現存在における絶対的意識の保護
(Die Sicherung absoluten Bewußtseins im Dasein)
(Die Sicherung absoluten Bewußtseins im Dasein)
愛、信仰、夢想は、満たされた絶対的意識として、たしかに、この意識の純粋な現前である。しかし、経験的現存在においては、愛、信仰、夢想において思惟され形成された一切のものは、有限であって、絶対的意識の現象はかき乱される。
危険であるのは、思惟され形成されたものに、それが有限的なものであるにもかかわらず、絶対的真理であるかのように固着することである。つまり、思惟され形成されたものは、自分の客体的側面において自分を再認識する実存にとってのみ、真理である〔のが本来の姿なのだ〕が、この思惟され形成されたものが、〔それ自体として〕客観的に固定化 される のである。―― 経験的なものは、絶対的意識における実存のただ肉体なのであるが、この経験的なものが絶対的現存在として とられると、この経験的なものが持ち得る深みは消えてしまう。そしてこの経験的なものは、背景の深みを欠いた単なる現存在としてのこるのみなのである。
もうひとつの危険は、現存在において一切をただ有限で消え去るものとしてのみ見ることで、主観的不安静さという無土台感情 のなかで自分を喪失してしまうことである。
固定性に対しては、イロニー(Ironie) と遊戯(Spiel) が、あらゆる単に客観的なものを「浮遊」(Schwebe)の状態に保つ。客観性と実存とを取り違えることに対しては、羞恥(Scham) が抵抗する。不安静(Unruhe)に対しては、絶対的意識が充実して高揚するということがない時期に、それでも絶対的意識を根拠として、平静心(Gelassenheit) が、絶対的意識の可能性を確信することによって、働く。
〔充実状態の絶対的意識を、愛、信仰、夢想の諸相において開明的に述べた後、我々の生きる現存在状況そのものが絶対的意識の純粋性を混乱させることの自覚から、絶対的意識の本来性をこの我々の生存状況の混乱作用に対して保護する意識の働きを、様々の相においてヤスパースは述べる。絶対的意識の働きの精妙さがきわまる境域として、訳し表しておく気持を抑えがたい。噛んで含めるようなぼくの適意訳は、他のどこで望んでも見出せなかったものであり、それを読者はいまみているのである。ヤスパースに透徹するぼくだからできる、精緻かつ意を汲みきった訳であり、恩恵ははかりしれないと率直に自賛している。〕
〔観念知の追求を、「学問の道」と正当化しないで、現実へとびこむこと〕
〔現実の愛を生きることが生きることなのだ〕
〔ぼくの現実の愛を生きることいがいぼくはかんがえない〕
〔現実から自らを引き離すことは苦手になるだろうがそれでよい〕
〔「満たされた絶対的意識」を再読したことで充分成果があった〕
〔自分の意識の流れを生きるべきだ。ドイツ思惟はそれを阻害する〕
〔ドイツ語を読むことがもたらす意識の変容が嫌いらしい。概念形成が観念壁を現実との間につくる。そのなかで敢えて、いちばん惹く「羞恥」(Scham;シャーム)の項を、訳そうとしている。〕
II.287-291
3. 羞恥
a) 心理学的羞恥と実存的羞恥。
〔今迄無理をして訳してきたが、とてももはやできそうにない。ドイツ語の、枠原則のなかでの恣意的語配列に引き回されるのがもう嫌であるらしい。意識の流れに逆らう。この構造そのものに思想文化の特異な観念性を引き起こすものがあるらしい。フランス語との比較においてぼくはそれを感じる。〕
〔さあ、気をとりなおして、いちばん短い二項、「遊戯」と「平静心」を訳そう。〕
II.286-287
2. 遊戯
遊戯は、現実の重荷の一切ない生命活力の純朴な快楽としてある。遊戯は、現実からの強制作用から解放するものとして、無拘束的なものへの途である。笑いが、遊戯の快楽に伴うことは、イロニーの場合と同様である。
絶対的意識の契機として、遊戯による明朗化というものがある。真摯さに基づいて、可能的なものという空間で、何かが企画されるのである。このゆえに遊戯は価値内実を得る。遊戯はふざけることではない。
哲学することは、さまざまな考案を言葉にする営為としては、この意味で、ひとつの遊戯である。哲学する営為においてこれが遊戯であることを自覚していることは、絶対的意識を保護する働きである。この働きによって、〔哲学することの内容を〕客観的に固定化して無疑問的に真理であると見做すあらゆる態度が防がれるのである。いかなる言表されたものも、客観的に固定存立するものとして不可侵となるほどの重さをもつと見做されてはならない。〔これは言表された思想のことであって、「人間の尊厳は不可侵(unantastbar:ウンアンタストバール)である」(ドイツ連邦基本法1条1項)。〕あらゆる哲学思想もまた、再び相対化されるべきものである。「真理は客観的に言表されるべきものであり、そういう真理を所有していることは荘厳きわまりないことである」 という態度においては、遊戯〔の意識〕は忘れられている。そういう態度は、イロニーの眼差しの下で笑うべきものとなる。私は、客観的に定立したものに結ばれているのではなく、この定立を為したという責任に結ばれているのである。私は自分で定立したものを軽々しく傍らに置きはしないが、この定立したものの主(あるじ)であり、この定立したものに私を服従させることはしない。偽の真摯さというものがあって、これは哲学的客観性のなかでの遊戯の契機を忘れている。そして自らの根っこのところで吟味というものに自分を閉ざしているのである。この偽の真摯さは自由な真摯さではなく、もはや傾聴することも理解することも出来なくなっている。〔ドイツ的な学問理念学者にこういう偽真摯者がいる。ヤスパースの価値を理解できないどころか、一旦勝手に〈学的価値〉を自分が否認した思想家に関しては、客観的事実を告げても無検証に即座にその事実を〈そういうことはない〉と否定する。こうして彼は、日本のデカルト研究の第一人者である碩学が告白した自らへのアランの影響の深さを、自分がこの碩学の弟子であるのに、否定し、ヤスパースのことは〈二流だ、三流とまでは言わないが〉と断定して譲らなかった。この者はぼくの日本での指導教官であったが、他でも、「人間生成過程で欠落しているものがある」と評される言動を、ぼくにたいしてのみならず積み重ねていた。ぼくが失望したドイツからフランスへ渡る決心をした際、この者との縁を絶つのに何の躊躇もせず清々したのは当然である。許せないのは、学問態度の話題の際にぼくの個人的魂の深部をふかく傷つけたことである(純粋にぼく個人のみに限定した事柄ではなかった)。この者は意識してそれをやり、しかもその効果を自分で知っていてぼくの前でそれを表情に出してみせた。これで人間関係が何事もなく済むはずがない。今でも勿論許していない(許せる種類のことではない)。居座った俗物性を捨てない者は魂の敵となるしかない。〕 遊戯の意識を媒介してのみ、同時に真の真摯さが可能なのである。そのように、哲学する営為の〔積極的〕緊張は、「窮極の真摯さの発した言葉ではあるが、言葉であるかぎりこの真摯さそのものではない」ということ(このような緊張)として、保たれる。気ままな思惟の無拘束性と、究極的客観性とされるものにおける硬直性という、この〔二極の〕間で、真の哲学する営為が、このような、責任を自ら荷う遊戯の自由として、運動するのである。真理が存在するのはつぎのような境である、すなわち、哲学的思想のなかでの遊戯の意識〔が保たれること〕によって、歴史的現実の真摯さ〔こそ〕が高められる境においてである。〔「真摯さ」:Ernst:エルンスト。この箇所の余白にぼくはこう書いている:「思想をSpielと見做すのも、歴史性をこそ、現実、実体として捉え、その前では思想は透明となって、消え去るべきだからだ。即ち、感覚と経験こそ実体であり、基体である。」〕哲学することにおいて根底と根源への呼びかけ(Appell)を私が期待する場合、私にたいして、何か絶対的なものの憶測的に客観的な正当性が言表され、私はただそれを受け取るしかない、という場合には、私は失望してしまう。しかし、私がそこにおいて諸々の可能性を見ることを学ぶような遊戯としてなら、哲学することは真なのである。
〔まさにそういうものとして、彼(ヤスパース)の哲学は、我々自身が実存の可能性であるとの自覚をもって、知の認識ではなく、内面的に共振運動しながら、「共に哲学すること」として読まれるべきだろう。彼がどんなに自覚的でしたたかな思惟者か、部外者はめったに知らない。本丸を読み、しかも自分のものとしようとする者は殆どいないから。〕
〔「遊戯」の項ここ迄〕
II. 291
4. 平静心
平静心は、神経の安静として、まだものを見ることを知らない素朴な心の子供っぽい無邪気さとして、幸運な状況における生として、ある。絶対的意識の契機としての平静心は、諸々の限界状況のなかで自覚的にある(stehen)ものである。この場合の平静心は、いちどは獲得された背景としての、また、やがて到来するであろう可能性としての、存在確信の、その安らぎなのである。この平静心は、現存在のなかでの存在の高みとしての充実ではなく、現在的な決断が無い状態での確信の静けさなのである。この、「庇護されている」(Geborgenheit)という意識は、日常〔の生〕の可能的(あり得る)態度であり、基準となるものではなく、保護機能(Sicherung)なのである。この庇護意識は、有限的次元での何かの衝撃によっては破られることなく、この衝撃に耐えるが、実存が自ら決断しようとする情熱によって突破される。この沈黙する静けさは、限界状況のなかでの存在開顕に際しては止むが、この存在開顕自体、終極的には、平静心において再び自らの安らぎを見出すことになる。
平静心は、訓練されたストア的禁欲主義の無感情状態ではなく、状況が、このほうが快適だからと自分から出てゆかせない状態でもない。平静心は、「高みから遠く隔たっている」という状態のなかでの保護作用なのである。平静心は、存在が耀きをなくして私自身が自分に戻ってきていない(ausbleiben)状態のときに、私を受けとめてくれることができるのである。しかし平静心は自分自身において自分に満足しているのではなく、したがって待機状態にある(in Bereitschaft)のであって、自分から出て「運動」と「充実」のなかへ押し入ってゆくのである。
〔「平静心」の項はここまでであり、「運動」「充実」「保護」の三節より成る「絶対的意識」の章自体もここまでである。順序不同で訳出した。未訳部分の訳出を続ける。〕
〔訳し始めると熱中する。ヤスパースの文にはやはり彼の魂の熱が籠っている。問題は、彼自身指摘しているように、「思惟」と「自分」とのバランスだ。〕
〔「良心」 「イロニー」 「羞恥」が気になる。相当の量だ。訳しつつ読む。いちどはすっかりヤスパースの論述を自分の純粋探求のために忘れきっていたが、だから、再読すれば思い出すが初めて読むように新鮮だ。何を得るか、失いうるか、また、こういうヤスパース観念を覚えていることがいいことなのか、読まなければわからないが、これいじょう読むことじたいによって忘れてしまうぼくの感覚があることを警戒しなければならない。〕
〔いまのぼくにおいてなお大事なものという観点からは、「良心」と「羞恥」だろう。〕
プチジェヌヴィリエのヨット (Voilier au Petit-Gennevilliers)
〔画像除。
ぼくの記憶にあるのはこの印象。ずいぶんちがうでしょう。いちど、昨年5月18日の自節「「内なる祭壇」 796 加筆(高橋元吉とのことなど) 16 - 19日 」で載せた画像です。これは複製の写真ですが、欧州滞在時、はじめてパリを訪れた際、偶然、ぼくは公に展示されていたこの原画を観ています。やはりこういう感じでした。中学の時、この複製画の広告を観て大感動で、買えなかったけれど、その広告写真を切り抜いて自分の部屋の壁に今に至るまで、すっかり色あせたけど貼っています。それでこの絵葉書も見つけて買いました。でもこの憧れの複製画の印象はすごいですね。検索していてオークション品としてこの画像を見つけました。もう買われていました。欲しいですね、いまでも…
危険であるのは、思惟され形成されたものに、それが有限的なものであるにもかかわらず、絶対的真理であるかのように固着することである。つまり、思惟され形成されたものは、自分の客体的側面において自分を再認識する実存にとってのみ、真理である〔のが本来の姿なのだ〕が、この思惟され形成されたものが、〔それ自体として〕客観的に固定化 される のである。―― 経験的なものは、絶対的意識における実存のただ肉体なのであるが、この経験的なものが絶対的現存在として とられると、この経験的なものが持ち得る深みは消えてしまう。そしてこの経験的なものは、背景の深みを欠いた単なる現存在としてのこるのみなのである。
もうひとつの危険は、現存在において一切をただ有限で消え去るものとしてのみ見ることで、主観的不安静さという無土台感情 のなかで自分を喪失してしまうことである。
固定性に対しては、イロニー(Ironie) と遊戯(Spiel) が、あらゆる単に客観的なものを「浮遊」(Schwebe)の状態に保つ。客観性と実存とを取り違えることに対しては、羞恥(Scham) が抵抗する。不安静(Unruhe)に対しては、絶対的意識が充実して高揚するということがない時期に、それでも絶対的意識を根拠として、平静心(Gelassenheit) が、絶対的意識の可能性を確信することによって、働く。
〔充実状態の絶対的意識を、愛、信仰、夢想の諸相において開明的に述べた後、我々の生きる現存在状況そのものが絶対的意識の純粋性を混乱させることの自覚から、絶対的意識の本来性をこの我々の生存状況の混乱作用に対して保護する意識の働きを、様々の相においてヤスパースは述べる。絶対的意識の働きの精妙さがきわまる境域として、訳し表しておく気持を抑えがたい。噛んで含めるようなぼくの適意訳は、他のどこで望んでも見出せなかったものであり、それを読者はいまみているのである。ヤスパースに透徹するぼくだからできる、精緻かつ意を汲みきった訳であり、恩恵ははかりしれないと率直に自賛している。〕
〔観念知の追求を、「学問の道」と正当化しないで、現実へとびこむこと〕
〔現実の愛を生きることが生きることなのだ〕
〔ぼくの現実の愛を生きることいがいぼくはかんがえない〕
〔現実から自らを引き離すことは苦手になるだろうがそれでよい〕
〔「満たされた絶対的意識」を再読したことで充分成果があった〕
〔自分の意識の流れを生きるべきだ。ドイツ思惟はそれを阻害する〕
〔ドイツ語を読むことがもたらす意識の変容が嫌いらしい。概念形成が観念壁を現実との間につくる。そのなかで敢えて、いちばん惹く「羞恥」(Scham;シャーム)の項を、訳そうとしている。〕
II.287-291
3. 羞恥
a) 心理学的羞恥と実存的羞恥。
〔今迄無理をして訳してきたが、とてももはやできそうにない。ドイツ語の、枠原則のなかでの恣意的語配列に引き回されるのがもう嫌であるらしい。意識の流れに逆らう。この構造そのものに思想文化の特異な観念性を引き起こすものがあるらしい。フランス語との比較においてぼくはそれを感じる。〕
〔さあ、気をとりなおして、いちばん短い二項、「遊戯」と「平静心」を訳そう。〕
II.286-287
2. 遊戯
遊戯は、現実の重荷の一切ない生命活力の純朴な快楽としてある。遊戯は、現実からの強制作用から解放するものとして、無拘束的なものへの途である。笑いが、遊戯の快楽に伴うことは、イロニーの場合と同様である。
絶対的意識の契機として、遊戯による明朗化というものがある。真摯さに基づいて、可能的なものという空間で、何かが企画されるのである。このゆえに遊戯は価値内実を得る。遊戯はふざけることではない。
哲学することは、さまざまな考案を言葉にする営為としては、この意味で、ひとつの遊戯である。哲学する営為においてこれが遊戯であることを自覚していることは、絶対的意識を保護する働きである。この働きによって、〔哲学することの内容を〕客観的に固定化して無疑問的に真理であると見做すあらゆる態度が防がれるのである。いかなる言表されたものも、客観的に固定存立するものとして不可侵となるほどの重さをもつと見做されてはならない。〔これは言表された思想のことであって、「人間の尊厳は不可侵(unantastbar:ウンアンタストバール)である」(ドイツ連邦基本法1条1項)。〕あらゆる哲学思想もまた、再び相対化されるべきものである。「真理は客観的に言表されるべきものであり、そういう真理を所有していることは荘厳きわまりないことである」 という態度においては、遊戯〔の意識〕は忘れられている。そういう態度は、イロニーの眼差しの下で笑うべきものとなる。私は、客観的に定立したものに結ばれているのではなく、この定立を為したという責任に結ばれているのである。私は自分で定立したものを軽々しく傍らに置きはしないが、この定立したものの主(あるじ)であり、この定立したものに私を服従させることはしない。偽の真摯さというものがあって、これは哲学的客観性のなかでの遊戯の契機を忘れている。そして自らの根っこのところで吟味というものに自分を閉ざしているのである。この偽の真摯さは自由な真摯さではなく、もはや傾聴することも理解することも出来なくなっている。〔ドイツ的な学問理念学者にこういう偽真摯者がいる。ヤスパースの価値を理解できないどころか、一旦勝手に〈学的価値〉を自分が否認した思想家に関しては、客観的事実を告げても無検証に即座にその事実を〈そういうことはない〉と否定する。こうして彼は、日本のデカルト研究の第一人者である碩学が告白した自らへのアランの影響の深さを、自分がこの碩学の弟子であるのに、否定し、ヤスパースのことは〈二流だ、三流とまでは言わないが〉と断定して譲らなかった。この者はぼくの日本での指導教官であったが、他でも、「人間生成過程で欠落しているものがある」と評される言動を、ぼくにたいしてのみならず積み重ねていた。ぼくが失望したドイツからフランスへ渡る決心をした際、この者との縁を絶つのに何の躊躇もせず清々したのは当然である。許せないのは、学問態度の話題の際にぼくの個人的魂の深部をふかく傷つけたことである(純粋にぼく個人のみに限定した事柄ではなかった)。この者は意識してそれをやり、しかもその効果を自分で知っていてぼくの前でそれを表情に出してみせた。これで人間関係が何事もなく済むはずがない。今でも勿論許していない(許せる種類のことではない)。居座った俗物性を捨てない者は魂の敵となるしかない。〕 遊戯の意識を媒介してのみ、同時に真の真摯さが可能なのである。そのように、哲学する営為の〔積極的〕緊張は、「窮極の真摯さの発した言葉ではあるが、言葉であるかぎりこの真摯さそのものではない」ということ(このような緊張)として、保たれる。気ままな思惟の無拘束性と、究極的客観性とされるものにおける硬直性という、この〔二極の〕間で、真の哲学する営為が、このような、責任を自ら荷う遊戯の自由として、運動するのである。真理が存在するのはつぎのような境である、すなわち、哲学的思想のなかでの遊戯の意識〔が保たれること〕によって、歴史的現実の真摯さ〔こそ〕が高められる境においてである。〔「真摯さ」:Ernst:エルンスト。この箇所の余白にぼくはこう書いている:「思想をSpielと見做すのも、歴史性をこそ、現実、実体として捉え、その前では思想は透明となって、消え去るべきだからだ。即ち、感覚と経験こそ実体であり、基体である。」〕哲学することにおいて根底と根源への呼びかけ(Appell)を私が期待する場合、私にたいして、何か絶対的なものの憶測的に客観的な正当性が言表され、私はただそれを受け取るしかない、という場合には、私は失望してしまう。しかし、私がそこにおいて諸々の可能性を見ることを学ぶような遊戯としてなら、哲学することは真なのである。
〔まさにそういうものとして、彼(ヤスパース)の哲学は、我々自身が実存の可能性であるとの自覚をもって、知の認識ではなく、内面的に共振運動しながら、「共に哲学すること」として読まれるべきだろう。彼がどんなに自覚的でしたたかな思惟者か、部外者はめったに知らない。本丸を読み、しかも自分のものとしようとする者は殆どいないから。〕
〔「遊戯」の項ここ迄〕
II. 291
4. 平静心
平静心は、神経の安静として、まだものを見ることを知らない素朴な心の子供っぽい無邪気さとして、幸運な状況における生として、ある。絶対的意識の契機としての平静心は、諸々の限界状況のなかで自覚的にある(stehen)ものである。この場合の平静心は、いちどは獲得された背景としての、また、やがて到来するであろう可能性としての、存在確信の、その安らぎなのである。この平静心は、現存在のなかでの存在の高みとしての充実ではなく、現在的な決断が無い状態での確信の静けさなのである。この、「庇護されている」(Geborgenheit)という意識は、日常〔の生〕の可能的(あり得る)態度であり、基準となるものではなく、保護機能(Sicherung)なのである。この庇護意識は、有限的次元での何かの衝撃によっては破られることなく、この衝撃に耐えるが、実存が自ら決断しようとする情熱によって突破される。この沈黙する静けさは、限界状況のなかでの存在開顕に際しては止むが、この存在開顕自体、終極的には、平静心において再び自らの安らぎを見出すことになる。
平静心は、訓練されたストア的禁欲主義の無感情状態ではなく、状況が、このほうが快適だからと自分から出てゆかせない状態でもない。平静心は、「高みから遠く隔たっている」という状態のなかでの保護作用なのである。平静心は、存在が耀きをなくして私自身が自分に戻ってきていない(ausbleiben)状態のときに、私を受けとめてくれることができるのである。しかし平静心は自分自身において自分に満足しているのではなく、したがって待機状態にある(in Bereitschaft)のであって、自分から出て「運動」と「充実」のなかへ押し入ってゆくのである。
〔「平静心」の項はここまでであり、「運動」「充実」「保護」の三節より成る「絶対的意識」の章自体もここまでである。順序不同で訳出した。未訳部分の訳出を続ける。〕
〔訳し始めると熱中する。ヤスパースの文にはやはり彼の魂の熱が籠っている。問題は、彼自身指摘しているように、「思惟」と「自分」とのバランスだ。〕
〔「良心」 「イロニー」 「羞恥」が気になる。相当の量だ。訳しつつ読む。いちどはすっかりヤスパースの論述を自分の純粋探求のために忘れきっていたが、だから、再読すれば思い出すが初めて読むように新鮮だ。何を得るか、失いうるか、また、こういうヤスパース観念を覚えていることがいいことなのか、読まなければわからないが、これいじょう読むことじたいによって忘れてしまうぼくの感覚があることを警戒しなければならない。〕
〔いまのぼくにおいてなお大事なものという観点からは、「良心」と「羞恥」だろう。〕