

今回のJR「駅からハイキング」は、佐倉市を巡る企画に参加しました。自宅から1時間半かかる佐倉市、JR総武線も千葉駅を過ぎると田園風景となる、車窓から小さい丘陵を眺め、、目的地の佐倉駅に到着。

§佐倉市の概要§
佐倉市は、千葉県中部に位置する人口約16万5千人の市で千葉県で10番目に人口の市である。千葉市と成田国際空港の双方から15Kmの中間地点に位置する、東京の都心から約40KmでJRと京成の二路線が通り近年住宅開発が進んでいる。
小田原や川越と並び、江戸防備の要として重要視された佐倉城は、房総最大の城下町である。佐倉藩(11万石)の城下町の後も軍都として栄えた。市内には佐倉城跡、武家屋敷群が整備されている、また、「国立歴史民俗博物館」などもあり文化都市の面も有する。佐倉順天堂を中心とする蘭学の先進地で「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ西洋医学の街でもある。
地形的には、下総台地(北総台地)の中央に位置し、南東から北西に向かい緩やかに傾斜している台地と、台地を侵食した谷津から成り立っている,
標高が30~35mとなっている。北部には印旛沼と調整池があるが、佐倉市の河川は印旛沼地域に流れている。
観光情報センターで受付と資料を頂き、武家屋敷方面に向かいます。途中、小さい公園の中に正岡子規の碑がありました。子規の歌碑については城址公園内にもあるようですが、子規と佐倉市との関係については、新聞記者時代に総武本線開通(明治27年12月)した際に取材で訪れ詠んだと言われています。句碑は、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」子規、佐倉駅から城を見て、城に行く途中が宅地化され淋しい気持ちにさせると詠んだようです。

配布された地図により、傾斜地を上がり「ひよどり坂」(サムライの古径)に京都にも竹林の道があるが、佐倉市の「ひよどり坂」も趣があって良い、木々の間から心地よい日差しが降り注ぎます。

§佐倉市の概要§
佐倉市は、千葉県中部に位置する人口約16万5千人の市で千葉県で10番目に人口の市である。千葉市と成田国際空港の双方から15Kmの中間地点に位置する、東京の都心から約40KmでJRと京成の二路線が通り近年住宅開発が進んでいる。
小田原や川越と並び、江戸防備の要として重要視された佐倉城は、房総最大の城下町である。佐倉藩(11万石)の城下町の後も軍都として栄えた。市内には佐倉城跡、武家屋敷群が整備されている、また、「国立歴史民俗博物館」などもあり文化都市の面も有する。佐倉順天堂を中心とする蘭学の先進地で「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ西洋医学の街でもある。
地形的には、下総台地(北総台地)の中央に位置し、南東から北西に向かい緩やかに傾斜している台地と、台地を侵食した谷津から成り立っている,
標高が30~35mとなっている。北部には印旛沼と調整池があるが、佐倉市の河川は印旛沼地域に流れている。
観光情報センターで受付と資料を頂き、武家屋敷方面に向かいます。途中、小さい公園の中に正岡子規の碑がありました。子規の歌碑については城址公園内にもあるようですが、子規と佐倉市との関係については、新聞記者時代に総武本線開通(明治27年12月)した際に取材で訪れ詠んだと言われています。句碑は、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」子規、佐倉駅から城を見て、城に行く途中が宅地化され淋しい気持ちにさせると詠んだようです。

配布された地図により、傾斜地を上がり「ひよどり坂」(サムライの古径)に京都にも竹林の道があるが、佐倉市の「ひよどり坂」も趣があって良い、木々の間から心地よい日差しが降り注ぎます。


「ひよどり坂」を上がると武家屋敷の通りに出る、右手に大聖院がある、鎌倉時代に開山したお寺で、佐倉七福神の布袋尊・大黒天をお祀りしている。

公開している武家屋敷は3軒あるが、旧河原家住宅が受付場所となっている。武家屋敷3軒は、
〇旧河原家住宅
〇旧但馬家住宅
〇旧武居家住宅

公開している武家屋敷は3軒あるが、旧河原家住宅が受付場所となっている。武家屋敷3軒は、
〇旧河原家住宅
〇旧但馬家住宅
〇旧武居家住宅

(1)旧河原家住宅
佐倉藩士でも上級武士の屋敷とのことで、部屋数を見てもうかがえます。建築年代は不明ですが、最も古い建築様式と言われ、千葉県の指定有形文化財となっています。


佐倉藩士でも上級武士の屋敷とのことで、部屋数を見てもうかがえます。建築年代は不明ですが、最も古い建築様式と言われ、千葉県の指定有形文化財となっています。






(2)旧但馬家住宅
旧但馬家住宅は、中級武士の住宅です。当時より現在の場所に建っていた武家屋敷です。佐倉市指定有形文化財となっています。


旧但馬家住宅は、中級武士の住宅です。当時より現在の場所に建っていた武家屋敷です。佐倉市指定有形文化財となっています。




(3)旧武居家住宅
旧武居家住宅は、下級武士の住居だけあってコンパクトの印象です。1751~1830年の建築で1997年に移築しました。木造平屋建で建築面積76㎡。接客と生活空間を二列に分けた平面が特徴的。木柄の細い柱を一間毎に立てる古式を見せ、それぞれの列に入口を設けて武家住宅の特色をよく示し、表向きの割合が小さく、座敷には長押し*1を付けないなど、比較的小規模な武家住宅の遺構として貴重です。なお、移築にともない出土した品は住居に展示している。
*1長押し(なげし)ー部屋の壁全体をとり囲むように付けられる横木

旧武居家住宅は、下級武士の住居だけあってコンパクトの印象です。1751~1830年の建築で1997年に移築しました。木造平屋建で建築面積76㎡。接客と生活空間を二列に分けた平面が特徴的。木柄の細い柱を一間毎に立てる古式を見せ、それぞれの列に入口を設けて武家住宅の特色をよく示し、表向きの割合が小さく、座敷には長押し*1を付けないなど、比較的小規模な武家住宅の遺構として貴重です。なお、移築にともない出土した品は住居に展示している。
*1長押し(なげし)ー部屋の壁全体をとり囲むように付けられる横木





この通りには、3軒の武家屋敷の他に「侍の杜」という緑地があった。2軒分の武家屋敷があった敷地を利用し、武家屋敷の庭園を再現したもので、当時の武士の生活が垣間見られる。


佐倉城はというと、城郭が残っておらず、もともと石垣もほとんどなく崖など自然地形を利用、また石垣の代わりとして、土塁を見ることができる。明治時代に入ると、陸軍佐倉連隊の駐屯地となり貴重な建築物がすべて破却された。
武家屋敷の見学を終わり、「くらやみ坂」を下るが、夜は通りたくない坂です。坂を下ると佐倉市民体育館の裏手に出ます、体育館前の通りの左にかつては大手門があった所です、現在は防災施設を兼ねた公園として整備されております。

体育館の場所には、佐倉藩の3代藩主の堀田正睦(まさよし)が、いままでの藩校を1836(天保7)年、佐倉城追手門前(現佐倉市民体育館)に移転拡充し、「成徳(せいとく)書院」と改称した。温故堂は儒学を中心として小規模に運営されていたが、成徳書院では医学、武術、兵学、砲術その他いっさいの教育を行い、現在の総合大学に相当する教育機関となった。

次に麻賀多神社に向かうが、神社の前に「佐倉養生所跡」の碑がありました。佐倉藩の西洋式病院があった所です。幕末から明治維新まで開業しました、佐倉藩の西洋式医学の進展を考えるうえで貴重な場所です。
麻賀多神社
麻賀多神社は、佐倉藩の総鎮守として代々の藩主・家臣によって厚く信仰されました。現在の本殿は店舗14年(1843)に当時の藩主堀田正睦により造営され市の指定文化財になっています。

ここからは、佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館へのコースを外れ、商家と佐倉市立美術館を重点に見学しました。城下町特有の鉤型に折れた道が多く、城を守るために配置されたのだろうが、今となって交通渋滞となっている。それでも古い商家を見ると当時の街並みに思いをはせらまする。
(1)旧平井家住宅店舗兼主屋・座敷棟・脇蔵
平井家は、江戸時代以来、の有力商家で文久8年(1863)の藩の記録にも御用商人として薪炭類を扱う平井屋儀兵衛の名があります。明治5年(1872)には、新制度の郵便御用取扱い人になり、佐倉郵便局の起源となっています。一時、休業の時期もありましたが、明治後期以降は酒屋を経営し、大手商家の勢いを取り戻しました。昭和33年に当主が高齢のため閉店、平成20年に遺族より市に寄贈されました。旧城下の町人地に位置し、店舗兼主屋の脇には蔵を建て、背面側に座敷が付属しています。店舗兼主屋は明治中期、座敷棟は昭和6年、脇蔵は大正6年の建築となっています。城址公園、武家屋敷の新町通りを結ぶ角地に建ち地域の歴史的景観に寄与しています。





(2)旧今井家住宅主屋
明治時代の1883~1897年建築、木造平屋建、瓦葺、建築面積60㎡の建物。旧佐倉城下の元呉服店で妻入り正面を寄棟造りとして深い下屋*2を付し、背面は切妻造り座敷棟に接続する。前面のミセは前土間とし、通り土間を持たず床上部から後方ので居住部に続く平面とする。佐倉の商家の佇まいを良く伝えている。
*2下屋(げあ)ー主屋から差し出してつくられた屋根。



佐倉市立美術館は、旧城下町の中心部に位置する。
♦佐倉市立美術館♦
施設としては、地下2階・地上4階建ての美術館である。正面のエントランス部分はクラシカルな雰囲気のレンガ造りの建物で、大正7年に竣工された「旧川崎銀行佐倉支店」(千葉県指定文化財)です。旧銀行と近代建築を合体させた美術館となっています。


美術館の近くには「夢咲くら館」という図書館:子育て交流センター・佐倉市の発信スポット・カフェ・佐倉を学ぶフロアーなどの複合施設がある。
佐倉市は、古さを感じる所が多く残されている反面、新しい佐倉市を模索する市政が感じられる。

このコース・歩行距離約9.0km、4時間(見学含む)となっているが、だいぶ個人的には立ち寄り先をカットしたが、コースを完遂しても見所が多く、時間が足りないと思う佐倉市散歩でした。
《参考資料》
・JR駅からハイキング資料
・佐倉市
・佐倉市観光協会
・ウイキペデア
・文化庁 文化遺産オンライン
・猫の足あと
・さくらぶ
・先端教育オンライン
・中高年からの歴史歩き街並み 逍遥(ロマン)編
【その他のPhoto】


武家屋敷通り




郵便ポストも「さくら色」

JR「駅からハイキング」の企画で、千葉県新松戸駅出発の~紅葉彩る寺院と戦国時代の城址を訪ねて~が行われて参加した。参加したと言っても、身体を考えて訪れるのを寺院の紅葉だけにした。北小金の本土寺・東漸寺を訪れた。

二寺のある小金地区は、古くから栄えた町で中世からの寺院や城跡が残り、江戸時代には「水戸街道」の宿場町「小金宿」が置かれた。この地に「小金」や「小金原」といった地名があるのは「下総台地」一帯には幕府の軍馬育成のための牧場「小金牧」が整備され、そのため「小金宿」には「野馬奉行」も置かれた。地名は、平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。1889年(M22)、町村制施行により、旧・小金町を中心に周辺の村を合併、改めて小金町が誕生して以降、戦後まで単独で町として発展、1954年(S29)、東葛市を経て、松戸市に編入された。
♢本土寺♢
本土寺は、鎌倉時代の1269年に建てられた「法華堂」を起源とし、1277年、現在地の平賀(現・松戸市平賀)に豪族の屋敷内に移され日蓮上人の高弟日朗を導師として開堂がはじまったと伝わる。日朗が開創した「鎌倉妙本寺」「池上本門寺」と共に「朗門の三長三本」*1といわれ日蓮宗の由緒あるお寺である。
日蓮直筆の書状類をはじめ貴重な中世の資料を所蔵している。
境内には約5万株の「あじさい」が植えられ、「あじさい寺」の別名でも親しまれている。その他、参道には水戸光圀の寄進と伝えられる古松・老杉があり、ウメやサクラ、花菖蒲、コブシや藤、曼殊沙華、紅葉など一年を通じて常に見所がある。
♢本土寺♢
本土寺は、鎌倉時代の1269年に建てられた「法華堂」を起源とし、1277年、現在地の平賀(現・松戸市平賀)に豪族の屋敷内に移され日蓮上人の高弟日朗を導師として開堂がはじまったと伝わる。日朗が開創した「鎌倉妙本寺」「池上本門寺」と共に「朗門の三長三本」*1といわれ日蓮宗の由緒あるお寺である。
日蓮直筆の書状類をはじめ貴重な中世の資料を所蔵している。
境内には約5万株の「あじさい」が植えられ、「あじさい寺」の別名でも親しまれている。その他、参道には水戸光圀の寄進と伝えられる古松・老杉があり、ウメやサクラ、花菖蒲、コブシや藤、曼殊沙華、紅葉など一年を通じて常に見所がある。









次にJR北小金駅の反対側ある「東漸寺」に向かう。駅近くの十字路に「小金宿」の案内板があった。それによると、この一帯は、約3万年前の旧石器時代には人が住み、約6千年前の縄文時代には、緑豊かな台地で暮らしていたようです。小金が形成されたのは鎌倉から室町時代と言われ、特に鎌倉時代、小金城主であった高城氏の支配の元、所縁の寺社、東漸寺(浄土宗)大勝院(真言宗)広徳寺(曹洞宗)等が城周辺に集められました。江戸時代には旧水戸道中の起点日本橋から数えて4番目の宿場町小金宿*2が栄え、名のある屋敷跡や旅籠が点在しています。
小金宿は、南北1km程の範囲に広がり家並みは1万件あまりで、宿場町としての規模は大きかったようで、周りには軍馬牧場の「小金牧」「小金城」「本土寺」「八坂神社」があり、重要性も高かったようです。
*1ー日蓮宗の大寺院でいずれも長と本の字がつくところからいわれた。
*2-水戸街道の起点は、千住のようで千住からは3番目の宿場のようです。

「小金宿」の案内板の他にもう一つ案内板がありました。「マツモトキヨシ創業の地」とありました。ここに1932年(S7)に「松本薬舗」として開業したマツモトキヨシ創業の地です。トタン屋根の古い民家からスタートした松本薬舗は創業者のアイデアで多くの人が集まる店となりました。「親切なお店」「良い品をより安く」をモットーにした創業の地とのことです。松本清氏は商才に長けて大手ドラグストアーにまでしましたが、政治家としても素晴らしい足跡を残した。松戸市長在任中、「市役所は『市民に役立つ・役に立つ人がいる所』を標語として、お役所仕事の打破と市民サービスの向上を目的として、日本初の即応部門「すぐやる課」を松戸市役所に設置し、全国的に報道されました。課の壁には松本氏の揮毫による書
すぐやらなければならないもので
すぐやり得るものは
すぐにやります
が掲げられている。
昨今、首長の質が取りざたされているが、首長の役割を学んでほしい。

小金宿は、南北1km程の範囲に広がり家並みは1万件あまりで、宿場町としての規模は大きかったようで、周りには軍馬牧場の「小金牧」「小金城」「本土寺」「八坂神社」があり、重要性も高かったようです。
*1ー日蓮宗の大寺院でいずれも長と本の字がつくところからいわれた。
*2-水戸街道の起点は、千住のようで千住からは3番目の宿場のようです。

「小金宿」の案内板の他にもう一つ案内板がありました。「マツモトキヨシ創業の地」とありました。ここに1932年(S7)に「松本薬舗」として開業したマツモトキヨシ創業の地です。トタン屋根の古い民家からスタートした松本薬舗は創業者のアイデアで多くの人が集まる店となりました。「親切なお店」「良い品をより安く」をモットーにした創業の地とのことです。松本清氏は商才に長けて大手ドラグストアーにまでしましたが、政治家としても素晴らしい足跡を残した。松戸市長在任中、「市役所は『市民に役立つ・役に立つ人がいる所』を標語として、お役所仕事の打破と市民サービスの向上を目的として、日本初の即応部門「すぐやる課」を松戸市役所に設置し、全国的に報道されました。課の壁には松本氏の揮毫による書
すぐやらなければならないもので
すぐやり得るものは
すぐにやります
が掲げられている。
昨今、首長の質が取りざたされているが、首長の役割を学んでほしい。


♢東漸寺♢
540年の歴史がある浄土宗の寺院。1481年の創建で江戸初期には関東十八檀林*3の一つになり幕府の手厚い保護を受けて大いに栄えた。明治維新に伴う廃仏毀釈や先の大戦後の農地解放で一部の敷地を失うが開創500年事業により整備した。
*3-江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関)18ケ寺、増上寺・伝通院・霊山寺(東京)、東漸寺(千葉)などで、宗派の重要事、僧侶の養成を檀林のみで行う。

540年の歴史がある浄土宗の寺院。1481年の創建で江戸初期には関東十八檀林*3の一つになり幕府の手厚い保護を受けて大いに栄えた。明治維新に伴う廃仏毀釈や先の大戦後の農地解放で一部の敷地を失うが開創500年事業により整備した。
*3-江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関)18ケ寺、増上寺・伝通院・霊山寺(東京)、東漸寺(千葉)などで、宗派の重要事、僧侶の養成を檀林のみで行う。





紅葉を満喫することができた、もみじの赤とイチョウの黄色が美しい、紅葉は、構図と陽の光によって出来栄えを左右するが、なかなか上達しない、出来の悪いのはカメラのせいにしておこう・・・
【参考資料】
・JR駅からハイキング資料
・松戸市役所
・松戸市観光協会
・ウイキペデア
・三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」
・本土寺
・東漸寺
《その他のPhoto》
〇本土寺
【参考資料】
・JR駅からハイキング資料
・松戸市役所
・松戸市観光協会
・ウイキペデア
・三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」
・本土寺
・東漸寺
《その他のPhoto》
〇本土寺





〇東漸寺
