自分にたいする他者の〈評価〉を推測することすら それだけで不純な行為である。「自分の真実」と向き合い一歩も出るな。ぼくのやっていることはすべて自分の真実のためで、そこには〈優劣〉の差は無い。

他者の〈評価〉を気にすることによって 自分がけがれるのだ。逆ではない。だって自分の本質は変わりようがないではないか。

自分だけがわかっていればよいことで、これはあらゆる〈評価〉の上にある。これが人生の真実である。これは誰でも言えることではないが。

「ぼくはけっしていやしい人間にはなれないのだ。自分の上の権威など、押しつけられたものとしてはぜったいに認めない。ずっとそうであった。」 記す

どんな恩義のある他者の〈判断〉でも ぼくはすぐに捨てる。「自分」には代えられない。 修正したってそれにはもう関心がない。

「ひとは自分が愛しているひとからしか学ばない」ということは、尊敬するひとからしか学ばないということだ。愛は尊敬であり自分より上の人間であることを認める唯一の動機である。ぼくは自分が愛していない者を自分より上の人間だとみとめることはぜったいにない。それよりも自分が愛する自分こそが高いのである。そして自分が愛するひとからのみ学ぶ。愛する自分自身から学ぶ。高いと認めるのは愛によってのみである。「理屈」はこれに勝たないのである。



ひとりの人間はじつに多様な表情をもつことは 多様な感情をもつことと同様である。その多様性を一思想観点によって否定すべきでない。多様性のまま本質において一元化すべきである。ルオーの画がそのようにして成ったように。
 (まして思弁による〈統一〉の問題ではまったく無い。)




思索(思惟すること)を真面目に体得しない日本人は、「仕事」の意味をじつに狭く解している。「生きる」ということの観念自体が貧困なのである。したがって「精神主義」も貧しくなる(貧しい精神主義)。


とっくに我慢と寛容の限界を超えて生きているぼくの存在自体が真の精神主義の証である。これを世人は普通に生きていると思い、寛容不寛容を言う。そういう世人じたいが不寛容いや狂態の標本である。ぼくの前で自分がなにさまのつもりか。ぼくがこう言うのはさんざん言語道断の思いを世人どもからうけているからである。