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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

中央区立「本の森ちゅうおう」(京橋図書館)の用事を済ませて、帰りに京橋をミニ散策。JR「駅からハイキング」で通った「国立映画アーカイブス」のビルに行くことに。国立で古い名作・歴史的な映画を上映している事は知っていたが、名前が変わっていた。前は、「東京国立近代美術館フィルムセンター」であった。

訪れた日は映画は見られなかったが、展示室があるのでそちらの方を見学した。
国立映画アーカイブスの 〇所蔵フィルムは、
              日本映画約72,443本
              外国映画約10,503本
               〇所蔵映画関係図書
              (和)44,591点
              (洋) 5,478点
               〇シナリオ 約48,000点
               〇ポスター 約61,000点
               〇スチル写真 約760,000点
               〇プレス資料 約74,000点
               〇技術資料 約700点   が所蔵されている。
展示室は、常設展と企画展があり常設展では、撮影機材。ポスター、台本などが展示されている、企画展は、「アニメーション映画の世界」と題しポスターなどが展示されていた。
常設展は、日本映画のはじまり*1から、サイレント、トーキー、戦時下の日本映画、戦後の映画、アニメーションで構成展示されている。
*1-映画の伝来は、1896年エジソン社のキネトスコープで覗き眼鏡式装置で、一人しか観覧ができなかった、翌年には、リュミエール兄弟のシネマトグラフとエジソン社のヴァイタスコープは、現在と同じようにスクリーンで見ることができた。それ以前は、オランダから持ち込まれた幻燈で、それを応用し「写し絵」として江戸で興行した。

国立映画アーカイブスを出て、中央通りに出る。「中央通り」は、港区新橋から北へ銀座・京橋・日本橋・秋葉原・上野の商業地、繁華街を通る都心の大動脈である。商業地・繁華街が多い「中央通り」の中でも京橋地区はオフィスが多く落ち着いた雰囲気で外国の街並みのようである。再開発による新ビル、改修した老舗「明治屋京橋ビル」は中央区指定有形文化財で新旧調和の街並みとなっています。
京橋は、かつて川が流れていました。江戸時代に開削された約600mの人工河川です。地名は、京に向かう橋ということで京橋と名付けられました。京橋川は、終戦直後まで存在しましたが、戦後の復興事業の一環として、外濠、京橋川を埋め立ての計画により。1959年(S34)に京橋川は埋め立てられました。江戸時代の京橋は、木造で公儀橋*2で、欄干の柱頭部に擬宝殊という飾りがついていた。擬宝殊のついた橋は日本橋と新橋のみです。1875年(M8)石造りのアーチ橋に架け替えられた。翌年には、京橋から新橋にかけて銀座レンガ街が完成しました。こうして、明治・大正時代に日本橋から銀座までモダンな商店街として栄えました。
*2-公儀橋 (こうぎばし)は、 江戸時代 、 江戸 、 大阪 、 京 などで、 江戸幕府 の経費で架設、架け替え、修復が行われた 橋 である。


                                                

【参考資料】
・中央区
・ウイキペデア
・国立映画アーカイブス
・東京レトロ街歩き
・居抜き店舗.COM


 《その他のPhoto》

 

 

 

 

中央区立本の森ちゅうおう(京橋図書館)に調べものがあり八丁堀駅で降りたが、時間を割いて八丁堀界隈を散策した。亀島橋付近に堀部安兵衛の碑があるという記述を見て、亀島橋に。亀島川については以前、JR「駅からハイキング」で下流域を訪れたが、亀島橋は上流にあたるが何せこの川は流路が約1kmと短い川に5つの橋が架かっているその一つである。江戸期には川沿いに向井将監(むかいしょうげん)*1の御船手奉行があり、江戸に入る船舶はここであらためを受けたため将監河岸とも呼ばれていました。
*1-幕府船手頭
この橋の創架は、1699年と言われ、関東大震災で被害を受け1929年に再建され、2002年(H14)には老朽化により建て替えられ現在にいたってますが、新しさを感じさせない橋でした。

堀部安兵衛の碑は、橋の北西の袂にありました。この碑文は、すべて漢字で刻印され読みにくい碑でした。赤穂義士・堀部安兵衛武庸は、当時の水谷町(現在の八丁堀1丁目)に居住し、剣道の達人として知られていました。有名な高田馬場の仇討ちで彼の武勇は江戸中に伝わり、浅野家家臣の堀部弥兵衛の婿養子となり四十七士の一人として吉良邸の討ち入りに参加しました。この碑は、八丁堀1丁目町会により建立されました。


反対側の袂にも碑がありました。
松尾芭蕉の碑で、「八町堀を詠むー菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)ー芭蕉五十才 元禄六年(1963年) 芭蕉晩年の句で大きい重い石の間のたくましい菊の生命力を感じたのでしょうか。この辺、石屋さんが多かったのでしょうか、海上輸送で石垣などの石置き場になっていたのでしょう。

その他、説明板には、「この地に移住し、功績を伝えられる人物」として二人の人物が紹介されています。
〇東洲斎写楽 写楽については、生涯や正体が不明の点が多いが、八丁堀に住んでいたとの考証も示されています。
〇伊能忠敬
伊能忠敬は、1814年(文化11)に深川から八丁堀亀島町に転居しました。ここは、「地図御用所」としても利用されました。伊能忠敬は、1818年(文政元)に死去し、ここが終焉の地となりました。死去後も、この地で門弟・天文方の手により1821年(文政4)に「大日本沿海輿地全図が完成しました。

亀島橋から八丁堀駅に戻ると、R建築の建物がありました。京華スクエアという建物で、昭和初期に建設された旧京華小学校で外観の面影を残しつつ改修した中央区の複合施設です。昭和初期の建築は、ロマンがあっていいですね。

この辺りは、与力や同心が住んでいたことで有名で「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」です。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀は、はじめは寺町した。1635年(寛永12)に江戸城下の拡張計画が行われ。多くの寺は郊外に移転し、その後に、与力・同心組屋敷の町が成立しました。江戸町奉行配下の与力は、徳川家の直臣で同心はその配下の侍衆です。南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人あまりでした。
捕物帳では、「八丁堀の旦那」と呼ばれて庶民の味方として信頼をえてましたが、八丁堀の与力・同心組屋敷からきています。     
八丁堀は、まだまだ歴史を感じる散策でした。
  

 【参考資料】
・東京都中央区
・中央区教育委員会
・ウイキペデア
・中央区観光協会
・Jreport(勢古口順の公式ブログ)
・歴史探訪と温泉

松屋銀座開店100周年の一面広告が新聞に掲載された。1925年(T14)5月1日に開店された。
一面広告で私の両親の事が思い浮かんだ。もう100年も経つのか・・・


私の父母は、開店数年(当時は松屋呉服店)経つて勤めたと思うが母は昭和10年に結婚と同時に退職し、父は昭和16年頃に松屋呉服店から応召した。

※1930年頃の松屋銀座で、このころは店員として働いていました。隣は、文具店の「伊東屋」。母からは、「伊東屋」は、松屋呉服店(現・松屋銀座)より古いと言われた。

私は、戦後数十年後の松屋銀座を覚えているが、当時は、中央が上層階まで吹き抜けになっており、それが何ともモダンな百貨店のイメージであった、その後、消防法の関係なのか吹き抜けがふさがれた。
100周年のイベント期間中に訪れたが、両親に見せてやりたかったと思った、我が家の原点は、「松屋銀座」かもしれません。

※100年を記念し暖簾が飾られていた、鶴のマークは懐かしい。このマークは、創業の地であった、横浜・鶴屋呉服店の鶴をデザインしたと思われます。
 

 

【参考資料】

・松屋銀座
.・朝日新聞
・絵葉書資料館