音楽と言葉は、人類の最大の創造だろう。このふたつは自然のなかに原形を直観できないから。 

 

 

いつまで生きているかわからないとおもっているほうが、まわりのものを知ろうとする愛がわいてくる。 

 

 

みな、じぶんは十全に生きたいとおもっている。これは自己肯定欲である。だからこれを限定する他者には反撥する。自分というのは無限なものだ。有限な判断力を超えている。そのようなものとして生きればよい。そういう感覚がはっきりしておれば、健全な生き方ができる。なまじの知や学が、この感覚を曇らせる。 「クリストフ」のセシル・フルーリイは、そういうものから自由な本性のある女性だった。だからその演奏はクリストフをおどろかせるほど立派だった。裕美ちゃんとそっくりだとぼくはおもう。 

 

 

 

 

モーツァルトのアダージオ ロ短調の、裕美さんの演奏を聴きたい。魂の聖水のほとばしるような神秘にとりつかれてしまった。クリストフがオリヴィエの魂の音色を知る曲である。(1. 8 23:56)… 

 

 

 

 

神と愛の方向を向くのは、この世界から離脱することである。 

 

この世界を向くと、不快なことばかりで安らぎがない。理性がいかに説こうとも これが事実である。 

〔正確には、この世の不快なことをも見るのが義務だと思って世界を向くから、不快は当然なのだ。すこしも魂が喜んでいない。そういうことを自分に強いるのが理性なら、理性は捨てればいい。この隘路を人間は終始行ったり来たりしている。これが事実である。それで疲れている。〕