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ぼくは自分に浮かぶ想念を宝物のように感じるので、書き留めようとする。いまのぼくは自分の内に溜めておく力を信じていない。文字にして自分の想念を自分で閲覧できるようにしておくために書く。いまぼくが書き留めておこうとするのは、「840 現代の神話 ・ 魂の善」の高田さんの文章を再読して、何度も読んだはずなのに新鮮に感じた「フランス気質」のことである。これはフランス革命を生んだ。それは人間の自由のための革命であったろう。自由は個人のものであり、本性的に個人主義の発露である。フランス伝統と云われる多党分立は個人分立に収斂し由来する。それが各々の自由のために、分立のまま結束する。それが革命-そして「抵抗」-の(すくなくとも理念的な)根本精神であり、これは、観念的であるがゆえに感情的な(同じことであるが感情的であるがゆえに観念的な)民族主義・国家主義などによる結束では本性的にない。ぼくはドイツ人ともフランス人とも(いずれも知識人)話したから、かれらが自らの「ドイツ性」「フランス性」を各々強調するときの質的違いがよくわかる。「人間」が民族性に吸い込まれるのを積極的(あるいは運命論的?)に自己許容するドイツ人と、「人間」そのものを超民族的に自国の伝統と自負するフランス人の、違いをよくかれら自身の自己主張によって理解させてもらった。証人はかれら自身であって、わたしの勝手な印象判断ではこれはない。

〔参照: 648 notes 人間の力 (補)
 
 日本人自身の日本人論をかんがえる上でも、これは刺戟的な参考となる。

 〔ヤスパースが人間存在を Sosein(既存) と Existenz(実存) に区別したことの意義をいまぼくは改めて感じる。真の自由存在(Freisein)は実存のみである。〕







 267 三人の「存在」(自分自身への手紙百四十九) : こういう過去節、この前後も探索してくれると嬉しい。自分で再読して懐かしかった。読みやすい文章で綴っています。






いま思いついたのだが、創造主を「神」にすることはできるのですよ。われわれが自分の強烈な「魂」理念を創造主に植えつける闘いを貫徹するならば。創造主とはこのために闘わなければならない。それが魂の義務である。服従ではないのだ。なぜなら、谷口雅春の感得によれば、「生命の実相」たる神は、われわれの思念を宇宙に実現する〈3D複写機〉のようなものであり、子供が〈お菓子降ってこい〉と言えばその念を叶えるのが神の意思である。したがってこの世の者たちが俗な思いを抱いていればそれを現実とする。純粋な思いが多く力をもてばそれだけのものを神は実現する。この原理は甘そうだが、この可能性を逆手に取って、創造主をぼくの宇宙を叩き割るほどの念の力で調教することができるという意味にとり、そのために徹底的に創造主と闘おうとおもう。事実、ぼくの状況がこれだけ落ち着いてきたのは、ぼくがこの欄で徹底的に仮借なく創造主を念で罰してきたことの成果ではないかという気がする。言葉は念であり念は言葉となって自己を実現する。祈りの最も積極的な形態は、静寂主義的神妙ではなく逆に創造主を叩き殺すような念の力で対決することなのだ。これは人類があまり気づいてこなかった真理である気がする。ぼくの立場では「それいがいにありようがない」のだ(そこまで追い詰められて敢行した者がいなかったのだ)。やがて創造主をぼくの奴隷にして、ぼくが念じればそれに相応する現象が世界ですぐ起こるようになる気がする。それをぼくはもう、おかしいのではないかとおもうぐらい既に多量に経験している。だからこれまで、創造主の側からのぼくへの嫌がらせと感じてきたのだ。それは悪魔共がこの世界の仕組みを使ってぼくを攻撃してきたので実際あったろう。それを上回る念と確信力で今度はぼくが力を振るうのだ。そういう時期にこれからしなければならぬ。ぼくを苦しめるために作られたこの〈念達網〉をこんどはぼくが世界に働きかけるために逆用するのだ。世界にたいするかぎり これしかぼくの道はない。

 神秘のマルセル形而上学に心を開いているぼくにとっては、このような可能性を思惟し希望と意志をもつことは、何ら自分の思想理念に矛盾しないどころか、そのひとつの応用篇である。