爺の社会科見学 -34ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

コロナ禍の中で久々の参加である。幸手市の散策については、昨年「思い出の街を訪ねて」(2019-05-13UP)に次ぐ2度目である。昨年と重複しないようにしたい。

梅雨空の中での東武日光線幸手駅を出発する。


駅前通りにある前回も訪れた「一色館跡と陣屋稲荷」を参詣。続いて向かいの横道から「天神神社」へ、天神神社の創建については明らかでないが祭神は菅原道真で、陣屋稲荷(一色稲荷)と関りがあり、一色氏によって創建されたものと伝えられ、一色氏館の鬼門に位置していたものと言われ、館の守護神であったと伝えられている。境内が広く大樹から古さを感じさせる。本殿を見て回っていると、氏子総代の方が本殿開けて見学、集会所にある子ども神輿も拝見させていただきました。 

さらに道なりに北に進み県道153号幸手久喜線沿いにあるのが満福寺(別名・幸手観音)である。創建は、戦国時代末期で一色氏の祈願所であったと言われています


さらに北に向かって歩くと幸宮神社がある。神社の名称としてはこれ以上の名はないのでは。幸宮神社には神職が常駐しています、天神神社の氏子総代の方が神主は幸宮神社にと言っていたが、近隣の神社を束ねているようです。創建は不明ですが400年以上の神社で明治時代以降に総鎮守となっています。奥の本殿は全面彫刻が施され、江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されている。彫刻は、上り龍・下り龍、四季農耕の流れ、獅子・鳳凰・鷹・松などが彫られている。


次は「田宮の雷電神社」だが、いままで北に向かう道なりに寺社が点在している。雷電神社は、中世の幸手の中心の神社で日本武尊の伝説ものこされている。幸手で最も古い神社の一つで、明治以前は幸手宿の総鎮守となっている。田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り田の中の宮で田宮としました。雷神は水との関係が深く農家の人々の信仰を集めました。幸手の地名は、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、「田宮の雷電神社」に農神を祀ったという言い伝えが残り、幸手の地名は、「薩手」(さって)に由来している伝えられている。

「田宮の雷電神社」を出て、大正新道(県道152号加須幸手線)から日光街道に入り聖福寺に。
聖福寺は、およそ600年前に創建されました。江戸時代、徳川家康のなきがらが日光東照宮に移されてから、歴代将軍が参拝する度に、日光街道の経路に当たる聖福寺が御殿所として将軍休息所の役割や例幣使の休息所に用いられました。その際通った唐破風の山、門が「勅使門」として残っていました、将軍と例幣使が使用しないときは閉ざされていたようです。


聖福寺を出て北に進むと日光街道が大きくカーブし、右手に「一里塚跡」碑と正面には正福寺があります。一里塚そのものは残っていません、単にこの場所に一里塚があったということのようです。中には入りませんが、正福寺は創建年代が不明のお寺ですが、檀林があったり多くの古文書仏像、書画が保存され、境内には道しるべがあり有名なお寺のようです。


午前中は、午後に雨の予報で、駅付近のお寺を駆け足で回り昼食のため日光街道を駅の方に、古い商家に歴史を感じながら、そば所「大村庵」に入る。

梅雨特有の蒸し暑さで予定の訪問先が遠い事を考え幸手駅西口のお寺を見学することに。私も幸手に住んでいたが行ったことがなく、住宅が少なく緑が多いイメージしかなかったが、徐々に宅地化しているようだ。
この地の開拓者親族の菩提を弔うため建立された「祥安寺」と頼朝と薬師如来の伝承がある「神宮寺」に立ち寄り幸手駅に。


午後の雨の予報も晴れて酷暑に皆さんグッタリ、おまけにマスク姿での散歩、喫茶店に2度も入り休憩。
幹事のMさんが出発前におよその散歩コースのコピーを渡してくれるが、この暑さで予定のコースを変更し幸手駅周辺にしてくれたが、それでも皆さんお疲れのようでした。


【その他のPhoto】

 

久しぶりの電車である、4か月以上電車に乗っていなかった。  6月19日に「コロナウイルス」による都道府県をまたぐ移動制限が解除されての散策である。
この4か月巣篭りの3食昼寝付き状態で、足腰が弱くなり最初の散策は近場の習志野市へ。
JR武蔵野線・京葉線で新習志野駅で下車し「谷津干潟」に向かう。新習志野駅前には東京湾岸道路(国道357号)、東関東自動車道と千葉県交通の大動脈である。
その他、習志野市域には、京葉道路・国道14号の国道等、数多くの道路が設置されています。JR京葉線、JR総武線、京成電鉄、新京成電鉄が市内を走り、東京メトロ東西線も乗り入れています。また、各種の路線バスが駅と住宅エリアを結び、充実した交通網が発達しています。人口は、約16.4千人で千葉県で12位だが、人口密度は4位となっている。


側道から公園にはいる、スポーツ施設を通り過ぎると干潟が見えてきて「谷津干潟自然観察センター」があり入館(有料)する。有料だけあってそれなりの資料・設備があり充実している。52ヶ所ある日本のラムサール条約登録地の一つである。千葉県には浦安・市川・船橋市の三番瀬という大きい干潟があるが、習志野市のはコンパクトではあるが干潟を学習するにはいいのでは。外周3.5Kが歩道整備されており、地域の方々の散歩コースとなっている。周りが埋め立てられ、この干潟がなぜ残ったか不思議であるが、この一帯が旧大蔵省の計画地であったため残り、自然保護団体の運動もあり干潟として保存されたようです。

自然観察センターを出て、外周を通って反対側にある谷津バラ園に立ち寄る。

かつてこの辺は「谷津遊園」という人気のあった遊園地の場所で1925年(大14)~1982(昭57)まで営業されていた。遊園地の前は大正時代まで行徳と同じ塩田であり、のちに埋め立てられ谷津遊園となりました。しかし京成電鉄の経営悪化や東京ディズニーランドの開業により閉園となりました。谷津バラ園は、遊園地の一部として開園し当時は東洋一といわれましたが移転し現在は都市公園のパラ圓となっています。バラの時期は5~6月頃が多いが多品種にわたるため鑑賞期間も延びてるようです。

バラ園の入り口隣には、「読売巨人軍発祥の地」の碑がありました。昭和9年アメリカ選抜チームが来日し、日本チームが編成され谷津遊園地内の谷津野球場で合同練習しこのチームが職業野球としての大日本東京野球倶楽部(後の読売巨人軍)が結成されたのが発祥の地と言われる由縁である。


京成本線線谷津駅から古民家のある京成津田沼駅で下車する。藤崎森林公園にある「旧大沢家住宅」に向かう。

途中、菊田神社に立ち寄る。鳥居が新しいので古くはないと思ったが創建が810年頃と古く、かつて境内の場所は小島だった所で時代とともに埋め立てなどで現在に至ったようです。境内には3体の狛犬があるがその中の一つが別名「アイーン狛犬」と言われており、そういわれると志村けんのアイーン顔に似ている。


藤崎森林公園まで徒歩20分とのことだったが、以外に遠かった。津田沼付近は高低差の道路が多かった、下総台地の端に位置するようだ、公園内に入ると池があり茅葺の屋根が見えてきた。高台の古民家前の池は、テレビ東京の「池の水ぜんぶ抜く大作戦」で開設40年の池を綺麗にしたそうです。それによりカワセミが生息するようになったそうです。


古民家の入り口の脇に、小さいディーゼル機関車が置かれていました、長野県木曽王滝森林鉄道で昭和50年まで木材を運んできた機関車で廃止にともない譲り受け公開展示されています。森林公園ならではの展示である。


習志野市には、公開古民家が2軒あるが藤崎森林公園には「旧大沢家住宅」である。
茅葺平屋寄棟造で江戸時代に上総国長柄郡宮成村(現:千葉県長生郡長生村)の名主をつとめた大沢家の住居で昭和48年まで使われていたとのことである。
1664年に建築された東日本最古の古民家とのことです。間取りを見ても古さがわかりますが、江戸時代中期までの典型的な房総民家の形式のようです。いままで古民家を拝見したが名主の住居にしてはシンプルである。

もう一軒、「旧鴇田家住宅」があるが体力の限界のため、津田沼方面へ向かう。
津田沼は、関東有数の繁華街で商業施設充実しており津田沼戦争と言われるほどで、習志野市より一地区の津田沼の方が有名である。津田沼地区に入り新京成線の新津田沼駅より帰宅へ。 

【その他のPhoto】

連日のコロナウイルス報道でうんざりする毎日です、我が県も「緊急事態発令中」で2月中旬から電車に乗っていません。楽しみの日帰り旅行も中止になったり・・・

我が家からJR線の電車が見えますが、驚くほど乗客は少ないです乗客のいない車両もあるようです。

このままでいくと収束宣言が出ないで年明けするのでは・・・と心配です。学生時代の友人と50年ぶりに関西で会おうとの計画もいつになるか・・・