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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

1回の「退職の会」の日帰り散歩も、コロナ禍や異常気象で杉戸宿の企画が延期、延期でやっとのことで今回散歩ができた。

江戸期に整備された五街道を、宿場名を言って地名・位置が分かる方は、五街道に相当詳しい人ではないだろうか。杉戸宿も埼玉県人は分かっても全国的には知名度は・・・。

杉戸宿は、日光街道21宿場町を千住から数えて5番目の宿場である。

杉戸宿のある埼玉県北葛飾郡杉戸町は、東武スカイツリーラインの東武動物公園駅が最寄り駅(以前は駅名は杉戸駅)で駅の東側に位置する埼玉県北東部の人口4.4万人の町である。

町のほとんどが低地、駅に近い古利根川沿いに自然堤防、東部に江戸川がありこの辺は下総台地の端で台地が所々みられる。

駅前の通りを進むと大落古利根川が流れるこの川が境として駅寄りが宮代町、川を越えると杉戸町である。

 ※大落古利根川の大落とは農業排水を落とすという意味があるそうです。

川沿いを北に進むと富士浅間神社がある、毎年71日に「初山参り」がおこなわれ塚の上で1年以内に生まれた新生児が額に御朱印を授かり無病息災と成長を願う行事があります、富士塚の石に松尾芭蕉の句碑が彫られているが芭蕉と杉戸宿の関係資料はないようです。裏手には厳島神社/金刀比羅宮/稲荷神社があった、神社が集合しているようです。

 

川沿から日光街道に出て宝生院に向かう。途中、古民家がありました案内板に「角穀跡/小島定右衛門邸」とありました。(非公開)米穀問屋でかつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続き3つの蔵が連なっていた。

宝生院は、杉戸宿とともに長く、「まちの寺院」の役割を果たしてきました。戸籍の把握や寺子屋教育、旅籠屋の代わりなど重要な役割を多く担ってきました。

 

宝生院の先に古民家がありました。杉戸を代表する「渡辺勘左衛門邸」(非公開)です、享保7年(1722)に杉戸宿に移り住、多数の農地を集積し財を成し、江戸中期には質屋業を行ってきました。明治時代の埼玉県大地主297人の1人として紹介されるまでになりました。銀行設立、学校設立など大きな貢献をし、昭和には町長を務めるなど数代に渡って町の発展に尽力をした家柄です。

町の中心に戻ると通りに「渡辺金物店跡」があった。これは、「渡辺勘左衛門邸」の分家に当たる家です。平成に入り看板を下ろし、現在は、月1回「クラブ茶屋」が開催されています。(日程不定期)

この辺から南が高札場、脇本陣、本陣、問屋場があったが確認できなかった。ただ、「明治天皇御小休所跡」の碑が銀行の前にあった。

街道からそれ愛宕神社、神明神社に立ち寄る。

 

昼食後、近津神社へ。幹事のMさんがこの神社の狛犬が変わっているとのこと。杉戸キリスト教会の隣に近津神社の鳥居があった。なんとも隣どおしというのも珍しい。この教会も古く明治18年(1885)に設立された清地会堂を母体とし昭和28年(1953)に創設された教会で県内では和戸教会に次いで2番目に古く、内村鑑三が講演した歴史を持つ。

 

近津神社は、清地村の鎮守である。幾度となく再建されており、平成13年(2001)に不審火により再度焼失した。本殿の彫刻は類を見ない素晴らしいものだったといわれたが本殿とともに焼失した。

注目の狛犬はというと、チョット変わっている、狛犬に関して詳しくはないが、この狛犬、振り返っているように見える、ここまで振り返るのは珍しいかもしれない。

 

隣には高札場があったが本来の「高札場跡」は本陣のあった付近にあったもので平成に建設されたものです。

 

日光街道から「みなみがわ散策道」に入り、本尊の不動明王が奥州平泉の藤原基衡の命により作られたと伝えられる来迎院、境内には「十三仏」がありました。十三仏は、室町時代になってから考えられた冥界の審理に関わる13の仏である、Mさんの話では十二支に対応しているとのこと、私は虚空蔵菩薩でした。

来迎院のあと杉戸町役場内の北葛飾郡役所跡や八幡神社に立ち寄る。

「みなみがわ散策道」から日光街道に戻る、「三本木一里塚跡」の案内板がありましたが碑がなく、その案内板も民家の垣根に埋もれていました。これで杉戸宿の北から南まで歩いた感じです。帰り、街道沿いに「豊嶋屋/関口式右衛門邸」がありました、江戸期から続く造り酒屋です。

駅に近い東福寺に立ち寄りました。この東福寺は、明治初期の自由民権運動の高揚期には埼玉県東部地区の中心となり政談演説会が幾度なくおこなわれました。また、杉戸町の最初の町役場が置かれた場所でもあります。

東福寺から大落古利根川に出て川岸を散策するが、毎年「古利根川流灯まつり」がおなわれる、畳一畳分の手作り灯籠が川面に光の帯となり天の川のようだとのことです。

 

杉戸町の名所旧跡が思ったよりまとまって点在している印象です、古民家も残っているのも驚きでした。

新聞に歴史的建造物が取り壊されているとの掲載がありました。維持管理が大変ですが、今後も歴史遺産を大事にしてもらいたいものです。

幹事のMさんの話では資料等が少ないため杉戸町観光協会より立派な資料を送って頂いたとのことでした。・・感謝・・

 

【その他のPhoto】

神田明神祭務所地下参集所にて「神田祭と神田明神の歴史を学ぶ講座」が行われた。講演が神田神社権宜岸川氏ということで、一般の研究者と違った切り口のお話で勉強になりました。ここで少し紹介を・・・。(講演内容全てを紹介できればいいのですが)

♦神田明神の歴史
創建は、奈良時代の天平2年(730)に豊島郡柴崎村(現・千代田区大手町にある将門塚周辺)に真神田臣が祖神・大己貴命を祀り鎮座、創建。
※創建は今の場所ではなく、神田明神の名は、真神田命からとったと言われている。

延慶2年(1309)には平将門公を合祀。
※大手町にある将門の首塚は、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受けてきた、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあると言われ、大手町の一等地にもかかわらず現在は囲いをし祀られている。

神田明神が現在の地に遷座されたのは、元和2年(1616)の江戸拡張により現在の外神田・表鬼門守護の地に遷座、幕府により社殿や神輿などが寄附され、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」となった。
※慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて神田明神で戦勝祈祷をして9月15日・神田祭の日に家康軍勝利した。このように徳川家康とは様々な縁があり、江戸時代以降に盛大に行われた。

明治時代に入ると、神田明神から神田神社に改称。                    ※多くの神社が、明治政府の命により江戸時代の名前から変更された。

♦江戸三大祭の一つ 神田祭
江戸時代には、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と言われ、江戸時代から現代まで続く神社の大きな年中行事であり、娯楽の少ない江戸庶民にとっては大きな楽しみであった。特に神田祭と山王祭(日枝神社)は、天下祭と呼ばれ盛大な祭りとして知られていました。神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭りの一つとも言われています。 
お祭りの期日は、江戸時代は旧暦9月15日でしたが現在は、5月となっています。天和元年(1681)頃まで毎年行われていたようですが、町々の祭礼費の負担が多く山王祭と交互に隔年斎行されています。
天下祭と呼ばれた所以は、江戸城・内曲輪内へ祭礼行列が入れた、徳川将軍や御台所の上覧、幕府による神輿行列の費用負担と祭礼奉仕などから他の神社とは優遇が異なった。
現在は、神幸祭を中心に1週間ほどの行事である。巡行は神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原108町会を巡行する、この巡行は回ることによりお祓い、清めるそうである。神田祭も今は神輿が中心となっているが、かつては山車であった、それが通行への影響や地震災害で焼失などで神輿が主流となっている。神輿の担ぎ手は、氏子ではなく江戸時代では日雇い労働者であり、氏子は町で待っているそうで、現在も同じようです。
江戸時代は、宮神輿が中心であったが、現在は町神輿に移っており、神幸祭行列と巡行することはほとんどないとのこと。

♦江戸祭礼で人気があったのは?
祭礼で人気のあったのは神輿や山車ではなく、山車の後に付く「附祭」(つけまつり)が最も人気があった行列であった。様々な出し物から構成、各氏子町が競うあうかのように毎回違うテーマを考え、担ぎ万度、練物、造物、踊台、底抜屋台、地走踊などの行列となった、今で言うハロイン、AKB、阿波踊りなどが行列したのだろう。
 
♦神田明神と銭形平次
神田明神の境内に「銭形平次の碑」がある、「銭形平次捕物控」はロングドラマでギネス認定された、野村胡堂の名作で、舞台設定が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と長屋に住み明神界隈を舞台に活躍したことから作家クラブが境内に建立した。時代設定は、将軍徳川家光の時代、描かれた風景は文化文政期(1804~29)、平次の特徴である「投げ銭」は、中国の「水滸伝」の石投げからのヒントとのこと、また、銭形という名も建設中のビルの「施工 錢高組」からヒントを得たとのこと。野村胡堂が銭形平次を書くにあたり留意したことは、①容易に罪人をつくらないこと②町人と土民に愛着をもつこと③サムライや遊人を徹底的にやっつけること④全体として明るく健康的な読み物にすること(縄田一男「捕物帳の系譜」より)留意点が面白くしているようです。主役をした大川橋蔵が目に浮かびます。

神田祭も行事の中に、献茶式、明神能・幽玄の花(金剛流薪能)などを加えて神事を行い、伝統の創造もしているそうです。
神田神社境内に交流館も完成し、時代時代に沿う神事を模索しているようです

6月に習志野散策した際に 立ち寄り出来なかった、旧鴇田(ときた)家住宅に行ってきた。
京成本線実籾駅で下車し古民家のある「実籾本郷公園」に向かう。習志野市の2軒の保存古民家は、公園の中にあり、それぞれ趣があっていい。
実籾本郷公園は、水場が多く季節によって桜やショウブなど野鳥も楽しめるようです。古民家の管理の方がショウブの季節はいいですよと話していました。公園が広いせいか車道もあり気お付けなければならない。
旧鴇田家住宅は、実籾本郷公園入口に近いところにあった。旧鴇田家住宅は合併する前の実籾村の東金御成街道にあり、平成に入り当地に移築された。東北地方、特に岩手県に多く観られる「南部曲がり家」と同じL字型である。岩手県は、馬産地でもあり突出した部分が厩となっておりそれが特徴である。千葉県も江戸時代には軍馬を管理する「牧士」がいたことから、「曲がり家」住居が存在したのだろうか。?
この旧鴇田家住宅は、土間が広く「南部曲がり家」の特徴である厩屋と土間の仕切り(横棒)が見当たらない。管理の方の話によると馬は飼育されていないようですとのこと。移築保存する前は、板の間が土間の方までせり出していたようで、現在は復原し建築当初として保存しているとのことです。玄関を観ると名主としての役割が強い住居となっている。
土間ではカマドを使用していたが、古民家の維持のために休みの日以外は、全体をいぶしているようです、古民家の維持管理も大変です。
天井の桁や梁が太く継手など曲がった木をよくここまで建築部材として加工組立ていくと感心させられる。
移築ということで庭も整備され庭に水琴窟があるのにはビックリであり、耳を澄ますと水琴窟の独特な反響音が聞こえてくる。管理の方が座敷の障子戸の間から庭の景色良いですよと話してましたが本当に最高です。

残暑の中、他の散策をやめ、無理をしないように帰路の途中、市川市の市立市川歴史博物館と考古博物館に立ち寄る。市川市には、この他に市川市立市川自然博物館や、民間の展示施設があり、人口約49万人の都市の割には学習・鑑賞施設が充実しており、羨ましい環境である。
歴史博物館と考古博物館は、近接しており北総鉄道北総線北国分駅で下車する。
途中、「堀之内緑地入口」の看板があった。市川市は、「健康都市いちかわ」を宣言し、市内の豊かな自然の公園等を結ぶ散策コースを設け、「水と緑の回廊」として市民の健康増進に努めている。博物館はそうした中にある。


まずは、市川市立市川歴史博物館に入る。展示は、平安時代後期以降の市川市の歴史が紹介されている。    
§主な展示§ 中世以降の市川・海辺の人々の生活(製塩・海苔)・交通(陸路・水路)・台地の人々の生活(梨・稲作)・郷土コーナー(市川に関わる人々)・鎌倉時代(国府台合戦)・法華経寺のおこり・千葉氏と市川他


歴史博物館を出て、次の考古博物館に行く。考古博物館の前に堀之内貝塚公園が広がる、市川市の歴史は古く貝塚、遺跡が市内にあり、考古博物館には原始から古代までの出土品、生活が展示されています。
§主な展示§ 最初の住民・貝塚の形成・稲作文化の伝来・古墳の出現・律令の社会・仏教文化他


市川市の博物館は、歴史、考古博物館とも単独の施設であり、市川市の充実した社会教育に重ね重ね羨ましい。

【その他のPhoto】         
(1)習志野市旧鴇田家住宅

 

(2)市川市の市川歴史・考古博物館