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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

京王・井の頭線の駒場東大駅付近に旧前田家の建物が残っているとのことで出かけた。JR埼京線で渋谷駅で乗り換え、渋谷駅構内は複雑で案内表示がないと京王・井の頭線に乗り換えできない。井の頭線は、渋谷駅と吉祥寺駅を結ぶ路線で京王電鉄の主要路線で関東私鉄の中で最初に冷房化率100%を達成した路線です。旧前田邸の最寄り駅である「駒場東大駅」で下車する、この駅は「旧東大前駅」と「旧駒場駅」とが1965年に統合されて出来た駅である。井の頭線は、路線距離が12.7Kmで17駅もあり区間距離から統合したようです。

旧前田邸に向かうと歩道に数人が・・・、覗いてみると半地下にパン屋さんかありました、「ル・ルソール」で美味しいパン屋さんのようでTVでも紹介されてました。 

 落ち着いた住宅街を通り「旧前田邸」に入ります。
♦なぜ?この地に前田家が♦
旧前田邸が駒場公園の一角にある建物と思われるが、明治期は、この一体は駒場農学校があった、その後東京帝国大学農学部となり、文京区本郷へ移転した。跡地には逆にそれまで本郷に屋敷を構えていた旧加賀藩主家の家族前田*1侯爵家が移住した。第16代当主である前田利為侯爵の駒場本邸として、1929年(S4)には洋館が、1930年(S5)には和館がそれぞれ竣工した。前田侯爵は、1942年(S17)に航空事故死すると邸宅は他人の手に渡り、戦後は米軍に接収され、接収解除される1957年(S32)までの12年間に連合軍司令官の官邸などとして使用された。その後、1964年(S39)に東京都の所有になり、1967年(S42)に東京都立駒場公園として開園、1975年(S50)に目黒区に移管された。

♦なぜ?旧前田家本邸(洋館)が建てられた♦
この家を建てた前田利為(まえだとしなり)は、前田家の武人としての伝統にしたがい陸軍大学校を卒業し、20代からヨーロッパに留学した。イギリスには長期滞在しこの館の設計当時は、駐英大使附武官を務めていた。その影響もあり建築様式は*2チューダー様式の洋館となっている。敷地内には洋館の他に広大な庭園、テニスコートや馬場、熱帯植物や果物、花を栽培する温室や畑、海外からの賓客をもてなすための和館と日本庭園、車庫がなども設けられ、前田家の家族6人のために約140人の使用人が働いていた。
※和館については、現在、庭園部分の工事で臨時休館中です。
*1ー当時の日本の華族制度は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵制となっている。
*2-約16世紀にイギリスのチューダー朝時代にで生まれ流行した建築様式、中庭のある構成、レンガ積みの壁、非相称な建物の配置、高い煙突が特徴、柱・筋交い、梁などの骨組みが外部に露出したデザイン。

♦旧前田家本邸(洋館)の概要♦

昭和3年から5年にかけて建てられました。主に生活の場として使われた洋館と、迎賓のために建てられた和館で構成されてます。洋館は、壮麗なチューダ様式の外観、城郭のような尖塔を持つその建物から、竣工当時”東洋一の洋館”と謳われた。城郭のような建て方は、英国の100年戦争(薔薇戦争)が影響しているかもしれません。
建物は、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造りです、現在の耐震基準で補強することがあまりないようです。
玄関を入ると豪華な階段広間があります、装飾が彫りこまれた大理石の柱があり重厚な空間を演出しています。1階部分は応接間と2つの客室、大証の食堂で構成され部屋ごとに装飾が異なり豪華さは目を見張るものがあります。2階部分は私的なエリアで寝室や書斎、夫人室や子ども部屋が並んでいます。絢乱豪華な織物や、*3金唐紙(きんからかみ)など最上級の素材で飾っている。戦前の上流華族の暮らしぶりを伝える貴重な建築です。
*3-日本の伝統工芸品で和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当てて凸凹文様を打ち出し、彩色を施し、全てを手作りで製作する高級壁紙。









































蛇足であるが、映画「華麗なる一族」のロケ地にもなっており、まさに華麗さが伝わる名建築である。

♦日本民藝館♦
もう一つ訪れる予定だったのが「日本民藝館」だったが、訪れた日が西館(旧柳宗悦邸)の公開日となっており、混雑しているようなので、外観の写真撮影のみとした。
柳宗悦は、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任し72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集、執筆活動を展開した。
本ブログで「民藝」と「柳宗悦」については、掲載しましたがこんなに人気があるとは思いませんでした。





♦駒場野公園♦
帰り、駒場東大前駅に向かう途中、線路の反対側に「駒場野公園」がありました。入口付近に小さい田圃(たんぼ)がありました。「ケルネル田圃」という案内板がありました。明治時代、駒場農学校に招かれたドイツ人教師オスカー・ケルネルの名を冠した。ここで、土壌やイネの肥料の研究がおこなわれ日本の近代農業の礎となった地です。今は、農学校をルーツに持つ筑波大付属駒場中高生たちが水田実習に取り組んでいます。


この辺を歩いていると、「ハチ公物語」の上野博士が住まわれ、ハチ公と上野博士も歩いていたのか思う散歩であった。

【参考資料】
・ウイキペディア
・旧前田家本邸
・テレビ東京 「出没!アド街ツク天国」 ・東洋経済オンライン   
・東建コーポレーション
・BS朝日 「百年名家」
・日本民藝館
・東京新聞
・目黒区
・東京都

《その他のPhoto》


























市川市を訪れるのは3度目になる。(ブログ*1で紹介済みなので参考に)今回は、JR東日本の「駅からハイキング」によるもので総武線本八幡駅集合・出発である。
*1・市川市の博物館他2020.8.29/中山法華経寺他2018.9.25

♦市川市の紹介♦
人口50万で千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次ぐ都市である。都心から10~20Km圏内で西側は東京都江戸川区と接し立地の良さから東京のベットタウンとして発展している、歴史的な町としての一面、文教都市、著名な作家が居住していたことから「文化都市」と言われている。市川駅・本八幡駅周辺は、超高層マンションや商業施設が充実している。特にJR本八幡駅・京成八幡駅・地下鉄など3路線が利用でき人気の住宅地となっている。市川市の由来は、東葛飾郡市川町、八幡町、中山町、国分村が合併し市川市」が発足した。県内では千葉市、銚子市についで3番目の市制施行である。
かつては湿地帯で、江戸時代には塩田が作られ大量の塩が生産され、行徳の塩は有名だった。塩田も明治維新頃までで農耕地に転換された。

「駅からハイキング」は、本八幡駅で受付を済ませ、江戸川方面(行徳)に向かってハイキング。


♢コース♢                                                
①一本松・延命地蔵尊
享保12年(1727)、椎名茂右衛門により通行の安全と辻斬りや追い剥ぎなどの災難にあわれた人の供養として建立されました。元は道標として千葉街道と行徳街道の交わる八幡の四つ角にありましたが、昭和60年に稲荷木(とうかぎ)に移転しました。一本松は、慶長年間に伊奈備前守忠次が徳川家康の命によって、上総道の改修にあたったさい、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道を造って、その分岐点に松を植えたのが一本松の由来だが排気ガスの影響で枯れ昭和48年(1973)に伐採されました。


コースを進み突き当りが江戸川である土手沿いに歩き、行徳橋を渡る行徳橋は約404mで歩道幅が広く気持ちがいい。大正8年(1919)に大規模な江戸川放水路*2が造られ、行徳地区が東西に分断された。途中、「行徳可動堰」があり、海水の遡上を防いでいる。土手を降りて進むと「妙好寺」がある。
*2洪水を防ぐため大正8年(1919)に完成、現在は放水路を江戸川本流と元の流れを旧江戸川と呼んでいます。放水路で分断された地域を行徳橋が架けられました、更に昭和18年(1943)に江戸川水閘門が昭和32年(1957)に行徳可動堰が設けられました。


②妙好寺
永禄8年(1565)篠田雅楽助清久の支援により創建されました。山門(木造切妻茅葺)の建築様式・文様が江戸時代中期の特色を示しています。市川市内には多くの寺社がありますが、江戸時代のものが少なく、この門は、当時の建築様式を残し貴重なものです。


③春日神社
創建年代は不詳ですが、境内の灯籠に寛文10年(1671)とあることからそれ以前の創建と考えられています。


④徳願寺
もとは埼玉県にあった勝願寺の末寺でしたが、徳川家康の帰依により、徳川の「徳」と勝願寺の「願」をとって「徳願寺」と名が改められました。山門(市指定有形文化財)は江戸時代の安永4年(1775)建築。江戸時代の彫師による本格的な彫刻が施されています。剣豪・宮本武蔵の達磨絵や書、円山応挙作といわれる幽霊画など、寺宝も多く所蔵している。


⑤妙応寺
約450年前の永禄2年(1559)に創建された、中山法華経寺の末寺、七福神を勧進し一ヶ所で七福神参りができる。

⑥本行徳神明社
行徳街道沿いに神明(豊受)神社があります。行徳で一番由緒ある神社です。行徳の地名と行徳千軒寺百軒という町の起こりを伝える歴史ある神社である。また、「行徳町道路原標」も境内に置かれています。かつて「行徳さま」と呼ばれた山伏金海法印*3が、伊勢神宮を勧請して建てたのが始まりといわれる神社。3年に一度開催され、総重量500Kgにもおよぶ神輿で有名な「五ケ町祭礼」はこの神社の大祭です。
*3戦国時代、土地の開発と人々の教化に努めた金海法印という山伏が、「徳」が高く、「行」が正しかったため、人々から「行徳さま」と呼ばれていたことに由来する、とも言われています。

⑦妙覚寺
妙覚寺は、中山法華経寺の末寺であり日蓮上人の像を本尊としています。境内に「キリシタン灯籠」の矢印があり行って見ることに。東京都にあるお寺でこのような灯籠がありましたが、千葉県では初めてで妙覚寺だけかもしれません。この灯籠は、上の部分を修復していますとの和尚さんの話でした。灯籠の中央下部に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを着た神父が靴をはいた姿で彫刻されていました。また、その隣には鳥居と祠があり神仏習合の「神と仏は一体」の宗教思想を知ることができます。墓石のある一角にキリスト教と神社があるのは極めて珍しい妙覚寺です。


⑧馬頭観世音
馬頭観音は、多くの地域に存在しますが、ここの馬頭観音は、飛脚問屋、馬喰、馬の飼い主を束ねていたの人の寄進のようで、商売繁盛、無病息災の祈願したものと思われる。

 
⑨田中邸
行徳街道沿いには歴史的建造物がいくつか残っています。元行徳町長の「田中邸」もその一つです。明治10年に建築され、伝統的な外観をそのまま残し、一部内部をリホームし現在も住まわれております。もう一つ歴史的建造物に、船で来ても、陸路できても立ち寄らない人はいないと言われた繁盛店「笹屋うどん」があります。
1854年に建てられ屋号の「笹屋」については、源頼朝が源氏の家紋にちなんで名づけたという伝説もあります。江戸から明治にかけては広く県外にまで知られた、行徳の名所となりました。


「田中邸」の脇を通り、旧江戸川にある「常夜灯公園」に向かう。
⑩常夜灯
公園内ある常夜灯*4は、文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷、成田山にお参りする講中の人々が航路安全を祈願して建てたものです。江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)で航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置し、船は毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されました。この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由して、日本橋小網町まで、約12.6Kmを就航していました。

*4昭和45年に旧江戸川堤防拡張工事のため、移動し現在の地に免振装置施し設置した。

⑪ふれあい伝承館
旧浅子神輿店店舗兼主屋と休憩所から成り、神輿をはじめとする行徳の歴史や文化を紹介し、地域の魅力を発信する施設となっています。近世中期から近代にかけて製塩と船運で栄え、寺社の町でもある行徳において、神輿造りは地場産業でした。旧浅子神輿店ではその中の一つです。昭和4年(1929)上棟の建物は重厚な瓦屋根の切妻造二階建ての店舗と平屋建ての居住部からなります。室町時代からと言われる神輿造りの歴史とあわせて評価され、平成22年(2010)に国の有形文化財に登録されました。行徳の文化を語る上で貴重な歴史的建造物となっています。

ゴールは、行徳神輿ミュージアムになっておりましたが、寄り道したりコースを間違えたりでカットしました。歩行距離8.5Kmとなっておりましたが、10Km以上歩いた感じでした。寺社・仏閣・旧家など歴史街並みに歩き、新たな市川市にふれることができました。
                                                                 

 《参考資料》
□JR東日本・JR本八幡駅
□ウイキペディア
□にっぽん旅行記
□市立市川考古博物館/市立市川歴史博物館
□猫の足あと
□市川市観光協会 
□中山・下総・散歩道
□BS朝日「百年名家」
□行徳まちづくり協議会
□市川市行徳ふれあい伝承館
□市川市


<その他のPhoto>
寺町通りなどコースに該当しない寺社・仏閣


マンション進出のなかでも、歴史を感じさせる建築物がまだ多く見られます。一つ一つの建物にも歴史があり、生活があります・・・それを感じさせる市川市です。

川口市にある「SKIPシティー彩の国ビジュアルプラザ」にて埼玉県三芳町・所沢市にまたがる三富新田(さんとめしんでん)に関わる上映会と講演があり参加しました。

三富新田については、一度訪れたいと思っていたが、バスの利用のためちゅうちょしてましたが、今回の「上映会と講演」はありがたい企画でした。三富新田については、今回の案内チラシで「さんとめしんでん」と呼ぶことを初めて知りました。それまでは、「さんとみしんでん」と思っていました。恥ずかしい限りです・・・
*三富とは、上富(埼玉県入間郡三芳町)と中富・下富(埼玉県所沢市)の総称です。

上映は、テレビ埼玉の「三富新田物語 雑木林(ヤマ)とともに生きた300年」(1998年)で三富新田の歴史・生活・落ち葉集め等を上映。
講演は、獨協大学名誉教授 犬井正氏(専門・農業経済地理学)です。
上映と講演内容を中心に「三富新田」を学びました。

《講演要旨》
東京西郊の武蔵野台地の埼玉県所沢市と三芳町にかかる三富新田を中心とした地域では、17世紀後半の近世の開発当時の短冊形地割や落ち葉堆肥農法が今に受け継がれ、持続的農業が展開されている。この「落ち葉堆肥農法」が23年7月にFAO(国連食糧農業機関)の世界農業遺産に登録され、「森林と共生した土づくりを基礎とする世界でも稀有な農耕文化」として国際的評価を得た。これを機に、落ち葉堆肥農法が何故、どのようにして継承され、これからも守っていかなければならないのかを、1998年製作映像「三富新田物語ーヤマとともに生きた300年」を観ながら考えてみたい。
三富地域では多くの農家が、化学肥料に頼らず手間暇をかけて作った落ち葉堆肥を畑に投入して「土づくり」に励み、高いレベルの腐植と微生物を維持し、サツマイモや多種類の野菜を露地で持続的に栽培している。化学肥料や農薬を多投入するのが近代的農業とされてきたが、ここでは自然の営みにそった伝統的な農法が実践されている。新田開発によって武蔵野を「開発」したが、すべて畑にするのではなく短冊形地割の中に肥料給源の平地林、地元で言う「ヤマ」を組みこんで、人間と自然が共生する安心で安全な持続的農業の手本を示す落ち葉堆肥農法を完遂させた。今でいう「SDGs」そのものである。
一方、今日の世界と日本の多くの地域では速効性の化学肥料に頼り、堆厩肥による土づくりがないがしろにされ、耕地の土壌肥沃度や生産力が低下している。土壌侵食や土壌劣化、気候温暖化や砂漠化などによって引き起こされている世界の食糧問題や環境問題は、この伝統的農法によって乗り越えられる可能性がある。落ち葉堆肥農法は今やローカルな農法どころか、世界に誇るべきユニバーサルが普遍性を有している。

三富地域の開拓前は、原野だった入会地だった所で、1694年(元禄7)に川越藩主となった柳沢吉保が、農作物増産等によって藩政を充実させる目的で、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れこの地を開拓させたものである。特徴としては、幅6間((10.9m)の道の両側に農家が並び、その1軒の農家ごとに畑、雑木林が面積が均等になるように短冊型に並んでいる地割である、例えば上富村では、1戸の間口が40間(約72.7m)、奥行き375間(約681.8m)となっている。この地割の方法は北栄の王安石の新田開発法を参考にしたといわれてる。この整然とした地割と景観は現代まで残され、1962年に埼玉県指定文化財に指定されている。
*柳沢吉保は、時代劇では「生類憐みの令」「忠臣蔵」などで悪評のある人物であるが、行政面で良い評価されており、三富新田開発では偉業を成し遂げこの地では語り継がれています。
*開発では、近隣の村々から集まったようで開発に2年かかり、検知が行われ上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷が出来ました。三富新田の「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものです。

♦新田開発による畑地と平地林の造成
①武蔵野の自然的基盤
□関東ローム層に厚く覆われた乏水性の洪積台地、表土は軽しょうで低地力での黒ボク土
□冬季から春季にかけての強風帯に位置する→耕土の飛散
□江戸時代まで放牧地や入会秣場(いりあいまぐさば)→灌木を交えた7ススキ草原
□武蔵野の潜在植生→シイ・カシ・タブなどの常緑広葉樹林
②武蔵野の新田村落の特徴
□江戸時代、藩財政の確立→入会地の新田開発
□畑作新田村落→落ち葉堆肥給源としてのクヌギ・コナラ林の造成→人工の二次林
□短冊型地割のレイアウト→三富新田が典型
  ”本地域の典型的なランドスケープ”

※平地林の減少、工場・宅地化が進む。

※循環型農業は、手間暇がかかる農法である。近年、労働集約型から効率を目指す産業構造の変化や農家の相続税問題により離農問題の対応を考えなければならない。

*新田開発とは、水田に限らず田や畑にするため開墾して出来た農地を指す。
*短冊型地割で一人一人が平等
*開拓農民の知恵と努力
①赤土を肥沃な土に
栄養分が少なく水はけの悪い赤土(関東ローム層)には大量の堆肥が投入され、肥沃な土へと変える。
②水を求めて
吉保は野火止用水の例に習い、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)が掘られ数件が共同で利用する。
③風を防いで
雨の少ない時期には季節風が畑の乾いた赤土を舞い上げ、それこそ「赤い風」となって吹きまくりました。そこで三富の開拓農民は、畑の畔にウツギや茶ノ木を植えてこれを防ぎました。


ここの土地は関東ローム層が露出し痩せて作物が育たない土地である、土壌はサラサラしており、風が吹くと土埃が舞い上がる、しかし点在する雑木林の周囲だけは落ち葉が堆積して肥沃な土壌であったことから、落ち葉を敷き詰め堆肥とし、長い時間をかけて腐葉土を形成してきた。
当初は、サツマイモ栽培に限られてきたが、現在では狭山茶や葉物野菜全般、果樹や花卉を手がける農家もいる。伝統的な芋栽培はブランド作物となっている「川越いも」(紅赤)の産地となっている。
落ち葉を供給する雑木林が屋敷森の役割も兼ね、集めた落ち葉の山に昆虫が生息することから餌を求める野鳥も集まり小さな生態系を構成している、こうした循環型農業がこの地では300年以上続いている。
こうした取り組みにより「世界農業遺産」の認定地となった。

※FAOのホームページに三富地域の循環型農業での土づくりが掲載された。

 

 


【参考資料】
・SKIPシティー彩の国ビジュアルプラザ・映像公開ライブラリー
・ウイキペディア
・講演会資料
・テレビ埼玉

・三富地域農業振興協議会

・埼玉県三芳町
・埼玉県所沢市
・埼玉県

《その他のPhoto》