爺の社会科見学 -32ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

今月の「退職者の会」の散歩は、川口市の散策ということで、JR京浜東北線川口駅で下車する。川口市は、人口59万人で埼玉県第2の都市であり、川口駅の利用者も大宮、浦和に次ぐ第3位であるが、乗り換えのない駅では大森駅に次ぐそうである。駅前は自由歩行者通路(ペデストリアンデッキ)で各施設で結ばれている。

映画「キューポラのある町」の舞台として有名な鋳物の町である。駅前の広場の「キュポ・ラ広場」にキュウポラの像があった。鋳物像の「働く喜び」である、鋳物職人として働く姿を通して働くことの素晴らしさを表している。そのほか市内には鋳物できた作品等が配置・実用品として利用されている。キューポラ炉のモニュメントも設置されている。最盛期には溶解炉「キューポラ」の煙突が林立していたようで、いわゆる工業都市の分類に入っていたのだろうが、今ではマンションに変わりキューポラの煙突を見られない。

 

駅前から離れ川口神社へ。旧社格は県社であり川口の総鎮守となっている。創建の記録が水害で失われて不明であるが、社伝では天慶年間(938~947年)に創建されたと伝えられいる。当初は、氷川社と称されたが、後に天神社、稲荷社3社、金山社を順次合祀し、明治42年(1909)に社名を川口神社に改め、市制施行(1933年)に総鎮守となった。

 

川口神社から善光寺へ。その途中、旧鋳物問屋鍋平別邸の外回りを拝見しました。隠居用に建てたものですがモダンな建物となっています。現在は、母子父子福祉センターとなっており、コロナ禍では見学は出来ませんでした。数年前に訪問した内容をUPしておりますので、「川口市の有形保存民家見学」2016.8.29をご覧ください。

 

善光寺は、その名の通り長野の善光寺と同様に阿弥陀三尊が祀られていたため、信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸庶民は信濃まで行かなくても善光寺詣りが出来ると人気があったようです。安藤広重の「江戸百景めぐり」に登場するほどでした。

 現在、善光寺付近にスーパー堤防があるが、川口の地名は、この辺が小川口と言い新芝川が荒川に流れ込むことから川口と呼んだと言われている。

中心街に戻り、この辺に鋳物の大砲があるとのことで観ようということになり展示している場所をやっとのことで見つける。増幸産業株式会社の社有地にありました。思わず何でこんな所に・・・。会社の入口の左手に展示してあり、「大砲の歴史」の説明書きも置かれていました。

それによると幕末に津軽藩より依頼を受けた増田安二郎(川口の鋳物師で増幸産業の代表で増田家初代)が後の砲術奉行を勤めた高島秋帆と協力して作り上げたものの復元品で、213問の大砲と41,323発の砲弾が製造され、各地に配備されましたと書いてありました。   

 

昼食後は、錫杖寺(しゃくじょうじ)へ。養老元年(717)に行基が本堂を建立し、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。江戸時代には徳川二代将軍秀忠が日光社参の途中、錫杖寺を休息所と定め、三代将軍家光の代には昼食とられ、以来、吉例となり家光より御朱印ニ十石を拝領するなど徳川家と深い関りがありました。「葵の御紋」の使用が許されています。また、江戸城大奥最後の御年寄であった瀧山が葬られているおてらでもあります。NHKの歴史ドラマ等で放送される瀧山は、16歳で大奥に上がり忠実な勤めぶりと才幹を認められ、大奥の総取締役と言われる御年寄にまで昇進しました。十三代将軍家定、十四代家茂に仕え十五代慶喜によって大政奉還された後も大奥の残務整理にあたり、後に侍女「仲野」の生家である現在の川口市に移り住み、夫婦養子を迎えて「瀧山家」を興しました。71歳で生涯を閉じ徳川家とゆかりのあった「錫杖寺」に埋葬されました。錫杖寺には、瀧山が江戸城から侍女仲野の川口の生家まで乗っていた駕籠が残されており、今回、錫杖寺のご配慮により特別に拝見させていただきました。

 

時間的には市内散歩できる時間帯でしたが、皆、歩き疲れたのかここで終了することに。

 

【その他のPhoto】

 

 

 

講演は歴史家の筑後則 氏で江戸時代の庶民の様子や日本橋商人について研究している。
始め、日本橋の伊勢屋は?の状態であった。聞いているうちに鰹節の「にんべん」であることが分かったが、日記、古文書等を通して当時の様子や出来事がわかり参考になった。
SNSでの講演内容や写真の公表は禁止となっているため、差し障りがないと思われる部分をUPする。
日本橋には老舗商店が多く集まっているが、江戸時代の資料はほとんど無いそうである。江戸時代の火災、幕末の混乱、関東大震災、太平洋戦争などで多くが消失している。今日、講演の伊勢屋(にんべん)は、そうした中で貴重な資料が残っている。その資料が日記として残されているので面白い、子ども・跡取り・病気・死・商人の付き合いなど赤裸々に記載されている、また、男尊女卑というな中、商いをする上で女性の役割が大きかったことなど。日記ならではの分からない店の様子、苦悩、江戸時代の様子が分かるが、内容は現代にも通ずるものがある。     

「にんべん」の創業者は、高津伊兵衛である。屋号を「伊勢屋」と定めその後、代々当主は伊勢屋伊兵衛を名乗ってっている。伊兵衛は、伊勢国三重郡四日市の出身で高津家は四日市で雑穀・油・干鰯商を営んでいた。伊兵衛は、江戸に出て年季奉公に入り、のちに独立し日本橋で鰹節や塩干の販売をおこなった。これが「にんべん」の始めである。

暖簾印(登録商標)は、伊勢屋と伊兵衛からイ(にんべん)をとり、商売を堅実にするため金尺の ¬(かね)を合わせて印としました。


代々の志と発想を受け継ぐ
〇土蔵造りの店                              
鰹節の店を出店し1年で火事にあいました。江戸時代には大火が頻発し、江戸時代末期頃までに49回も発生、大火以外も含めると1798回と推定されている。幕府は、お触れにて土蔵造りを推奨したが高額のため進まなかったが、伊勢屋はお触れを遵守し土蔵造りの堅牢な店を再建。関東大震災までの200年間にわたり火事の類焼を免れということである。「にんべんの門松は火災除けになる」と松をむしり取られたそうである。
                                 
〇現金かけ値なし
呉服店三井越後屋の画期的な販売方法であるが、伊勢屋も大名との取引が多かったが「現金かけ値なし」を貫徹した。

〇大火被災者に対しての寄進
〇「預かり証」という日本初の商品券を発行。

「にんべん」は、現在13代目である。筑後氏の講演でも後継ぎや病気等で平坦な道のりではない、商いが傾きかけた時代もあり、それを乗り越えての現在である。                                                                                
                                                                                        参考資料:にんべんHP等より

展覧会は、東京都庭園美術館でおこなわれた。庭園美術館は、国立自然教育園に隣接し都内にまだこのような武蔵野の面影を残しているところがあるのかと思う場所である。美術館の敷地は、皇族だった朝香宮邸のあった場所で、それ以前は、高松藩の下屋敷、明治期には陸軍の火薬庫だった。朝香宮は、香淳皇后の叔父にあたる方で朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設した。

今回の展覧会は、年1度の建物公開と邸宅建築が生まれた時代のコレクションを紹介している。

建物は、鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で昭和8年(1933)に完成。外観は、装飾がみられないほどシンプルだが、内装には当時流行った装飾美術のアール・デコ様式である。2015年に国の重要文化財に指定されている。建築設計は、宮内省技師権藤要吉、内装は基本設計を外国人が担当している。

 

1.外観
シンプルな外観である、1階は来賓用の部屋、2階はプライベートルーム、一部3階部分はウィンターガーデン(温室)となっています。


2.内部
主要な部屋の内装は、フランスのインテリアデザイナー、アンリ・ラパンが担当している。

玄関を入って左に進むと第一応接室になります。宮家を訪ねた来賓の御用係や供侍が主人を待つ部屋で隣の部屋が小客室です。調度品などは一級品で揃えています。

正面玄関ガラスレリーフ扉は、フランスのガラス工芸家の作品です。

〇大広間
壁面にウォールナット材を使い、装飾を抑えた重厚な空間をつくりだしてます。天井には格子縁のなかに40個の半円球の照明が整然と配置されています。他の部屋の照明器具もデザインが全て違い照明器具を観るのも楽しみの一つである。正面のアーチにはさまれた鏡と大理石のマントルピースはシンメトリーの落ち着いたデザインに華やかさを添えています。大理石のレリーフはイヴァン=レオン・ブランショの作品。

〇次室(つぎのま)・大客室・大食堂
大広間の壁を隔てた3室がつづいています。次室の白磁の「香水塔」が目を引きますが、さらにモザイクの床、白漆喰の天井は半円球のドームとなっている。朱色の人造石の壁などアール・デコ特有の空間です。
アール・デコの粋が最も集められているのが大客室と隣の大食堂です。壁画、シャンデリア、扉上部の半円形の装飾、大理石の暖炉のレジスター(換気)装飾。
大食堂は、エッチング・ガラスの引き戸で仕切ることができ大きな円形の張り出し窓は南面の庭園を望み、ここの照明器具は、パイナップル、ザクロ形など外国人デサインの特徴が出てます。


〇2階部分
2階はプライベートルームになります。2階広間を中心に若宮・姫宮・殿下・妃殿下の寝室と居間が備わっています。2階部分は宮内省技師によってデザインされました、ラジエーターカバーには日本伝統模様である青海波が使われるなど和の要素が取り入れられています。


3.管理棟・ギャラリー(新館)
本館に比べてモダンな建物でCafe等もあり、いろんな催しものが企画されているようです。


4.庭園・茶室
都立公園は、動物園・植物園・庭園・公園と多岐にわたり区部だけで約51ヶ所あるが、ここ庭園美術館は美術館の分類に入るようだ。他の都立庭園と比べても遜色がないほど素晴らしい。旧朝香宮邸と茶室との調和が素晴らしい景観を生み出している。

 

1930年代はどんな時代だったのだろうか、政治・歴史学者の井上寿一氏が著書『戦前日本の「グローバリズム」』のなかで、日本が最も世界を知った時代であったとしている。満州事変・国際連盟脱退・日独伊防共協定・日中戦争など軍国主義、ブロック経済、ファシズム外交など蔓延した。

太平洋戦争開戦前のつかの間の、生活の近代化と帝都復興による都市化など人々にとって潤い、動きのある時代だったのだろう。

1933年(昭和8)から1947年(昭和22)まで、ここに住まわれていた朝香宮鳩彦王は、皇族男子が陸海軍いずれかに奉職するしきたりのため、陸軍士官学校・陸軍大学校、フランス留学、その後、陸軍少将・中将と昇級し旅団長、師団長、軍事参議官を歴任、上海派遣軍司令官として南京攻略戦に参加、終盤は主戦論者として決戦を主張・力説した。戦後は南京虐殺等の関与を指摘されるなどしGHQの命令により昭和22.10.14に皇籍離脱した。
蛇足であるが、埼玉県朝霞市(当時・膝折村)の地名由来は、東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部の移転先が現在の朝霞市で当時の倶楽部の名誉会長が朝香宮で朝香宮にちなんで朝霞町と名を付けた。朝香という宮号をそのまま使用するのは畏れ多いということで一字変えて「朝霞」とした。


今回、両親の生きた時代がどんな時代だったのか興味があり鑑賞したが。住まいで言えば、大邸宅と文化住宅以上の差であり、出るのは溜息だけ・・・。

 

【その他のPhotoその他のPhoto】

照明器具がこんなに多くの種類が