶対的意識を開明することは、避けられない仮象を生むことになる。つまり、〔この、あらゆる対象的知を超えたものを〕ふたたび一般的で可知的な諸形式のなかで捉え、「良心」、「愛」、「信仰」、などと区別〔分類〕することになるのである。しかしながら、形式であるこれらの分類されたものは、これらによって開明行為のなかで志向される当のもの〔すなわち絶対的意識とよばれているもの〕ではないのである。これら諸形式は、カテゴリーのようにその対象とするものに適合するのではなく、ただ指示記号(Zeiger)のように、非対象的なもの、まったく現前的なもの、自由として存在するものを、指し示しているだけなのである。このような自由存在は、己れ自身の行為(Tun)のなかにのみ存在している。》 (II.258) - 解りやすいよう、かみくだいて訳してある -
ヤスパースの哲学的意識性は、自らの思想の伝達(論述)においても、じつに徹底して 方法的に貫徹されている。このような意識性(自覚性)を貫いているのが「実存哲学」という、概説的には〈非合理主義〉に〈分類〉されている思想である。学説分類というもののいいかげんさに気づく一端となろう。「科学性」ということでは、自ら精神医学の第一人者であるヤスパースのほうが、通常の哲学者と比べて一枚も二枚も上手であり、その「客観性」の修練を経て自覚されたのが彼の哲学である。
尊敬はあらゆる真の理解の条件である。それを持てなければ、理由(必然的に虚言となる)を言わず去るのみでよい。 ぼくが他者を批判する場合、それとは違う根拠がある。「実存」に根拠を持つ者と、「世間」に拠る者は、事柄への視点が根源的に全く異なる。
*ぼくの書くこと、書く態度のすべてを、実存的決断に基づかせよう。今迄も事実的に殆どそうしてきたが。
「悪の華」! 此の世がそのものではないか!
こんな連中など触れたくもない さあ忘れよう
ぼくが、現在 他から潰される以前に、自分で自滅した(本来は短期間で終る疾病がこじれて正常な勉強ができなくなった)のは、その理由は、ひとつしかない。ぼくはあまりに真正の哲学感覚を持っていたから、その意識で妥協なく思想と生と格闘したから、体がもたなかったのだ。なまぬるいやりかただけはがまんならない(そういう日本的な生形態を、ぼくは本来許容出来ない)。体を労ることをしなかった。(ぼくは本当に軍人気質なのかもしれない。)生き延びるためにいいかげんにやるということだけは どうしてもできなかった。そのこと自体には誇りを持っている。 しかし現実結果は悲惨だった。体なしの精神だけでやれる世界にいきたい。 ぼくの希望はそれだろう。 死はなく、生のはじまりである
「名」より「惜しい」のは 誇りである 自分自身への。 自分の自分自身への誇り、これがない者はけっして真に謙虚にはなれない。相手を純粋に尊敬することはできない。
自分に自信と誇りがほんとうにないから、相手を自分のなかで解釈し観念的に位置づけることをやめないのです そういう者ばっかりだった!
そしてほんとうの自信と誇りは、他から与えられたり承認されたりするものではありえない。
世界から与えられる〈自信 誇り〉に沸く日本は、精神劣等国であることを自証している
そして巷は 自信のない者の自己解釈工夫安堵法紹介であふれている 精神世界
過去を正当に誇り得るのは、現在の自らの生き様との同一性が確かめられる場合のみである。 忠実
いっさいをぬくぬくしたたわむれ合いに融かしてしまうこの国の空気をぼくは心底きらう
西欧の観念性・概念性を嫌うという日本心性は、じつに伝統的に観念的ではないかとぼくはおもう。情緒性が観念性の衣を着て思惟思想として発言している。 逆に西欧思想の真骨頂は、じつに突き詰めた実感性である。意識性に徹底的に媒介されなければ情緒性は本質啓示的なものとして復活しない。情緒に直接に語らせてはだめなのである。〈空気〉を突破しなければならない。ヤスパースの「絶対的意識」のみならず これは西欧の精神文化全般から学び覚醒させられるべきことである。
これが、どんなにあがいても「意識」をもつ人間の宿命である。この内的努力を回避する〈楽したい〉日本心性は、幾度も代価を歴史で払うだろう
真の思惟を身につけなければ いかなる人間的自信も(謙虚も)ない。「高慢に陥らず正しく軽蔑する力」もここからくる 〔これが真の「高邁の心」(デカルト)だろう〕。
実存的決意によってこの欄を書き続けよう。
ザーナー氏も、親交を結ぶならぼくと結んだほうがどれだけ根源的に満足したことか!!!
「絶対的意識」というものについてしばらく書こうとおもっているのであるが、書きかたをすごく苦心しているのである。説述だけならあの概説者達と同じになってしまう。それではぼくが伝えたいことがにげてしまうので、一応の説述すらここでするのを自分に禁じている。これはぼくの精神本能的な感覚なのである。それにしてもいま原書を読んでいてあらためてかんじているのだが、このヤスパースというひとは、或るいみであきれるくらい功名心というものがないというか、そういうものを、書く時点で実存的決断によって切り捨ててしまったのではないか、と直感される。自分の使命と信ずるもののために。 ぼくは、説述はしないという決断をしている。これは相反するようだが、おなじ種類の真剣さから来ているのである。ヤスパースが己れの思想をまとめあげたものを、さらに略述するという 益なきことをぼくはしない。ぼくがこれまでこの欄で書いてきたことから、絶対的意識なるものを感得しないのであれば、概説は観念主義者を生むだけだし、感得しているひとには、よけいな、ないほうがよいことだろう。それで、書きかたに逡巡しているのである。窮極の事象について言葉で述べてしまうことの危険性。この点で、ヴィトゲンシュタインの哲学的沈黙は正しいのである。ヤスパースもよくそれを自覚しているので、それを意識的に述べた箇所を紹介する:
《 絶対的意識を開明することは、避けられない仮象を生むことになる。つまり、〔この、あらゆる対象的知を超えたものを〕ふたたび一般的で可知的な諸形式のなかで捉え、「良心」、「愛」、「信仰」、などと区別〔分類〕することになるのである。しかしながら、形式であるこれらの分類されたものは、これらによって開明行為のなかで志向される当のもの〔すなわち絶対的意識とよばれているもの〕ではないのである。これら諸形式は、カテゴリーのようにその対象とするものに適合するのではなく、ただ指示記号(Zeiger)のように、非対象的なもの、まったく現前的なもの、自由として存在するものを、指し示しているだけなのである。このような自由存在は、己れ自身の行為(Tun)のなかにのみ存在している。》 (II.258) - 解りやすいよう、かみくだいて訳してある -
ヤスパースの哲学的意識性は、自らの思想の伝達(論述)においても、じつに徹底して 方法的に貫徹されている。このような意識性(自覚性)を貫いているのが「実存哲学」という、概説的には〈非合理主義〉に〈分類〉されている思想である。学説分類というもののいいかげんさに気づく一端となろう。「科学性」ということでは、自ら精神医学の第一人者であるヤスパースのほうが、通常の哲学者と比べて一枚も二枚も上手であり、その「客観性」の修練を経て自覚されたのが彼の哲学である。
尊敬はあらゆる真の理解の条件である。それを持てなければ、理由(必然的に虚言となる)を言わず去るのみでよい。 ぼくが他者を批判する場合、それとは違う根拠がある。「実存」に根拠を持つ者と、「世間」に拠る者は、事柄への視点が根源的に全く異なる。
*ぼくの書くこと、書く態度のすべてを、実存的決断に基づかせよう。今迄も事実的に殆どそうしてきたが。
