〔「羞恥」を訳す。これは大事だと直感する。これを訳するのが本来の「絶対的意識」へのぼくの関心だったと言えるのだ。〕
II. 287-291
3. 羞恥 〔抄訳〕
a) 心理学的羞恥と実存的羞恥。
・・・・・・
一般的なもののなかで生き、もはや「私」として感じることも思惟することもしない者は、羞恥を失っている。それにたいし、自らを可能的実存としての自分に拘束している者においては、自己存在のなかで、止揚されえない羞恥の根がありつづけるだろう。この実存的羞恥 は、心理学的羞恥 とは異なるものである。二つの羞恥はともに自己意識から生じるが、心理学的羞恥が、複数他者という鏡の中で個人が現存在として通用するかという意識から生じるのにたいし、実存的羞恥は、他者実存の前で非真理とされたり誤解されることにならないかという懸念から生じる。心理学的羞恥は、有限的〔比較相対的〕なものであり、経験的な個人としての当惑意識から動機づけられ了解されるが、それにたいし、実存的羞恥は、無制約的なものであり、一般的に把握することはできず、本来的自己から生ずる「保護態度」の働きである。 ・・・
実存は、心理学的羞恥における「至らなさ」の意識と類推的な仕方で、羞恥を覚える。なぜなら実存は、自らの客観化された姿そのものにおいては、常にひとつの弱さ の意識をも持っているからである。というのは、実存は、自らの客観化がそれだけで実存そのものととられ、自らの単に客観化された姿は同時に疑わしい現象にほかならないことが理解されない場合には、非真理とされるほかはないからである。実存は、自らが「実存である」ことを「主張」することはできない。実存として承認されるよう要請することはできない。「実存への意志」として実存をひとつの目標のように扱うことはできない。実存が発言し、そのように解釈されることしか起こりえない場合はいつでも、実存は自らの弱さを恥じる。実存は、単に間接的にであるほかは、客観的になることは許されない。したがって、「自分自身と他者達との前での実存の沈黙(Schweigen)」こそは、実存の作用する(実効性ある)現象の最も内面的なもの(das Innerste)であり、この最も内面的なものを時ならぬ仕方で(unzeitig)破ることにたいして、実存は羞恥心によって自らを防御するのである。
実存的羞恥は、客観的な共同存在の領域のなかで単独的個人が一般に実存として自分自身へと導かれる場合には、既に生じているのである。実存から実存への交わりが相互に同じ水準で率直きわまりない仕方で遂行されることがない のに、私自身が触れられるような場合、私は羞恥を覚えざるをえない。
実存的羞恥は、「距離をとること」を遂行する。この「距離をとること」自体はまだいかなる根源の実現でもないが、〔根源の実現の〕可能性を、砕け融け去ってしまうことから護るのである。
〔日本の社会一般水準、個々意識の、深刻な反省が必要である。屠殺対象がありすぎる。〕
b) 哲学することの特殊な危険にたいする保護作用としての羞恥。
実存的羞恥によってひとつの秘密が護られるが、この秘密は、しかし、意志をもって言表されうるようなものでもない。あらゆる言表はこの場合紛糾させるだけであろう。それゆえ、哲学としての 実存開明における言表行為 は、なるほど、一般的なもの の次元で自己開明の道を見出すひとつの試みではあるが、この自己開明は言表可能なものにおいて既に遂行されているのではない。この言表可能なものはただ道であるにとどまる。
それゆえ、ひとつの特殊な危険が哲学することそのもの から生じる。この哲学することは、思惟される構築物となって、「実存すること」の後に「開明すること」として従うか、諸々の可能性に呼びかける方法として先んじるかする。・・・
〔実存開明が〕誤解されたり、自ら誤解したり、それ自体に不実に滞留したりすることにたいして、哲学することにおいて羞恥が働くのである。この羞恥を、哲学することは、その都度突破する ことを敢えて為さねばならないが、それは、羞恥の作用をして、ただ可能的なものの直接性としてではあるが、客観的地平での最も決定的な諸形態のなかへ、自ら(哲学すること)を強制送還 させるためなのである。この羞恥は、表現方法の系列のなかを、論理学的なものから心理学的なものへ、そして形而上学的なものへと、上昇してゆく。羞恥は、思惟されたものの弱さ に付きまとうものなのである。・・・ 羞恥が止むのは、思想と表現が、あの純粋さ(Reinheit) を得る場合のみであって、この純粋さについては、ただ「哲学的な良心」のみが、〔判断の〕基準を持っているのである。あらゆる哲学する者は、つねに逸脱することも為すのであって、不純な表現形式、過剰な間接的表現、合理に過ぎる図式的態度等の責めを負う(schuldig)ことになるのである。〔ヤスパースは、「哲学的良心」の化身であり、これこそが精妙な「絶対的意識」の働きの核心である。この「良識感覚」(ボン・サンス)に甚だしく目覚めていないのが、日本のヤスパース学徒であり、その「責めを負う」意識が、自らの学問態度においても人間関係においても足らないどころか無自覚に過ぎる。あまりのそのお粗末さに、ヤスパースが泣いている。〕哲学する者は不断に、自らの羞恥によって導かれて、目標をもって仕事しなければならない。その目標とは、最も法外なことを、物怖じせずにあらゆる限界を越えて問題とし公式化しつつ達成しようとするが、しかし個人的な慎み深さの最大限を保つ、ということである。この目標が可能なのは、表現と思想が浮動すること(Schweben)によってのみであり、表現と思想がどこにも固着せず、固着へ誘いもしないが、開明作用すなわち覚醒作用をしっかり持ち得ることによってのみである。学問的研究において、理念の内実から生じる活力にとって、論理学的良心が統制作用をするように、哲学的な実存開明においては、実存意識の情熱から公式化へ至る思想と形像にとって、羞恥が、統制作用をするのである。
〔「実存意識の情熱」とヤスパース自ら言っていることが印象深い。「実存的羞恥」は、この真正の情熱の顕れである。声高に夜郎自大的に(自己)主張することではない。よく思いを致してはどうか。すべての者に言っている。〕
〔上文でヤスパースが、「羞恥が止むのは、思想と表現が『あの純粋さ』を得る場合のみ」、と言い、「あの」(jener)と、特別に思いを馳せる言い方をして、「純粋さ」(ラインハイト)をイタリックにしているのは、別格な強調の仕方である。ぼくも青で彩色した。言葉と表現が「当体」そのままと密接して隙が無いのである。「そのもの」が純粋に言葉と表現になっている。一元的な詩の言葉と造形、音楽の作品と演奏を思う。この志向するところはひじょうに重要な境位である。〕
c) 保護する羞恥と破壊する羞恥。
最も深い羞恥は、実存から生じる無限の沈黙としてあるものであり、この実存は自らを確信していると同時に自らを知ることはできないのである。この最も深い羞恥をもつ実存は、自分に気を向けさせたくない。自分を護るためである。不実な了解行為の無際限な渦の中に自分が自分自身にとって失われるのを見たくないのである。すべてはただ自ずとあきらかで、ごく自然で、人目につかずにあるべきなのである。世界のなかで、課題の諸々は慎ましく(schlicht)果たされるべきであって、実存は沈黙し、要求をするべきではない。それは実存が存在しないからではなく、実存が束の間の現実の瞬間にも純粋に保たれて、最も身近で親しい他者実存にとっては真実にあきらかに感得されるようになるためである。実存が世界のなかで自らの為し得ることを貫徹することに絶えず努めるのは、そうしてのみ実存にとって内実(Gehalt)が獲得されるからであって、口に出して要求することはしない。そのような要求行為は、目標として直に欲せられると喪失してしまうものを、目標にしてしまうことである。
護ろうとする羞恥は、それゆえ、こう問うことがあろう: なにゆえそもそも、語ることによって的中できないものについて語るのか? どうして端的に沈黙しないのか? なにゆえ羞恥を破って直接的にならねばならないのか? と。事実、もし、忘れられてしまっている諸瞬間においてだけではなく、持続している生活においても、確実に、信頼しうるように、根源にもとづいて生きられ、行動され、振る舞いが為されるならば、思想や言葉は必要ないであろう。しかし、ただ言葉を誤解することだけでなく、現存在(現に生存すること)そのものが、混乱紛糾させるものである ので、可能的実存は、「想起させる思惟」を必要とするのである。
〔いま、青で彩色した箇所は、殆どそのまましっかりとぼくの記憶に刻み込まれて、ヤスパースのどの書物のどの箇所であったかすっかり忘れていたが、この言葉だけは、いつもぼくの精神の眼前に呈示されつづけてきた。「本当にヤスパースは見通している」「哲学の存在理由の謙虚な根拠.」と、感極まったように余白に、嘗てここを読んだとき、ぼくは書きこんでいる。だからぼくは、思想の太鼓叩きをする連中を、内容以前に人格的にいっさい信用しないのである。ヤスパースが言ったからではなく、ぼくの感覚としてそうである。ヤスパースが確認させてくれたのが嬉しい。そういう連中でヤスパースをとりあげる器のあるやつはいない。〕
思想に対して羞恥が嫌悪を催すことは、それゆえ、両義的 となる。この嫌悪が真正の羞恥として保護作用を働かせるのは、誤った場所で、誤った意味で、時宜を得ずに語りが為されることになる場合であり、語りが真正でなく、語りが知識のように為される場合である。この場合、嫌悪は、哲学することの逸脱の危険に対して、防御する働きをするものである。
逆に、羞恥として呈される嫌悪は、自らを、自由の要請であるところの根源に対して保護 しようとすることがある。この場合、人は、自らの自由の可能性を想起させられることを欲していない。このような拒否を、嫌悪は、言葉をすら拒絶することによって一層容易にしたいと思っている。自由の可能性についてまったく語られないならば、この可能性そのものが消えてしまうかもしれない。実存に対する現存在のこのような、非真理である嫌悪は、哲学しないことの危険 である。
嫌悪が真正の羞恥である場合は、嫌悪は静かで沈黙している。この場合嫌悪は、そのうち反応する可能性としての、反応しないことである〔可能性を護るために反応を起こさないことであるが、しかし同時にやがて反応を起こすつもりでいる〕(ein Nichtreagieren als Möglichkeit des doch noch Reagierens)。嫌悪は、不実な「お喋り」がしゃしゃり出る所では、その場は穏やかに隠蔽をしておくのである。
だが、嫌悪が、「自己となること」の可能性に反対する防御である場合は、その憤激や声高な論争によって、疑わしくあるものである。まさにこのような、声を高めた羞恥としての嫌悪は、あらゆる羞恥の喪失と結びつきうるものである。
〔ヤスパースは、「自己となること」の可能性を護るために、公にたいし声を上げることを、勿論自らにも禁じていない。彼の戦後のめざましい政治的発言はそれを証している。「自己となること」の可能性を護るための憤激行為も、或る瞬間においては、自覚的に把持され決断的に遂行されることがあると、ぼくは思う。実存的羞恥を勿論全部自覚した上でである。よい確認をした。〕
〔「羞恥」の項ここまで〕
〔ヤスパースの語っていることは、最も普遍的な人間真理であり、最も優れた意味での「良識」の開陳である。それに気づくとき、一現代哲学の問題ではなく、簡潔に「哲学」そのものの本質が述べられているという落ち着いた雰囲気に包まれていることがわかる。〕