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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

副題として、~家康の威光と物語が広めた憧れの霊山~とある。学校では出羽三山について教えられた記憶はないが、月山や羽黒山は山の名前で地理で知っていたが。月山、羽黒山、湯殿山のいわゆる出羽三山については小さい頃の記憶にあるが具体的には聖地であることのみで、今回の講座はいい機会であった。
講師は、山形大学名誉教授の岩鼻通明氏である。

ここでは、岩鼻氏の講座の際のプレゼンテーション資料を中心に紹介します。

はじめに
江戸時代、東北・関東一円の信仰を集めた出羽三山。なぜ、中央から遠く離れた霊山へと人々は参詣したのか。隆盛の鍵となる人物を軸に、三山が再興されていった時代に光を当て、その名を広めた幕府の威光やさまざまな物語に迫る。                                                                         山形県⇓     

♢パート1♢  ー羽黒山中興の祖・天宥と江戸時代の出羽三山ー
江戸時代の初め、羽黒山第50代別当となった天宥(てんゆう)。彼が羽黒山中興の祖といわれるのは、徳川家康の宗教政策がもたらした出羽三山の危機を回避した業績に由来する。
家康の寺社法度は修験者の統括を目的とし、全国の修験道場は天台宗系の本山派と、真言宗系の当山派のどちらかに属さなければならないとされた。地方の修験の山々はそれまで独立性があり、峰入りという修行で独自に修験者の資格を与えていた。
これに対し天宥は、家康の側近・天海と結んでとある奇策を講じ、出羽三山の従来の地位と機能を守った。しかし、それは三山を天台宗派と真言宗派に二分する論争を生む。さらに、自身の失脚を招くばかりか、後の世にも軋轢を残すことになる。出羽三山は、そもそもどのような霊山なのか。古代からの変遷と天宥の策略を見ていく。
出羽三山中興の祖・天宥、芭蕉、お竹という三人の出羽三山の関りについて話したい。
*月山がありますが、標高1984mの火山ですが山頂に本宮が祀られています、麓に*湯殿山・羽黒山があります。
*月山は>「西の伊勢参り、東の奥参り」という言葉もあり一生に一度は参拝するべき場所として有名、出羽三山の主峰である。月を象徴する神として死後の世界から蘇りを司る霊山である。火山活動は30万年前が最後でその際に山頂部が形成された。山麓は湧水群があり、「水源の森百選」にも選定されている。氷河の地形も見られ夏季(旧暦)にも関わらず残雪が見られて、月山を訪れた松尾芭蕉は、奥の細道で「雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に人かとあやしまれ、息絶身こごえて、頂上にいたれば日没して月顕わる」と記している。
*湯殿山・羽黒山>修験道の霊場でもある。

月山、羽黒山、湯殿山で現在・過去・未来を表しています。
湯殿山が出てくるのは江戸時代以降です。江戸時代始めに葉山に変わって湯殿山が出てきます。
江戸時代の出羽三山の登り口は、「八方七口」と呼ばれる七ヶ所の登り口がありました。それぞれ*別当寺というお寺があります。七口の登りが天台と真言に分かれる形になります。羽黒口、肘折口、岩根沢口が天台宗、七五三掛口、大網口、本道口、大井沢口が真言宗が登り口になります。特に湯殿山の祭事をめぐって天台と真言が対立する事が江戸時代には何度も繰り返されました。
*別当寺>神仏習合の江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のこと。


「三山一枚絵図」は、参詣のお土産に持ち帰り用に作られました。この絵図は、実際の地形配置とは違い宗教観に基づいて書かれた物になります。


♢パート2♢ ー出羽三山の名声を広めた芭蕉の旅と参詣ルートー

1689年(元禄2年)3(新暦5)月、松尾芭蕉は東北を巡る旅に出る。天宥の失脚から20年ほどを経たころである。芭蕉はこの旅で出羽三山に詣でて、1702年(元禄15年)に紀行文『おくのほそ道』に3句を載せた。

元禄は、庶民の間に「旅」という娯楽が広まり始めた時代。『おくのほそ道』は図らずも、出羽三山の名声を高めることに貢献した。門人をはじめとする芭蕉を慕う人々が紀行を読んで三山に詣で、それが庶民にも波及していったのである。
だが、芭蕉の出羽三山詣でには奇妙なところがある。登拝ルートが当時の慣例と異なるのだ。しかも、かなりの強行軍であり、羽黒山での滞在期間も異例に長い。そこには、何か秘められた意図や背景があったのか。同行した弟子の曾良が残した詳細な旅日記から二人の参詣ルートをたどり、天宥後の出羽三山の姿を探る。

出羽三山の名声を広めた芭蕉については、出羽三山の句を読まれています。

一般的には湯殿山論争絵図と言われる物ですが祭事の権利を巡って天台と真言が争った*「両造法論」という裁判に作られた絵図。
羽黒山(天台)、月山(天台)、湯殿山(真言)が裁定の山となり、両者の境界が存在し、高札場・装束場が境界であったと言われている。


*両造法論>登拝とは信徒が山頂登拝する信仰活動であり、檀那場(だんなば)との直接的な関係を持っていた。檀那場とは特定宗派の信仰圏・経済圏のことであり、今風に言えば“縄張り”である。他は霞(かすみ)と呼んでいた。
登拝口は各宗派の法流に従うことで、里山伏の稼ぎはかなり収益があり、八方七口のそれぞれの寺社の経済原になっていた。
それが、寛永、寛文年間に登拝口の法流(仏法の流派)に関して、激しい論争になった。
もちろん、経済的な主張だけではなく、宗教的な論争であった。具体的には真言宗と天台宗の争いであり、これを歴史的に“両造法論”と呼んでいる。

♢パート3♢ ー庶民に親しまれた お竹大日如来と湯殿山の誕生ー
羽黒山の門前町、手向(とうげ)の荒澤寺正善院に於竹大日堂(おたけだいにちどう)がある。江戸後期、「大日如来の化身」と庶民に信仰された女性、お竹さんが祀られている。
お竹さんは、羽黒山の麓に生まれたとも伝えられる女性。江戸の武家へ奉公に出されたが、働き者で信仰心が篤く、慈悲深い行いが評判になり、没後に奉公先の主人が大日堂に祀ったと伝わる。この物語は、歌舞伎や錦絵などの題材にもなり、江戸市中に広まった。
お竹さんが大日如来の化身とされたのは、両親が湯殿山に願掛けをして授かった子であり、湯殿山の本地仏が大日如来であったからだ。しかしこの物語は、出羽三山によって意図的に流布されていた気配がある。
東北や関東など東日本で広く信仰されていた出羽三山。その中にあって、なぜお竹物語は江戸市中で広められたのか。三山における湯殿山の異質な側面とともに、お竹さんの謎に迫る。

お竹大日如来は、錦絵や歌舞伎にもなり江戸庶民に浸透していった。


おわりに
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」と呼ばれていた。出羽三山は、蜂子皇子(はちこのおうじ)によって開山されたが、江戸時代以前は真言宗であった。中興の祖と言われる天宥は、「真言宗」の僧侶(名・宥誉)であったが、徳川将軍家の庇護を受けるため天台宗の天海に接近し天台宗に改宗した。僧侶名も天宥とした。三山執行となると橋・手水舎・鳥居・滝の造営を整備した。出羽三山を支配下に置こうとするが抵抗にあい流罪となった。その後、松尾芭蕉の流布やお竹さんという女性の善行から周囲から大日如来の化身とされ崇拝をあつめ、参詣者を集め、知れ渡った。出羽三山が流布したのはフォッサマグナ(中央構造線・新潟県~静岡県)で分かれるようである。

【参考資料】

 ・大人の休日倶楽部 講座
 ・ウイキペディア
 ・「出羽三山歴史の分岐」美術家 村岡信明
 ・出羽三山神社
 ・鶴岡市羽黒町観光協会

 

約50年前サラリーマン時代、数か月「新橋駅」から虎ノ門方面に通勤しており、懐かしく新橋駅で下車する。新入社員ということもあり、家と会社の往復で新橋駅の印象はうすいが、烏森口の駅前は変わらないが、汐留口は目を見張る。


新橋駅の汐留口から散策する。「ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線」が1995年(H7)に開業、新橋と東京臨海副都心を結び沿線にはオフィス・マンション・コンベンションセンター・観光資源等があり、これからの利用増が期待される。「ゆりかもめ」の入口前に「動輪」(D51)と「鉄道唱歌の碑」がありました。日本で最初の鉄道起点の碑でもあります。「新橋停車場」は、1872(M5)年に開業したが、鉄道唱歌は、1900年に第1集東海道篇が発売された。タイトルは「地理教育 鉄道唱歌第一集」とあり、当時の音楽教育の一環として歌による知識の習得があったようだが、江戸時代からリズムで覚える(宿場町など)歌があったようである。鉄道発祥の記念の場所はここだけでなく少し離れた場所に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があるので向かう。

〇「汽笛一声 新橋を・・・♪♪の新橋は現在の新橋駅ではありません」
オフィス街を通るが、ここ新橋の名の由来は、江戸城外堀の汐留川(新橋川)に架かっていた橋の名前に由来する。1932年(S7)に関東大震災後の復興のための町名整理統合(11町)により、現在の新橋1~6丁目となり他に「西新橋」「東新橋」がある。ビルの谷間に石造り2階建て建物が「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」です。裏手にはホームと線路が引いてあります。
新橋停車場は、日本最初の鉄道ターミナル駅で新橋ー横浜間の29kmで開業。その後、東京駅が開業(1914年)するとターミナル機能が東京駅に移り、「汐留駅」と改称し、貨物駅へと変わりました。1923年の関東大震災では当初の駅舎は焼失、1934年にはプラットフォームも解体し、1986年には貨物駅としての役割を終わり廃止されました。1991年に土地の再開発のための発掘調査が行われ、1996年には鉄道発祥のち地としての国の史跡として再建されました。
日本での鉄道最初の開業は、新橋ー横浜間と言われているが、実際は現在の駅名間ではなく新橋停車場は場所としては旧汐留駅と横浜も桜木町駅でした。

旧新橋停車場展示室の近くに、アドミュージアム東京に立ち寄りました。日本唯一の広告に関するミュージアムで電通本社の隣のカレッタ汐留の地下2階にありました。
〇「広告は豊かな社会をつくる」
これは日本の広告界の発展に情熱を傾けた電通第4代社長・吉田秀雄氏の言葉です。吉田秀雄氏は、社長就任時に3つの施策を打ち出した、①商業放送の設立②クリエーティブ技術の向上③マーケティング理論の確立で、民放開局は彼の力によるところが大きい。電通の飛躍的発展をもたらし、世界有数の広告代理店に成長させた。また、広告業全体の社会的地位の向上に全力を尽くした。社内では「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。
吉田氏の没後の1965年(S40)、電通と吉田邸からの出資で「公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団が創設された。「アド・ミュージアム東京」は記念事業団の事業の一つでもある。
展示は、江戸時代の広告黎明期の資料展示に始まり戦前、戦中、戦後と時代ごとの世相・風俗に関する展示、タッチ式大型モニター、視聴ブース、広告に関する図書館が利用できる。

江戸時代は、「店売り」発達し「土用丑の日」の張り紙等の行事の表示があったようです、革新的な商売、斬新な広告手法で大繁盛した呉服店もあらわれました。また天秤棒による「棒手振り(ぼうてふり)」など盛んで、特徴ある「ラッパ」や「売り声」により買い求めることが多かったようです、いまでいう移動販売です。

日本初のヌード写真ポスター
1922年(T11)のポスターで赤玉ポートワインは最大のヒット商品です。

「広告の冬の時代」と「焼け跡に希望をともした戦後の広告」

(左)広告も満州事変後は、プロパガンダの一翼を担うようになり、国民の士気を高めるため利用されてきました。
(右)「映画スターが時代の顔に」戦後初の多色刷りのポスターで「東京物語」等の映画で人気の女優・原節子がモデルで、平和な時代を感じさせます。原節子は、資生堂のイメージガールとして活躍しました。

なつかしい東京オリンピックの広告


オリンピックのポスターは、躍動感溢れ多くの国民が感動したと思います。また、「男は黙ってサッポロビール」のキャッチフレーズは言葉の広告での大きい力を感じさせました。

また、企画展示も行われています。ここで新橋駅東側の散策を終え、ガードを通り西側に行く。

〇なぜ?ここに「日比谷神社」
東新橋交差点角地にわずかな敷地に盛り土の上に建つ神社ですが交差点角地のため目立つ神社です。創建年代は不明のようですが、元は名の通り日比谷公園の大塚山に鎮座しておりましたが、江戸城の拡張のため芝口(現在の東新橋)に移り、さらに明治時代、鉄道(東海道線)の敷設に当たり移り、2009年には計画道路の予定地に入ったことから現在の東新橋2丁目の国道15号(第一京浜)の交差点に遷座した、こんなに場所の変わった神社もないのでは。日比谷神社は、別名を「鯖稲荷」といい、「旅泊(さば)稲荷明神」と呼ばれている。
新橋駅の方に進み、「烏森神社」へ

〇人気の「烏森神社」
烏森神社縁起によれは天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷が武蔵野国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって乱を鎮めることができため感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。それが現在地である旧桜田村の烏森神社の始まりである。
癌封じで有名な神社で有名人も訪れているとのことで、訪れた時も列が出来ていました。また、御朱印、お守り、おみくじはカラフルであることでも有名です、これも企業努力(いや神社努力!)かもしれません。

〇美しい建築物・堀商店
TVでも放映された堀商店。堀商店は明治時代に創業、当初は、欧米より最新の錠前・建具金物・暖炉金物を輸入販売、大正に入ってから、錠前・建具金物・船舶金物などの製造などオリジナリティのある製品を開発し現在にいたっています。
周りの建物がどんどん建て替えられているのに何と風格のある建物でしょう。昭和7年に建てられた堀ビルは、1998年(H10)に登録有形文化財となっている。外観は角を大きくアールを窓とって、縦長の窓が並んでる、多数の細い溝の模様があるスクラッチタイル貼りでモダンな感じである。建物右手にある階段から塔屋の縦のラインはヨーロッパ中世風でありトカゲの飾りも珍しい。四つ角の角にこうした昭和初期の建物は目立つ。

堀商店前の通りに「新橋赤レンガ通り」というペナントがありました。江戸時代から明治にかけて火事が多く、明治5年の和田倉門外からの火災で銀座・築地一帯が焼失、明治政府は東京府に対し火災を免れるためレンガを使って建築kする方針を決定。「新橋赤レンガ通り」の名の由来は、この通りに赤レンガ造りの「清隆館」という勧工場が出来たことが由来と言われています。

散策の終わりに「ニュー新橋ビル」に立ち寄る。新入社員当時に開業したビルのため思い出のビルでもある。特徴ある格子状の外壁がモダンさを感じ、いまでも通用するビルと思う、内部は飲み屋が多かったように思ったが、現在は金券ショップ、占い、マッサージ店が目立ちます。50年たち再開発の計画があるようですが、サラリーマン時代の思い出の地でした。


                                                          
【参考資料】
・ウィキペディア
・旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
・アド・ミュージアム東京
・港区観光協会
・公益財団法人 吉田秀雄記念事業団
・雑学ネタ帳
・江戸史跡散歩
・トラベルJP
・Visiting-japan.com
・ぼくの近代建築コレクション
・新橋ネット
・日本経済新聞社

 《その他のPhoto》 
汐留付近は、もとは葦の生い茂る海辺で、江戸時代初期に埋め立てられました。この付近にあった土橋に堰を設けて、海の干満が外堀に入らないよう防いだことから「汐留」という地名が生まれたようです。

東京都の多摩地域中部に位置する国分寺市は、東京都の中央部に位置し、武蔵野台地の上面は飲料水の得にくい乏水性台地、下面は湧水を得た森林の豊かな地域で石器時代には人間の生活の場所であり遺物も発見されている。市域の大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地と、国分寺崖線を境に一段低い立川台地、及び高台を流れる野川(上流)でできている。乏水性台地も享保年間(1801~04)になって新田開拓が短冊型地割でおこなわれた。

地名の由来は、741年に聖武天皇の命により建立された国分寺(武蔵国分寺)がこの地にあったことに由来する。
国分寺市は、古い歴史と比高差のある地形を有する市である。今回の立ち寄り先は、殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園、お鷹の径、真姿(ますがた)の池、国分寺を中心に巡る。
JR国分寺駅を下車する。

〇殿ケ谷戸庭園
名称の「殿ヶ谷戸」は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名に由来する。殿ケ谷戸庭園は、9つある「都立文化財庭園」の一つである。多摩地域で唯一の「都立文化財庭園」である。大正2年(1913)、武蔵野の自然に目を向けた満鉄副総裁の江口定條はススキ野だったこの辺りを庭園にした。昭和4年(1929)に岩崎彦彌太に売却、そして昭和49年に東京都が買収し現在にいたっている。     
国分寺(1913)崖線と呼ばれる段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた。回遊式林泉庭園と言われ様々な木々が植えられ園内は周遊順路となっている。何と言っても他の庭園と違うところは武蔵野段丘の国分寺崖線(段丘崖)と、その下端部の礫層より染み出る湧水。その湧水を蓄えた「次郎弁天池」を中心とした和風庭園で、茶室「紅葉亭」や展示室もあり庭園を詳しく知ることができる。
国分寺市の散歩コースに歩いて「お鷹の道」と「真姿の池」に向かう。

〇「お鷹の径」・「真姿の道」
途中、不動橋という小さい橋がありました。国分寺街道沿いの不動橋は、元町用水と野川の合流点に位置しています。かつては野川にかかる石橋だったことから、北側に石橋供養塔があります。供養塔の西側には庚申塔と不動明王碑もあり、このことから昭和47年に不動橋と名称が決まりました。
※野川の源流は、駅の反対側にある日立製作所中央研究所敷地内にあります。


「お鷹の道」は、江戸時代、一帯が尾張徳川家の御鷹場だったことから名付けられました、清流沿いの風情ある約400m程の遊歩道である。
「真姿の池」は、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒のため国分寺を訪れ池で身を清めたところ、病が癒え元の姿(真姿)に戻ったことから「真姿の池」と呼ばれるようになったそうです。
湧水とは、こうした地形・地質でできるとという教科書的な場所でもあり、国分寺はこうした湧水が多くある。

〇旧本多家住宅(長屋門・倉)・武蔵国分寺跡資料館
「お鷹の道」を西に向かうと「旧本田家住宅長屋門」が見えてくる。長屋門からから入ると左手に倉、そして右手に「武蔵国分寺跡資料館」が敷地内にある。


・国分寺跡資料館
資料館から見学する、館内には市内の遺跡の出土品、文字瓦を中心に展示、国分寺跡の復原模型など。復原模型がないと全体の大きさがわからない。
・旧本多家住宅倉(市重要有形文化財)
倉は、木造2階建て切妻造鉄板の置き屋根で、1708年の創建、いくたの改修により現在は、モルタル洗出しとなっている。

・旧本多家住宅長屋門、倉(市重要有形文化財)
代々国分寺村の名主であった本多家の長屋門と倉が残されている。長屋門は表門としての役割と先代当主の隠居所として江戸時代末期に建築された。幕末から明治時代には、分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業し、教育や書画などを多方面に活動する拠点として利用し、大正時代には以降には養蚕もおこなっていた。長屋門の2階は展示室として昔の道具類が展示されている。一般的に長屋門は、物置や使用人の部屋だったするが、使用目的が珍しいし内部まで公開してくれるのはありがたい。 

〇国分寺
奈良時代の中ごろ、天平19年(741)に聖武天皇は鎮護国家を祈願して、僧寺と尼寺を「国分寺」として全国60余国に建立。国分寺の建設地については、仏教考古学者で元奈良国立博物館長・石田茂作氏によると、

地理的条件 
   ①国華として仰ぎ見るのによい地形
    ②水害の憂いなく長久安穏の場
    ③南面(向)の土地
都市計画的条件
   ④人家の雑踏から離れている
   ⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
   ⑥条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること
政治的条件
   ⑦国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる)

により国分寺が選定された。

※国分寺の恵まれた環境を利用して武蔵国分寺が建立される適地となった。武蔵国府の所在地であった府中市の北2Kmのところに武蔵国分寺が建立された。その面積40万㎡と推定され往時は奈良の東大寺に次ぐ大堂塔がそびえ、東国の文化の中心地の構えであった。しかし鎌倉時代の戦乱のため武蔵国分寺は七重の塔とともに焼失し再建されることはなかった。
武蔵国分寺の遺跡は、東西1500m、南北1000mの範囲に及ぶとみられ、現在なお調査研究が進められています。遺跡は歴史公園として整備されているが、武蔵国分寺を知るには「武蔵国分寺跡資料館」でのみである。

〇国分寺楼門
国分寺門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものです。三間一戸の楼門で、2階には十六羅漢像(現在13体)を安置しています。

〇万葉植物園
万葉植物園は、万葉集に詠まれている植物を集め、往時をしのぶよすがにと国分寺前住職星野亮勝氏により 、造られました。現在、市の天然記念物に指定されています。
園内には昭和25年から現在まで、当地で栽植可能なすべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌を記した説明板があります。国分寺が栄えた時代に編さんされた「万葉集」の歌の題材となった植物が、現在約160種あります。

〇国分寺仁王門・薬師堂
国分寺境内にあり、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、僧寺金堂跡付近に建立されたものが、宝暦6年(1755)ごろに現在の場所に建て替えられました。
堂内には重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。また、江戸の書家、深見玄岱が東大寺の寺額を模して書いたといわれる「金光明四天王護国之寺」の寺額が掲げられています。薬師堂の裏には、四国八十八ヵ所巡り石仏群があり、札所の番号や詠歌などが刻まれています。
現在は毎年10月10日にご開帳をしています。

歴史ある街は、それなりに整備されていて13万人都市の中では生活満足度が高いのではないか、しかし高低差のある生活は移動では大変である、今回も歩いてそれを感じた。


【参考資料】
 ・ウイキペディア
 ・巡検コースガイド「地図で歩く東京」東京都地理教育研究会・東京私立中学高等学校地理教育研究会
・国分寺市
・国分寺市教育委員会
・殿ヶ谷戸庭園
・国分寺跡資料館

《その他のPhoto》