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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

JR「駅からハイキング」の有楽町周辺のコースがUPされていたので参加することにした。有楽町周辺は、別の企画でも参加したことがあり重複する部分はカットしてコースを回りました。

最初は、 ポリスミュージアム「警察博物館」である。東京でもメインストリートの「銀座通り」から京橋・日本橋に向かう一等地にあります。この博物館は、警察庁ではなく、警視庁が運営されているようです。入口にスポーツタイプのパトカーがあり1階内部にはヘリコプターや「白バイ」などが展示されています、子どもには「おまわりさんなりきり体験」が準備されており人気があるようです。2階から4階は制服・装備品の歴史や活動に関する資料が展示されています。

弾正橋という橋が「中央区立資料館」に行く途中にありました。日本橋川から分流していた楓川(かえでがわ)に架かっていた橋でした。戦後、1960年代に埋め立て(干拓)が行われ、旧河道を首都高速道が通りました、橋名は、江戸初期に島田利正(島田弾正)の屋敷があったことから名付けられました。

「中央区立郷土資料館」は、前の京橋図書館だったようでモダンな建築物になってました。複合施設で施設名を「本の森ちゅおう」といい、郷土資料館が併設されています。江戸時代から現代までの中央区の歴史・文化が感じられる資料を展示・紹介されています。  

 ♢東京都中央区について♢
千代田区、港区とともに東京の「都心3区」の一角をなす、銀座、日本橋の繁華街・高級商業地、オフィス街を擁し、臨海部を中心にマンションも近年多くなっている。面積は、東京特別区23区の中で、台東区に次いで2番目に小さく、人口は千代田区に次いで2番目に少ない。人口は、2005年の夜間人口(居住者)98,220人、昼間人口(通勤・学生者等)647,733人で比率は6.595倍、その後、2010年には比率約4.94倍に、2020年には夜間人口(居住者)169,629人まで増加している。このようにドーナツ化現象から都市再開発により増加傾向にある。
区の西側である日本橋や京橋などは江戸時代から栄えた街で、東側は江戸時代からの埋め立てにより出来た地域である。行政的には日本橋、京橋(銀座・築地など含む)及び月島の3地域に区分されており、区内ほぼ平坦で1から3mである。東京湾に面しているため河川が発達している。
区名の由来は、東京市の地理的中央に位置し、経済文化の中心地であることから名付けられた。この「中央」の地名は、日本では初めて「中央」という地名を採用した。それ以前は、1878年の郡区町村編制法で日本橋区と京橋区が現在の中央区に相当する。

中央区郷土資料館を出て、石川島方面に向かう。亀島川に架かる南高橋を渡る、南側に亀島水門があり亀島川最下流の橋で上流に高橋(たかばし)があり、南にあるので南高橋と名付けました。架橋経過は、関東大震災後の復興事業の区画整理で本湊町と対岸の越前堀1丁目の間に計画された。東京市の予算不足のため両国橋の一部を補強再利用し南高橋に移設し
た。明治の鉄橋が現代に残り、都内では鋼鉄トラスト橋のうち、道路橋では最古で、人道橋でも二番目に古く、全国的にも6番目の古さで中央区有形文化財に指定、2016年には土木学会選奨土木遺産に認定された。

橋を渡り切った一角に「徳船稲荷神社」がありました。徳川期この地新川は越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた。(旧町名越前堀はこれに由来)その中に小さな稲荷が祀られていたという。平成3年に中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となりました。

中央大橋を渡り左が「石川島公園」、右が「佃公園」です。「石川島」は、佃二丁目の江戸時代からの旧名で、この地を領した石川家(横浜市戸塚区が本貫*1)の名に由来する。
*1ー本貫(ほんがん、ほんかん)は、古代東アジアで戸籍の編成(貫籍)が、それにもとづき行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指す。

石川島公園は、昼間は付近のマンションの利用や、特に花見スポットとして賑わうが、夜間は寂しくなるのではないか。
江戸時代には、火付盗賊改方の長谷川平蔵が松平定信に提案し、人足寄場が設置され、無宿者の隔離、軽犯罪者更生対策の制度がつくられた。近世・近代では、三大重工業である三菱重工・川崎重工とともに一角である石川島播磨重工(現・IHI)が誕生した。始まりは、1853年に江戸幕府が水戸藩に命じ現在の東京都中央区佃2丁目に造船所を創業。西洋式軍艦「旭日丸」「千代田形」などを建造した、それが現在のIHIとなった。

最後に訪れたの「日本銀行金融研究所貨幣博物館」です。江戸時代、この場所は金貨を鋳造していたことから「金座」と呼ばれていました。この一帯は重厚な建物が多くありますが、「江戸桜通り」は、その名のとおりお花見客で休日とは思えない賑わいで、隠れたお花見スポットである。受付は、日本銀行ということもあり金属探知機で一人一人チェックです。和同開珎や黄金の大判・小判(もちろん本物です)一億円や千両箱の重さの体験もできます。

これにて私の「駅からハイキング」は終了です。
このコース、築地本願寺、水天宮・寳生辨財天がコースに入っていましたが、以前、訪れたことがありブログにUPしました。また、経路を変更したことにより訪れた鉄砲洲神社、一等水準点「交無号」、西河岸橋、中央大橋、佃公園についてもブログUPしていますのでご参照下さい。

 

 《参考資料》
・JR駅からハイキング配布資料
・ウイキペデア

・中央区

【その他のPhoto】

東京都豊島区目白に「切手の博物館」があるが、展示室で「あれも地図・これも地図」展が開催された。
かつては、私も記念切手を蒐集していたが、今では昔ほどの蒐集人気は薄れている感じがする。それは、通信媒体が変わってきたのが一因かもしれません。JR目白駅で下車し「学習院椿の坂」を下るが歩道沿いに金属製のオブジェが植え込みに飾られています。建物も新しく線路沿いが再開発されたのでしょう。
駅から数分で「切手の博物館」に到着します。

今回の展示は、世界の国々で発行されてきた、世界地図の他、地域、行政区分を示した地図、路線、航空図など特定の地図など、さまざまな切手が紹介されてます。古地図、世界地図(地球儀・メルカトル・グードなどの図法)、地域地図、海図、天気図、道路図など、また戦争の原因となった地図切手など展示されています。

♦どうして切手*1が出来たか?♦
19世紀になると各国で考えられていたが郵便制度が開始されたのは、1840年である、イギリスのローランド・ヒル(1795-1879)が1837年に郵便制度を考えた、これを縁に郵便を安い料金で手軽に利用できるシステムとして切手が生まれました。

世界最初の切手はビクトリア女王の横顔が描かれていました。

本では、「日本近代郵便の父」と呼ばれた前島蜜が欧米の制度を元に国営の郵便制度を始めたのが1871年(M4)4月20日である。


切手を発行してない国はないが、現在、世界で約50~60万種類であると言われているが確かではない。
*1-英語では切手は、”Stamp”と呼び、この場合は、証紙・印紙の意味を持つ。日本では、元来「切符手形」を意味し、それを略した名称だった。

♦切手図案の変遷♦
切手蒐集の楽しみは、何と言っても図案である。図案には歴史により傾向があるようです。

①肖像・紋章   ~19世紀後半  
   ⇓       ※顔は偽造防止
②風景や絵画   19世紀末~20世紀始め 
   ⇓       ※自国の豊かさアピール
③軍事的図案   1910~40年代
        ⇓                 ※切手のメッセージ性に気づいた政治家国家の

             政策や主張を国民や自国以外の人々に伝える。

④図案のカラー化 1950年代以降
        ⇓
⑤カジュアル化  1990年代~
           ※俳優・歌手も切手に、オードリー・ヘップバーン    

            やエルヴィス・プレスリーも。  

♢切手のトラブル♢
・戦争を引き起こした地図
 カリブ海イスパニョーラ島は、東側がハイチ、西側をドミニカが統治

 しているがドミニカ発行の切手で自国領土がハイチ領に食い込んでい

 たため、実際に戦争がおこった。


・エトロフ島を欠き発売中止の切手
 「ふるさと心の風景」切手で上隅に北海道が描かれていたが北方領土

 エトロフ島が描かれていないため後日発売中止に。

領土に関しては、その他、イギリスとアルゼンチンのフォークランド島や日本と韓国の竹島問題など支配地域を示そうとする意図が感じられる。

切手もテーマを絞って展示すると、面白い見方ができると感じました。

目白駅に戻り、周辺に「旧近衛邸のケヤキ」と古い「千登勢橋」があるので行ってみました。
◎「旧近衛邸のケヤキ」
途中、目白駅から2分電車が見える所に「目白豊坂稲荷神社」と隣に「市来嶋神社」がありました。豊坂稲荷神社は、江戸時代には駅の東側、学習院大学の校内地にありましたが、明治41年に学習院が移転したため、現在地に遷座されました。


さらに向かう、ここの通りは「近衛通り」*2と呼ばれているようです。この辺のマンション名も「近衛」と表記された建物がありましたが、「近衛町」という地名はないようです。この道路のど真ん中に「ケヤキ」の木がありました。この辺一帯が旧近衛邸があった所であるが、建物は解体されケヤキの木(侯爵邸の車寄せだった場所)だけが住民の願いにより残されたようです。

*2-明治以降になると、この台地上の多くを公家の五摂家のなかでも筆頭の近衛公爵家が所有していました。

新宿区の下落合周辺は、歴史のある瀟洒な建物が点在しています。この近くに「日本ハプテストキリスト教 目白ヶ丘教会」があります。白い清楚な建物で、こちらは昭和25(1950)年に建てられたもの。 「帝国ホテル」を設計した建築家フランク・ロイド・ライトの弟子だった建築家・遠藤新の最後の作品です。

旧近衛邸が残っていないのは残念ですが、別邸と言われる荻外荘(てきがいそう)は杉並区で保存公開されている。

最後に、千登勢橋を見学しました。JR目白駅前の「目白通り」を東に向かい雑司ヶ谷との境界に深緑色の古い跨道橋が見えてきます。橋上は「目白通り」下が「明治通り」と「都電」が通りそれを跨ぐ立体交差するアーチ橋となっています。目白地域が高低差があることが、坂道が多いことや千登勢橋の立体交差を見れば、台地上(目白台地)にあることがわかります。千登勢橋は、1932年(S7)に完成しました。立体交差の橋としては日本初ともいわれ、今なお現役で土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」にも指定されています。


【参考資料】
・切手の博物館
・切手の博物館配布資料
・ウイキペデア
・落合学(落合道人)
・目白豊坂稲荷神社
・AllAbout 趣味

《その他のPhoto》

目白駅は橋上駅となっており「銀鈴の塔」という名のエレベーターが設置されており、バリアフリー化している。以外に利用者が多い。

目白通りにまだこうした古い商家が残っていたました。明治時代創業の畳屋さんで、民芸品も扱っているようです。

 

一度、雛人形のビラミッド状に飾る「びっくりひな祭り」を見てみたいと思っていたが、たまたまJR東日本の「駅ハイ」の企画があり、参加した。鴻巣市というと「運転免許センター」と「人形」の町のイメージであるが、その鴻巣市も「市制施行70周年」とのことで、今回の「駅からハイキング」も記念企画となっている。

□鴻巣市の概要□
埼玉県中央部に位置する市で人口は約11.6千人。
西部を「荒川」*1、南東部から中央部にかけて「元荒川」が、北東部を「見沼代用水」が流れ、中央部は大宮台地に位置する。市の標高が約10mから25mと歩いていても標高差が気にならない。市内の直下には中央構造線に関連した綾瀬川断層があります。

鴻巣市は、江戸時代に整備された中山道7番目の宿場町(日本橋から数えて)*2として栄え発展し、現在は東京から約50km圏内で住宅衛星都市となっている。産業は、稲作や花卉栽培*3が盛んであり、江戸時代からの続く「ひな人形」(鴻巣雛)の産地である。鴻巣市の地名の由来は、諸説あるようですが、かつてこの地に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから、「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「こうのとり伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられています。
 
*1ー川幅日本一
*2ー鴻巣宿は、元々、隣の北本市に位置していたが、江戸幕府の宿駅整備に伴い、それまでの鴻巣宿より北の、市宿新田に移設された。
*3-ポピーの栽培面積が日本一


§鴻巣市の日本一§
①日本一長い水管橋(全長1100.95m)
②日本一高いピラミットひな檀(31段で7m)
③川幅日本一(荒川 2,537m)
④1分あたりの尺玉以上の花火打上数(1分間平均約75.5発)
⑤ポピーの栽培面積日本一、面積12.5haで東京ドーム2.5個
⑥プリムラ⑦サルビア⑧マリーゴールドの出荷量日本一(2006年度)

JR大宮駅で高崎線に乗り換え、「鴻巣駅」で下車する。今回の企画、鴻巣市の中心街を巡って5km、所要時間約2時間30分となっており、高齢者向けのコースとなっている。それでも、コースの一部をカットしてしまった。

(1)勝願寺鎌倉時代創建の古刹、関東十八檀林*4の一つであり徳川家の庇護を受けて栄えた寺院です。今でも徳川家の家紋「三つ葉葵」を見ることができます。本堂と仁王門は明治15年(1882)の火災により焼失後に再建されたもの。惣門に「栴檀林」の額がかけられている。「宿泊のため訪れた加賀藩前田家一行が「下馬札」を見落として寺僧が追い返した」とか「槍を立てたまま通行しようとしたため、寺僧が槍を取り上げた」という逸話が残されている。
境内には、徳川家家臣で本多忠勝の娘で、真田信之の正室である小松姫の墓石や伊奈忠治夫妻と伊奈忠次夫妻*5の4基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。伊奈一族の治水・大改修は、江戸水運の土台を築くとともに河川の付け替えや水田地帯の開発を行い、現在の東京の基盤を作りました。

*4ー檀林とは栴檀林(せんだんりん)の略語で、僧侶の集まりを栴檀の林にたとえた寺院の尊称で仏教の学問所を意味し、多い時で600から800人ほどの学僧が学びます。
*5-400年ほど前に、伊奈備前守忠次が埼玉県伊奈町に陣屋を構えたことから、伊奈氏の功績から伊奈町と命名した。



お寺を出て、「ひなの里通り」を南に進み旧中山道に入り北に進み「広田屋人形」店と鴻巣市産業観光館「ひなの里」を見学する。
(2)広田屋人形
広田屋は、人形のふるさと鴻巣で一番大きなお店です。250坪の広い展示場にたくさんのお人形を展示。
スタッフさんのお話では、少子化や住居の関係でコンパクトな雛飾りの需要が多く、飾り台が収納ケースになるものに人気があるようです。
※ひな人形と共にギネスに登録された日本一の大玉が陳列されていました。
 
(3)鴻巣市産業観光館(ひなの里)
鴻巣市人形町に開設し、伝統工芸であるひな人形や赤物の展示、中心産業の花卉栽培や川幅グルメなどの特産品の紹介及び販売、観光案内などを行っています。「鴻巣びっくりひな祭り」期間中は明治期築造の蔵にて、鴻巣びなとつるし雛を展示しています。施設は、江戸時代から続く老舗人形店の資料館が閉店のため寄贈したもので、明治時代の蔵は埼玉県の景観重要建造物に指定されています。
鴻巣宿の時代から農間期の農民の余技でこしらえてきて、天正年間に京都伏見の人形師が移り住んで豪華な衣装で着飾った古代雛が作られるようになり、人形産地として知られ、「鴻巣雛」あるいは「鴻巣人形」と言われる400年の歴史を持つ伝統工芸品となっている。近代関東三大ひな市(鴻巣、越谷、江戸十軒店)の一つに数えられている。埼玉県は、ひな人形の出荷額が日本一の県。江戸時代に日光街道や中山道の宿場町として栄えたことに加え、豊富な水源があったこと桐などの材料に恵まれていた。

※ひな祭りの由来 ひな人形の起源は、中国の「上巳節」という3月初旬の節句と言われ、季節の節目に悪いことが起こらないように、厄払いの行事が、平安時代中頃にもともと紙人形を作って海や川に人形を流し、身のけがれをおはらいする行事からきているといわれてます。江戸時代になると幕府により5つの節句が制定され「端午の節句」や「桃の節句」には男の子や女の子の成長を祝うようになり、流すものから飾るものへと変化しました。職人の手により、人形作りの技術も発展し、ひな人形も美しく精巧なものへと変わりました。


さらに旧中山道を北に歩き、鴻巣宿本陣跡・法要寺・鴻神社に立ち寄る。
(4)鴻巣宿本陣跡
本陣跡と言っても他の宿場町と同様に「碑」が建っているだけで、周りを見ても想像がつかない、碑がなければ通り過ぎる。ここに、1843(天保14)年には人口2274人、戸数566軒であったと記録が残っています。


(5)法要寺
加賀藩前田家が参勤交代の際の宿所としたことから、前田家と同じ梅鉢紋が使用される室町時代創建の寺院。鴻巣市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、彰義隊士関弥太郎などの墓があります。
※加賀藩前田家の宿所は、当初、勝願寺であったが宿泊を拒否され法要寺となった。前田家は、それに感謝し堂の改築費用を出し、前田家の家紋を使えるようになった。



(6)鴻神社
鴻巣宿にあった氷川社・熊野社・雷電社を明治6年(1873)に合祀、その後、明治35年(1902)に日枝社・東照宮・大花稲荷社・八幡社を合祀して、現在の鴻神社と改め現在地に移転した。合祀した氷川社は、鴻巣郷総鎮守として広く崇敬をあつめた古社、また、「鴻巣」の地名の由来の一つ、こうのとり伝説の由来となっている。  
鴻神社の樹齢500年以上と言われる「夫婦銀杏」は夫婦円満・子宝にご利益があると言われています。訪れた日は、着飾った子どもと両親がお参りしてましたが、2月と3月の午(うま)の日に行っている「初午祭」なのでしょうか。



いよいよコース最後は、「鴻巣 びっくり ひな祭り」メイン会場です。この企画のメインでもあります。「エルミこうのす」というショッピングモールの吹き抜けを利用した。高さ約7m、31段のピラミッドのひな檀」(2012年に1807体の人形が飾られた)はまさに日本一、このピラミッド型の飾りも20周年迎えマスコミにも取り上げられたこともあり込み合っていました。



【参考資料】
・「駅からハイキング」配布資料
・ウイキペデア
・鴻巣市役所
・鴻巣市観光協会
・埼玉新聞
・荒川上流河川事務所
・勝願寺
・法要寺
・広田屋人形
・鴻巣市産業観光館「ひなの里」
・エルミこうのす
・にほんご日和

《その他のPhoto》
城下町と同じように宿場町も古い商家が残っていることが多いが、鴻巣市も残っているほうです。