〔公開日 23個別接続〕 

 

 

「人間」となるためには、いちど人間を否定しなければならない。それを高邁なデカルトは為したのだ。そうしなければ「人間」は一生、ただの人間の直接影響を受けることに甘んじなければならない。 

 ぼくのなかには、世間からみれば非人間的なものがある。これをぼくは決断して採用した。それこそは、人間的であるために善用すべき、人間の条件であるからなのだ。それを採用しなければ、人間的であるがゆえに人間以下のものに転落してしまう、それが人間というものだ。

 

 

 

 

「この二十五年間、理性と自由と生活を結婚させようとする、フランスのキリスト教思想の熱心な努力。その賞讃すべき僧たち。その一人が言ったように、彼らは「人間として洗礼を受ける」勇気を持ち、すべてを理解して、誠実なあらゆる思想を結合させる権利を、カトリック教のために要求していた。・・・ 苦しみこそ未来を開く。血と涙をもって固めなければ、永続するなにものも建設できはしない。それを承知で、彼らは晴やかな額をして、試練を忍んでいる。

 現実的な理想主義(イデアリスム)と熱狂的な自由主義(リベラリスム)の同様な息吹き・・・ 感動の力をもまた理性の力をも犠牲にすることのない自由な人間宗教を創ろうと、皆がけなげに競っていた。」 

 

     『ジャン・クリストフ』第七巻 高田博厚訳  傍線引用者    

 

 

 

 

読書では、「視読」では素通りしてしまう内容を理解するために、あえて「音読」に切替え、みずから引っ掛かって読まなければならない。粘土の可塑性の容易さに敢えて抵抗しなければ創造は成らないように。これを解らぬ者たちは、一生、思想なるもののなんであるかを、予感さえしないでただ喋るだけの者たちであり、これがほとんどの人々である。

 

 

 

世界的なピアニストの巨匠たちも、鍵盤は叩くな、と指導する。これは物理的な指示ではない。物理的に解されてはならない。演奏する者の「魂の生活」が、そこで判定されているのである。 深刻な指摘なのである。  

 

ピアニスト、プレスラーの言葉(そのまま): 

 

「私は世界中で何万もの奏者に出会います 

 音を弾ける人はいくらでもいる 

 でも心で感じている人は わずかです

 音楽で語ってほしいのです

 細心の注意を払って

 

 指で語る― 

 それでこそ意味のある演奏なのです

 

 音楽家より豊かで

 やりがいのある人生は考えられません」    

 

 

ここでだれが裕美ちゃんのことを思わないだろうか。厳密に裕美ちゃんのことを想起しなければ このすべての言葉は理解できない。きみは指で 細心の注意を払って、心で感じていることを語る音楽家だ。音色と同時に手指と体躯の動きと表情が、「音楽の思想」を真剣に表現している。My Baby Grand の貴重な録画を、皆が見るべきだ。

 きみは「指」で音楽を語る   

 

 

 

 

ぼくは自分の言葉をロマン・ロランの言葉と並べて記す。人間の言葉としてそこには質の相違はない。並べて自分の言葉を記せないうちは本物ではない。本物となる義務があり、それを敢行すべきである。はったりではできないこの義務を。      

 

 

 

 

人生や人間を舐めてかかると天罰をくらう。苦難が天罰だなどと、ぼくは言いはしない。浅薄なスピリチュアリストのように、すべては本人の責任だ、などとも言わない(これは逆の意味で世界を舐め人間を舐めており、それ自体天罰の対象である)。 真摯な者にのみぼくは同情する。そうでない態度の者には、同一現象が天罰と同じことになる。 

 

穏やかであるべきである。 そして世界を面白がらずに 先ず自分自身が真摯であることを学びなさい。      

 

 

 

 

 

 

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エリーザベト・レオンスカヤ ('16. 12. 18) にしても、上のメナヘム・プレスラーにしても、基本的なことを言っているのである。どうして同じ言葉を日本人の言葉として紹介することができないのか。日本全体が反省すべきことである。 馬鹿なスピリチュアリスト(具体的な数名を象徴的に思っている)が、自分が解ることもできない他人様にたいし、僭越窮まる無礼口をきけるような民度だからいけないのである。 示現流で斬ってやるわ。