爺の社会科見学 -31ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

最近、孫が我が家に立ち寄った際、日曜日に熱があり今日は喉が痛いという話から、コロナかもしれないから検査をと話し、医院で検査したところ「陽性」判定。

こちらも濃厚接触者で、隣の市で翌日検査を。

当日、私どもの他にもPCR検査の方がおり、改めてコロナウイルスの影響を受ける方が多いのに驚き。結果はコロナ陽性者のみ連絡し、明日の18時までに連絡がない場合は陰性ですとの事。どうなることやら・・・。しかし、濃厚接触者は2週間は巣篭り状態でとの指示で、思わずこの年末年始にと・・・。

18時を過ぎても電話がなく、あ~助かった・・・  ☆☆陰性だった☆☆
妻とは、今日が「最後の晩餐」かなと冗談を言っていたが、とりあえず安心。

今月(12月)の「退職者の会」の日帰り散歩は、紅葉狩りで新座市の平林寺へ。コロナ禍での感染増加で東京都の3週間の自粛要請で人出が少ない感じで、人が集まる所はそれなりの感染症対策をされていた。
私は、平林寺へは8年ぶりである。(2012.12.02 新座駅~野火止用水~平林寺を散策の参照を)
コース的には、ほぼ同じコースである。新座駅から平林寺に向かって行く。途中、若宮八幡神社に立ち寄る、神職がいない神社で神社格は村社である。武蔵国橘樹(タチバナ)郡管沢村(現:横浜市鶴見区管沢町)の農民によりこの地を開発、管沢新田と名付けられた。神社そのものは合祀により若宮八幡神社として創建された。境内には狛犬があったが、この狛犬、チョと変わっていて一見雑な狛犬と思われたが小さい子どもが引付を起こすのではと思うような異様な狛犬であった。同じ境内に「源泉水道発祥の地」の碑があった。1949年に新座市で初めて水道が引かれた記念碑であろう。

社から平林寺に向かうが、新座を散策していて気が付いた点が二つあった。一つは、急速な都市化の中で島のように取り残された農地で作付けされている、市民農園ではなく営農しているのだ。「残地農業」というか「都市農業」というか、市場に最も近いから成り立つのかもしれない。この辺は、JR武蔵野線の開通により影響を受けた地域であり、開通する前は東武東上線志木駅へのバスが交通機関だったのだろう。

二つ目の気が付いた点は、うどん店が多い事である。埼玉県内の市町村には美味しいうどん店が点在しているが、歩いていて多いのには驚いた「武蔵野うどん」ここに有りである。埼玉県は、うどんの原材料である小麦生産量は全国6位、うどんの生産額が全国一である。香川県に次ぐ第二のうどん県でもある。
そんなことを感じながら歩いていると、平林寺西側の野火止緑道に出る。
野火止緑道は、承応4年(1655)に川越藩主の松平伊豆守信綱が野火止台地の新田開拓のための飲料水・生活用水のため当時整備されていた玉川上水からの分水し野火止に引水されました。総延長24Kmで現在の小平市から野火止を通り新河岸川にいたるものです。新座市では水路沿いに遊歩道を整備し自然と親しむ憩いの散歩道となっています。なお、現在は分水されていません。

平林寺正面に向かって参拝料500円を支払い参拝する。
臨済宗妙心寺派の古刹である平林寺は、南北朝時代に岩槻(現:さいたま市岩槻区)で創建(永和元年・1375年)、寛文3年(1663)に川越藩主・松平伊豆守信綱の遺志により現在地に移された。明治期には禅修行の専門道場を開設している。敷地は広大で東京ドーム約9個分で昭和43年(1968)に雑木林としては唯一、国指定天然記念物に指定されている。
境内は、散策順路が明示され約2Km、45分~90分のコースとなっている。

私達のような紅葉狩りの人はいたが、例年に比べると少ないのだろう。紅葉は11月中旬~11月末頃が見ごろなのかと思う紅葉であった。年々気候変動で予定を組むのが難しい。
でもコロナ禍ではあるが今年も紅葉を楽しめた。

境内には、野火止用水である平林寺掘があった、高い場所に堀があったのでどういう水路になっているか不思議である。

苔むした大きい墓石が並んでいる所が、松平信綱公一族の墓所である荘厳な感じを受ける。

※下段の墓石は、松平伊豆守信綱 夫妻の墓。夫妻の墓石の大きさが同じでであった。

その他、離れた所には碑・墓石がありました。
〇島原・天草の一揆供養塔
大反乱を松平公信綱が収めたことに由来する供養塔。
〇見性院宝篋印塔
武田信玄の二女見性院の供養塔、どなたがこの場所に祀ったか不明
〇夏目漱石の小説「草枕」に登場する熊本小天(おあま)温泉の美人「那美」のモデルとされる前田卓(つな)の墓石
〇安土桃山時代の武将で、豊臣家御奉行の一人増田長盛の墓石。
〇玉川上水・野火止用水の開削で知られる川越藩士の安松金右衛門の墓石。
〇電力業界で活躍した実業家(明治~昭和)で「電力王」、「電力の鬼」とも言われた松永安左衛門の墓石
などがあった。


順路通り歩いていくと野火止塚という小さい山があった説明板によると、塚の役割は定かではないようだが、野火の見張台であったとする説が有力である。平野各所にあったようで、野火止の地名はこれからきたのか?。ちなみに新座の地名は天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、その後、新座郡(にいくらごおり)に改称されました。明治期に入り市町村制により村の合併、町村合併により古い地名の新座郡(にいくらごおり)から名をとり新座(にいざ)とした。

 

昼食となり、平林寺前のうどん店にて食事を。満席で待っていると壁に12月いっぱいで閉店の案内が、コロナ禍で飲食業・観光業などは大変である。

平林寺の前の通りに、「睡足軒の森」という施設がありました、休業日で中にはいれませんでしたが、このあたりは高崎藩の飛び地のあった所で、近代になって電力王と言われた松永安左衛門の所有地となった場所です。(建物は国登録有形文化財となっています)

また、「野火止緑地総合公園 野鳥の森」は、雑木林の公園で、散策しながらバードウォッチチングできる、自然に親しむことができる公園です。

他にも寄る予定の神社はあったが、帰ることにし野火止緑道を通って新座駅に。

【その他のPhoto】

          

今月の「退職者の会」のコースは、前に訪れた事があるコースであるが、新しい出会いや発見を求めて・・・。2015.4.1UP「三田~泉岳寺~高輪付近の散策」もご参照下さい。

JR田町駅で下車し第一京浜を南へ、スクラップアンドビルドなのか新しいビルや工事中の建築物が目立つ、大きいビルの脇に広い階段があり、「あの上は何だろう」ということになり寄り道、階段上にあるプレートには「都旧跡 元和キリシタン遺跡」とあり、この地にて三代将軍家光がキリシタン50人を処刑した場所であるとの事でした。皆、江戸においてもキリシタンの集団処刑があったのかと・・・。

御田八幡神社に到着、神社の前の道が東海道が走り、その先が江戸湾が開けていたそうで、高台の神社からは素晴らしい眺望だったようです。明治時代末期には埋め立てが始まり現在にいたります。神社名は、稗田神社、三田八幡神社、明治30年(1897)には現在の神社名である御田八幡神社となりました。現在の地名である三田は、神社名が由来との説もありますが、朝廷に献上する米を作っていた場所であるようです。

裏手には亀塚公園が神社のさらに高台にあります、遺跡公園となっています。

※高台の御田八幡神社よりさらに高台に亀塚公園がありました

公園隣のお寺は、済海寺といい、境内の案内板は、「最初のフランス公使宿館跡」とあり、安政5年(1858)~明治3年(1870)まで使用されました。

亀塚公園前の通りから下り坂の路地に入るが、ここが「幽霊坂」と言い、この辺がお寺のが多い寺町のため名付けられました。その一角に、「化粧延命地蔵」(おしろい地蔵)で有名な玉鳳寺に立ち寄る。

下ったところにある道路が「桜田通り」道沿いに歩くと、ここもお寺が並んでいるが、その一角にある長松寺は、江戸時代の儒学者「荻生徂徠」の墓石があります。貧しいなか儒学を習得し徳川吉宗、柳沢吉保の政治的助言をするまでになりました。赤穂浪士の討ち入りの際は、切腹を主張し意見が受け入れられました。

長松寺を出て交差点の「魚籃坂下」に。坂の名の由来は、坂の中ほどに魚籃寺があり、そこから付けられた。魚籃寺は、前回も訪れましたが

今回は本堂内の魚籃観世音菩薩を拝見させて頂くことができました。魚籃とは魚を入れる籠のことで、菩薩像の右手の魚籃(籠)を実際に見ることが出来ました。

※上記、説明文は魚籃寺パンフレットより。

魚籃寺の隣にあたるお寺が「薬王寺」である。

お寺の「史跡案内」には、一、朝顔の井戸 一、中村悟竹の墓 一、御田小学校発祥の寺とありました。中村悟竹は明治時代の書家で「明治の三筆」の一人。朝顔の井戸については、加賀千代女の「朝顔につるべとられてもらい水」と言われている井戸があった。

※この井戸、加賀千代女の句にピッタリの井戸です。

魚籃坂を上がった所が、「伊皿子坂(いさらごさか)」である、1600年頃に来日した明人が帰化し呼び名から付けたと言われている。交差点に「歯科医学教育発祥之地」のプレートがあったが、明治時代に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)が存在した。

坂を下り「泉岳寺」へ

前に訪れた時は賑わっていたがコロナ禍閑散とていた。反対していたマンション建設も完成していた。

                         ※泉岳寺パンフレットより

この後、団地の中にある「大石良雄他十六人忠烈の跡」(細川家下屋敷)、承教寺の面白い狛犬、英一蝶(江戸時代中期の画家)の墓石、高輪消防署日本榎出張所の近代建築の遺産、高野山東京別院、光福寺の幽霊地蔵、最後に七年間英国公使館として使用された東禅寺を回って終了。

※団地の中にありました。知らなければ通り過ぎます。

※ここの狛犬変わってます。

※昭和初期のロマンを感じさせます。残してほしい建築物です。

※写真の梯子は、大正~昭和初期に消防ポンプ車に積載していた丸太梯子、通常は丸太のように一本になって収納、一本梯子とも云われました。署員の方に操作してもらいました。

※上の写真2枚は、高輪消防署日本榎出張所のパンフレット

※何とも不気味なお地蔵さんでした。

 

港区は、千代田区、中央区とともに都心3区と言われるが、日本を代表する行政区でもある。内外の大手企業、大使館・領事館などが区内に多くあり国際的にも日本中心であり、都内では一人当たりの所得が多い。その反面、散歩して分かったが、緑が比較的多く、武蔵野台地により高低差が大きく、多くの坂道が存在し江戸時代の名残も残っている都心とは思えない一面も感じさせる。

 

【その他のPhoto】

お寺を回っていると、案内板によく住職の一言が掲示されている。心に染み入ります。

歩いていて街角や境内にお花が、ミニ紅葉も楽しめました。

高低差のある地域での生活は大変です。

港区に井戸ポンプがあるとは・・・

これは何に使ったんだろうと思うような物や何でという物もあります