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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

川崎大師周辺の散策
JR川崎駅で下車し京急大師線に乗車するため京急川崎駅に向かう、連絡
通路など便利な駅が多いがスムーズに乗り換えられない。JR川崎駅の北口が少しは便利なようです、後でわかったことですが・・・  
京急大師線は、京浜急行電鉄の創業路線である。    

《京浜急行・大師線》
京急川崎                         開業は、1899(M32)年1月に開業   
  ↓                                    当時の社名は、大師電気鉄道と言われた。
港町                                川崎大師の参拝客輸送を目的
  ↓                                   現在の 路線距離 4.5Km
鈴木町
  ↓
川崎大師
  ↓                   
東門前
  ↓
大師橋
  ↓
小島新田

京急川崎駅を出ると次が港町(みなとちょう)である。ホームに♬「美空ひばり・港町(みなとまち)十三番地」歌詞・メロディーがあった。♬「港町十三番地」は、美空ひばりの故郷である神奈川県横浜市と川崎市が舞台である。「港町」とは所属の日本コロンビアの本社・工場が川崎市港町にあったからと言われている。港町13番地は実際にあったが当初は9番地であったようで歌曲の後呂の良さから十三番地にされた。
駅間が近いせいか目的地である大師河原水防センター(大師河原干潟館)の最寄り駅である「東門前駅」に着く。歩いているとインドの仏教寺院?のような建物が現れる。広い駐車場があり、入口に「川崎大師 交通安全祈祷殿」とあった、車の交通安全祈祷場所のようです。

入口脇に「富士製鋼株式会社発祥の地」の碑あった。この会社は、大正7年(1917)に起業した会社で、昭和9年の製鉄大合同で日本製鉄に吸収され、以後、富士製鉄、新日本製鉄と変遷し最終的には「日鉄建材(株)」となっている。川崎市は、多くの工場が立地しているが、経済情勢により、この地区ではメルシャン・コマツ・いすゞ・日鉄建材など大企業が移転して、商業ビルや住宅地となっている。

大師河原水防センターは、川崎大師交通安全祈祷殿の裏手にあたる。
一級河川多摩川が流れ、対岸は東京都大田区蒲田で右手にモダンな大師橋が架かっている。広々とした河川敷にヘリポートがあり、さらに先に古い水門がある。「新日本製鉄水門」と言うそうで、祈祷殿入口の碑にあった「富士製鋼株式会社」(当時の社名・新日鉄)の敷地内にあった水門でバージ(はしけ)の荷役か待機場所と利用していたのでしょうか?、水門としての利用は長くはなかったようで、昇降する鉄扉は撤去され、水門の中にはボートが係留されてましたが、水防関係の監視船のようです。

大師河原水防センター(大師河原干潟館)に入る。1階部分が見学場所となります。干潟館の「だいし水辺の楽校」は、子ども達の自然体験教室で環境教育の場となり子ども達に人気の場所のようです。千葉県の干潟に比べ規模が小さいかと思ってましたが多摩川河口の干潟は、東京湾最大の河口干潟なそうです。館内の水槽には「カニ」「ハゼ」「シジミ」「小魚」などが見られるようです。その他、貝殻・木の実・カモ類が展示しています。

大師河原水防センター(大師河原干潟館)を出て、大師線の反対側にある川崎大師に向かう。「川崎大師・仲見世」額があり参道には飴・ダルマなどのお店が約30店舗が並ぶ。「とんとこ飴」が有名である、威勢の良い掛け声や飴をトントン切る動作を楽しみにしていたが、実演はしていなかた、いつ実演するのだろう?

参道の突き当りが山門で、表と裏に4体の仏像がある。山門を通った先に本堂がある、ここが川崎大師という通称で知られる、真言宗智山派の大本山「平間寺(へいけんじ)」である。1128年(大治3年)建立の初詣全国ランキング上位の人気のお寺である。平間寺は、平間兼乗が海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた。兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養し近くに小堂を構えた。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像にまつわる話を聞き兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)に平間寺を建立した。仏像が網にかかるところは、なにやら浅草寺と似たような平間寺(川崎大師)です。

大師線に戻り、、川崎大師駅から隣の鈴木町駅で下車する。目的の「川崎河港水門」は、ここから遠くはないようですが、鈴木町駅改札から右手に行きたいが、そこは「味の素(株)」の川崎事業所社屋がありました。ここの「鈴木町」の地名は、創業者・鈴木三郎助に由来するようです。そのため「味の素(株)」の社屋を遠回りし「川崎河港水門」へ。

この水門は、多摩川から川崎市内を縦断する運河を造ることが計画され、多摩川改修工事1918年(大正7年)の一環として、運河と多摩川を仕切る水門として、1928年(昭和3年)に竣工した。建設費用については「味の素(株)」が寄付金として負担している。現在も水門付近は、味の素の管理地となっている。この建設計画は完成はしたが、社会情勢の変化により運河建設改革は中止となり、運河は水門近くの船溜まりと水門自体が残った。ミニ凱旋門のような水門は、上部に川崎市の市章と当時の川崎の名産であった梨・ブドウ・桃などの装飾がある。1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録された。

次に川崎宿の見学計画も考えていたが、9月に入っての猛暑が続き、熱中症を考え終了とした。


【参考資料】
・ウイキペディア
・発祥の地コレクション
・水路をゆく、第二運河
・たびらい
・平間寺(川崎大師)
・Google Earth

午前中の桶川中山道の散策から、午後の「さいたま文学館」の記念講演を聴きに訪れた。
会場の「さいたま文学館」は、埼玉県の施設として1997年(平成9年)に開館(管理は外郭団体)、文学に関する資料の収集、展示、調査研究や文学の振興を行っている。仕事の関係で訪れたことがあるが、20数年経ってましたがモダンで綺麗な施設です。

今回の記念講演は、「中世・近世の文学でたどる埼玉」の関連事業で、「江戸の旅と宿」と題し講師・大石学氏です。大石氏(東京学芸大学名誉教授・静岡市歴史博物館長)はTVに歴史・地理(古地図)で講師役で出演されている方です。

講師のレジメには「江戸時代の旅と文学」となっていますが、これは企画展に合わせたと思われる。

大石氏は、江戸時代が貧しい・封建的であるというイメージが変わった。
〇畿内首都から江戸東京首都へとなり、五畿七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海諸道)から五街道への交通インフラ再編され、「徳川の平和」と「江戸の教育力」が進んだ。250年間戦死者がない、戦国時代からの価値観が変わり、教育力が高まり力によるものでない、法律の社会となった。
・織田信長は近隣を潰しながら拡大し、豊臣秀吉は「北条」だけを潰した。豊臣秀吉の「惣無事」*1政策に続いた「徳川の平和」があった。戦争をやめると家が続く、日本のお城で今残っている城は戦争を体験してない。江戸の平和を庶民も自覚していた。
*1>豊臣秀吉が「惣無事令」を出し、大名間の私闘を禁じた。
・三浦浄心は、「慶長見聞集」で、「・・・今は国治り天下大平なれば、高きもいやしきも皆物を書きたまへり、・・・」平和になったから学ぶ事ができたと表している。
・レオン・ロッシュ(仏国公使)は、将軍家茂宛ての上書で「二百五十年の間、国内泰平にして目に干戈(カンカ)*2見ざるの洪福(コウフク)*3を保てるは、世界に聞きたる例なき所なり」250年間も戦争の無いのは外国でも例がない珍しいとしている。
*2>タテとホコの意味で武器・武力・戦争を表す
*3>大きなさいわい

泰平の世を表す川柳などが紹介された、「〇米艦渡来 名にしおふ 大阪陣の まゝなれば 錆たるつるぎ とぐよしもがな(早く研ぐ方法があればいい)」「御具足は 春と夏に 見るばかり」※虫干しで見るだけ「太平の 矢狭間は風も ぬけぬなり」「泰平の 武者は五月に 出るばかり」「泰平の 鎧は虫が うらをかき」平和ならではの川柳で面白い。

〇江戸庶民のリテラシーと旅
五街道の整備とともに、旅行ブームが到来した、①信仰 ②湯治 ③商用 ④観光 ⑤奉公などであるが、「旅行用心集」なるものが発行され参考にされた。その他にも、道中用心六十一条・木曽路勝景里数・寒国旅行心得之事・毒虫を避方・落馬したる時の方・道中所持すべき品の事・駕籠に酔ざる方・道中日記したゝめ方之事など、至れり尽くせりである。「東講商人鑑(あずまこうあきんどかがみ)」では、各地の安全な宿や店などを記したガイドブック。袂に入れ持ち歩きに便利な実用書など今と変わりがない。


〇東海道中膝栗毛と続膝栗毛について
「旅行ブーム」は、近代になって始まったわけではない。今から約300年前の江戸中期に起こった。すでに江戸前期、参勤交代制度のもと、全国約260の大名たちが江戸と国元を往復し、商品経済が発展するのと相まって、街道・宿場・港湾などの交通インフラが列島規模で整備された。江戸中期には、庶民生活が向上し、文化的関心が高まるとともに、旅行ブームが起きた。このブームを背景に、全国各地の名所案内、温泉ランキング、道中双六、浮世絵、ガイドブックなど、さまざまな出版物が刊行されブームを煽った。「旅行用心集」には、旅日記をつけることを奨励し、「道中にて名所、旧跡を尋ね、風景の能所(よきところ)、又ハ珍敷物(めずらしきもの)等見聞たるならバ、何月何日何所にて何を見ると、有りのままに書付もし、詩哥(歌)連俳等の句、心にうかミたらバ、連続せずとも其(その)趣を日記にしるし置べし、又山川の真景(けしき)を認るも、其通り見たるままをを写し置き、追而(おって)帰国の上、取立清書すべし、詩哥もつつり、絵図もよく書んとすれば、道中する邪魔になりてよく出来ぬものなり、心得あるへし」とあり江戸庶民のリテラシーの高さ、歴史・地理などへの高い関心が窺える。
こうした旅行ブームの成果の一つが、「東海道中膝栗毛」であった。「膝栗毛」とは、「馬やかごなどの乗り物に乗らないで、徒歩で旅行すること」、すなわち膝を栗毛(馬)の代わりに使うことをいう。「東海道中膝栗毛」と「膝栗毛」は25冊出版された滑稽本で、ストーリーは、江戸育ちの弥次郎兵衛が、旅役者の北八と二人で、伊勢参りをする道中記である。狂言・小咄のパロディー、ことば遊びを含む俳諧・川柳などがふんだんに加えられ「おち」もついており、旅行案内記も兼ねており、爆発的なベストセラーとなった。日本最初のプロ作家ともいわれる、一九の辞世の句も「此の世をば どりやお暇(いとま)に 線香の 煙とともに ハイ(灰)さやうなら」と、いかにも彼らしいものであった。

江戸時代は、庶民の文化・芸術が花開きました、大石先生の系統だった資料・講演により江戸庶民が250年間の平和によるリテラシーの上で成立したものであったことが理解できました。これは現在でも通じることでないでしょうか。 

【参考資料】
・さいたま文学館
・記念講演資料(大石学氏)
・ウイキペディア

埼玉県桶川市を訪れたのは、東京学芸大学名誉教授 大石学氏の講演が「さいたま文学館」で行われるため、早めに訪れ中山道桶川宿を散策した。

桶川市は、埼玉県の中東部に位置する7万4千人の市である。江戸時代の五街道の一つ中山道の日本橋から数えて6番目の宿場町で日本橋から歩いて日暮れどきが桶川あたりで(50k圏内)、宿場町として栄えました。旧中山道を歩いていると宿場町としての蔵作りが点在し比較的面影を残している。また、江戸時代から栽培されている紅花は、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」として知られ、山形県最上地方についで2番目の収穫量がありました。
桶川市の多くが大宮台地上にあり最高点が海抜25mでJR高崎線桶川駅付近は起伏が少ない。
地名の由来については、不明のようで文献上は1352年(観応3年)の足利尊氏の家臣への下文に「桶皮郷菅谷村」と記されたのが最古であるが、菅谷村は現在の桶川市ではなく隣の上尾市のためはっきりした由来は不明のようであるが、二つの仮説が云われている。
仮説1>「沖側」のオキは広々とした田畑の意で、その方向である「沖側」が訛ったというもの。
仮説2>「起き川」に由来-芝川、鴨川等の水源が有ることから川が起こる所すなわち「起き川」になったというものである。
今まで、「桶」からきていると思っていましたが間違いでした。

桶川駅下車し東口から旧中山道に向かう、途中、浄念寺に立ち寄る、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が修行のための草庵を創建、小金東漸寺の團誉桂全善壽上人(文禄4年1596年寂)が開山したといいます。江戸時代初期には、桶川宿の領主西尾隠岐守吉次が、地蔵菩薩像・薬師如来像を奉納、明治維新に際しては、廃寺となった南蔵院の不動尊像を当寺へ移設、桶川不動尊として信仰を集めているといいます。山門が立派なお寺です。

旧中山道の最初が武村旅館です。中山道の桶川宿にあった旅籠の姿を今にとどめる。江戸時代の間取りが今なお残されている。国登録有形文化財に指定。現在この建物には宿泊できないが、隣接してビジネスホテルがある。

旧中山道を北に向かうと島村家住宅土蔵がある。土蔵なので通りには面していない。1836年の建築で土蔵造3階建、瓦葺、建築面積71㎡の桁行6間,梁行3間規模,切妻造土蔵である。島村家は中山道桶川宿に店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家でこの土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が餓えから救われたことから、「お助け蔵」であったと言い伝えられています。
 現在は黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建設当時の島村家の勢いを感じさせる堂々とした作りの土蔵です。屋根の両端にある鬼板には、屋号の木嶋屋の「木」の字が 刻まれています。土蔵で3階建てというのは珍しい建築物です。(桶川市で唯一、第一土曜日に内部公開されています)

「島村老茶舗」
江戸末期創業、店舗奥の母屋は、その時に建てられた。屋号は、「丸木」といい家業の紅花に加え、狭山茶、静岡のお茶や紙も扱っていた。1926年に、街道沿いに木造2階建ての店舗を新築した。国登録有形文化財

「小林家住宅母屋」
江戸末期に旅籠として建てられた。現在はギャラリー&カフェとして営業。
文久元年(1861年)の和宮御下向の割書上には吉右衛門の名が記されており、その「吉」の名は主屋の鬼板に刻まれています。現在の内部は多くの部分が改修されていますが、外部には旅籠の面影がうかがい知れます。国登録有形文化財

「矢部家住宅」
道路に面した土蔵造りの「店蔵」とその奥へ続く「住居部」と「文庫蔵」で構成されます。店蔵は明治38年築。
木半の屋号で知られた穀物問屋で、かつて江戸時代に紅花商人としても活躍していました。店蔵は矢部家第6代当主矢部五三郎氏によって建てられ、棟札には、川越の「亀屋」建築に係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶、石工らが名を連ねています。桶川の歴史を物語る桶川宿の「顔」ともいうべき立派な建物です。桶川市指定文化財
訪れた日は、入口に残念ながら工事幕が張られておりました、中山道宿場館の話では車が飛び込んだとの話でした。

「本陣跡」
門の奥に本陣の遺構があるが、非公開。桶川本陣は、加賀藩・前田家などの宿所だった。埼玉県・桶川市指定文化財。

桶川宿の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取引されるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年頃)には家数347軒に達しています。
宿場としては、加賀百万石前田家をはめとする参勤交代の大名や、徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。近世最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向には一行の宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割をはたし、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。
明治に入ると時代の変化とともに中山道は衰退し、宿場の役目も終わり、紅花も輸入品や化学染料に変わり衰退した。1883年には中山道に沿うように高崎線が敷設、1885年に桶川駅が設置された。現在の旧中山道は、シャッター店舗もあり再開発の遅れが目立つが、それが古い商家が残り旧中山道宿場としての面影を感じさせる所以かもしれません。

最後に「中山道宿場館」で休ませていただき午前の旧中山道の散策は終了となりました。


【参考資料】
・ウイキペディア
・猫の足あと
・文化遺産オンライン
・桶川ウエブ
・じゃらん
・桶川市
・桶川市教育委員会
・中山道宿場館
・桶川市観光協会