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Suite  603   


notes(信仰)779 覚書・裸婦立像1971 


783 祈りの世界  







 
 

世の中で語られているものが真実や真理ではない。真実や真理はむしろ語られない、みずから表に出ることをしない地下水脈のようなものとして、誰の所有にもなることなく、出会われることを沈黙して待っている。何か絶対的な謙虚さをわれわれに要求するものとして。(誰も得々顔をして「そのとおり」だなどと言うことさえできない。)

誇りとは何だろうか。「比較」を超えた自分を確立する意志であり、真理・真実の前で真に純粋に謙虚となることができるための前提状態への意志なのだと思う。だから、誇りを持つ者同士は互いを尊重することができる。究極においてそれは比較優劣の意識ではない。比較意識をもったまま真に謙虚となることはできない。そんな〈謙虚〉は倒錯した不純な偽物である。それをわれわれはみな本能的に察知している。

われわれが素直に謙虚になれる相手は、美的(魂美的)に優れた者のみである。そのほかのいかなる者にでもない。

美とは、最初に言った真実・真理が、遂に「光」を発してわれわれの前に現われたようなものだと思われる。ついそれ以前にはむしろ暗黒のもののようにみえていたのだが。


  そういう美を示し現わすことが本来の芸術の道であり使命である。音楽はもちろんであり、絵画で端的に範例のように浮ぶのはルオーの画業である。この意味において芸術は祈りなのである。そのもっとも充実した意味において。



「美」を生みだす構造そのものがメタフィジックなのであり、それに真にとらえられているならばそのひとは宗教的信仰的なのである、本性的に。「祈り」にみちびかない美も芸術経験もないのである。


 ぼくがみずからの言葉を語るとき、その名を口にしなくともふたりとともにある。信仰にそれいがいの定義はない。










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ふしぎなもので、「作品」というものは、鏡をみて制作しているのでもないのに、制作者自身にいちばん似てしまうものらしい。先生の作は、気づけば先生にいちばん似ているものが結構多い。これは、内面と外面との間に本質的照応関係が存することを実証しているように思われる。

 

 






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ぼくも、高田先生がそうであったように、人が「右」か「左」かということに本質的に頓着しない。「美」と「人間性」はそういうものを超えた次元に根ざすから。第二次的な意識に映った世界の様相の相違におもえる、人を意識的に〈区分〉するようなものは。これが分らないことがいちばん困る。

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マイヨールはただ穏和(温和)なだけではない。そのずっしりとした存在感は、遙か紀元前の太古の遺跡の神像から受ける印象力のような、何か人間を超えた威風の力が宿っている。神的な品格というべきようなものが。なぜこういうものを「人間」が生みだし得たかが不思議だとぼくは感じる。そのくらい、作為性の払拭あるいは超脱が完璧である。人間の巨大さがちがう。


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高田先生作 裸婦立像 1971

 

 

 

 

 ぼくはこの像の実物をずっと以前東京の画廊の硝子窓越しに観ている。それ以来スフィンクスのように、このいかなる衒いとも無縁な、ただ神秘な幽玄のなかに在るかのような像が、ぼくのなかに生きている。両腕を欠き、姿態を拒否した姿態、これだけのものを「自らの根源から」つくれる、世界に通用する彫刻家が日本に他にいるとはおもえない。マイヨールと並んで置き得る唯一の作家だ。














何がこんなに惹くのか 
理念(秩序)が崩れない愛情の世界なのだ 
ふたりの世界は
祈りの世界


傷だらけになっても求めるものがある


祈りとは、魂の秩序の行為である


三つめ(メジャー二つめ)の君のアルバムを
聴いているよ 愛情の濃さ深さが
あるいみでいちばんにじみでているかもしれない
純粋な深さが
大先生のそれと同じなのだ
そして大先生において何をぼくが
愛していたかがわかる
それはね 大先生がひとを愛するかぎりにおいて
その愛情をぼくも愛していたということ
それは解っていたけど 自分で
でも君の曲をいま聴いていて
はっきりわかった
そして君をはっきり愛している

涙とともに書き留めた


〔君の愛情の「実存」である君の音楽を愛することは、君自身を、君の魂を、いちばん直接に愛すること。内部から君を愛し、君の外部をそこからはじめて想い愛すること。ぼくの、君を愛する秩序。〕








「存在する」ものが実存する。
「存在」は必ずしも「現実」ではない。
「イデー」が最も真に実存することがある。
マルセルも大先生もそれを言っている。
「触知し得るイデー」の世界が在る。
「美」とはこれである。

目の前にいても存在しない者等。

目の前にいなくても魂の目の前に直に触れて存在する君



水底の文字 曲を聴きながら涙の川
ぼくはもう抑制する〈義務〉から解き放たれてよいだろう










確言 こんなにひどい仕打をされて此の世と和解など不可能
 人間性が通じない ぼくと直接関わる者達はおかしい 生きていても存在しない連中 自分の歴史も捨て去って ふざけ役者に転がり落ちた 何のため 起こったことの意味が未だに分からない
 ネットの中だけがまだまともな世界のようだ



本質的に馴染みのことだから結論だけ言おう。この我々を導くかに見える超自然界が、うわべの善性に反してこれだけ でたらめで品性も情もなく、意図的悪意にみちているとは、僕でなくとも誰も予め想像がつかないだろう。だから、本心から「導く霊」の善性を経験したつもりで信じているすべての人々に言う: はやく、そのあやしげな影から距離をおくことを学び、どんなに粗末にみえても自分の判断で自立することへと舵をきりなさい。とくに、自然崇拝は悪魔崇拝に等しいことを知りなさい。みなさい、自然の様相を。自然の原理のどこに愛があるか。愛は、生命個体の自発性のなかに、全体的自然の掟の外にはみだすものとしてのみ、純粋に見出される。「個」のなかにしか見出されない。人間ならばこの「個」が「人間」主義の原理となり、ここにおいてのみ愛が原理となる。自然崇拝に浸された日本はけっして愛の国ではない。愛は人間主義においてのみ可能だ。先日も、立派な設備を管理している空港当局が、セスナの事故で足留めされた乗客を、建物内で夜を明かしたいという希望に、管理上問題があるからと夜外へ締め出したではないか。一事が万事ですべてこのようだ。多言無用〔29日2時〕(指摘されても、〈管理上問題はなかった〉といったそうだ)



ぼくが培ってきたものをおもえば、天の罪、周りの人間(に憑依した霊)の罪は、どんなにしても償えるものではない。この信念がなければ僕は崩れてしまう これがぼくの日常だ

すべての主題の収斂するところ (689)


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個人生活に集合的に容喙する悪魔は卑怯だ。善と精神のリズム、〈すべてはその時を持つ〉、ということを解っていながら、だから自分は善の精神と理解も持つ存在であるということを示唆しながら、まさにそのことによってぼくの意識に隙をつくり、「まあ、いまごろ気づいて実行してるの、もっと早くすればよいのに」、と通り人に言わせ、ぼくの内心をうろたえさせ、毅然とした主体性をくずそうとする。どうしてもぼくの独立安定した孤独の圏を壊し、従わせたいのだ。そのためにまるでぼくの協力者・共鳴者であるかのような反応の仕方もする。それならなぜぼくをいまの状況にまで追い込んだのだ。ぼくがこれまで〈天の導き〉であるかのように経験してきたすべてのことの裏に、悪魔の計算がなかったと誰が言えよう。悪魔はすべての魂を服従させ滅ぼしたい。そのため魂の機微のすべてを知り尽くしている、まったく神と同様に。世の中はそういうものであること、われわれが頼みとしたい霊的世界そのものが、善の仮面を演出しながら、われわれ以上に腐っている、確信犯の態度で腐っているらしいこと、このことをぼくはこれまで経験してきた、とおもっている。だからぼくは、精神を他律的にさせるすべての宗教は、悪魔の巣窟としか思えないばかりか、独立的信仰による自分の神の導きへの信頼のなかにさえ、悪魔はしたたかにしのびこむ、と言わざるをえない。ぼくが、おめでたいスピリチュアリズムを信用しない理由も解ろう。デカルトもまたそこまで懐疑してコギトの自覚を発したとぼくは理解している。それによって彼は純粋観念の神しか認めなかった。そしてこれを果敢に〈真の存在〉へ逆転した。これこそまことの信仰であろう。〈彼はいまでもわれわれより遙か先を歩いている〉と喝破したアランの真意もそこにあるとぼくはおもう。そして高田先生の人生への態度と人間主義の根本にもこれがあるときみは気づかないか。〈美は在るものである〉と先生が断じるとき、およそあらゆる予定調和的世界観など超出した、絶望を反転させた信仰、しかも必然的な人間主義信仰を、きみは気づかないか。人生において、どういうもののみが善であると認められるか、ようく想到させるではないか。