爺の社会科見学 -30ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

この講座、副題として~「漂泊の旅人は何を発見し、記録したか」~とあった。
菅江真澄という人物はどういう人?初めて聞く名前であった、教科書にも載っていない。秋田生まれの妻は、秋田魁新報(秋田・地方紙)によく載っていたと話していたので秋田県民にとっては皆知っているのだろう。
菅江真澄(1754~1829)は、三河生まれの江戸時代後期の紀行家でみちのく・蝦夷地を旅し、数多くの 著作を遺した。その遺産を通して旅の見聞、秋田の自然・文化を通してその価値を明らかに。

講師は、東京学芸大学教授の石井正己氏である。

江戸時代に旅人と言えば、お伊勢参り、松尾芭蕉の奥の細道、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図の作成を思うが、伊能忠敬は別格として菅江真澄の100年前の旅人芭蕉は、150日間で東北・北陸を回り芭蕉の句と随行した曽良の随行日記が残されている。菅江真澄は、信州、北東北、南蝦夷地を回っており、人生の大半を秋田で過ごし秋田で亡くなった。まさに松尾芭蕉を越える旅をし日本最大の旅人である。
講師の石井先生は、菅江真澄の人生を3部構成で講演しました。

【1】菅江真澄の旅(蝦夷地を目指した菅江真澄の旅とその時代)
菅江真澄は、若いころに国学や文学、本草学(博物学)、画技など多彩な教養を身に付けたとされてます。30歳で三河を離れ信州、越後、庄内の日本海沿いを北上、秋田、青森に到達する。蝦夷地に渡るつもりだったが、神社で「3年待つべし」のお告げを受け(当時、天明の飢饉の被害を受けていた)、岩手の盛岡、中尊寺付近に南下。その後、渡航した松前に4年間滞在した。蝦夷地の東岸、西岸を旅しアイヌ民族の暮らしぶりや和人との関りをつくってきた。
蝦夷地から戻った真澄は、後半生の28年間を秋田で過ごす。そこで多くの著作をこの地に遺した。

※上の図は、伊那の七夕行事、下の図は、北上川の舟橋。現在の盛岡市明治橋。

 

※上の図は、おばけ臼でよく見ると臼に目、鼻、口がある。下の図は、アイヌの生活で庭には熊の頭部を干している。イオマンテ(熊祭用?)はアイヌにとって儀礼の一つで魂を神々に送り帰す。菅江真澄は、図に甲乙と記し内容を説明している。

※菅江真澄は、考古学にも精通していたのか。三内丸山遺跡についても図を残している。日本最大級の縄文遺跡で解明されたのはそんな古い話ではない。


【2】秋田の自然(秋田の自然へ向けた博物学者・真澄の視点)
蝦夷地での記録は、日記によるものが多かったようだが、秋田では地誌として記録されたものが主となった、これは秋田藩佐竹藩主による秋田6郡の地誌編纂依頼によるものが大きい(藩主逝去により中断)。象潟、湯沢温泉、男鹿半島、白神山地など真澄の博物学者としての視点を通し景勝地を記録した。特に象潟は、松尾芭蕉も「奥の細道」で「東の松島、西の象潟」と表したが、現在は大地震により隆起し陸地化しており、比較するうえでも貴重な資料である。

※北東北もこの時代観光化され島めぐりもあったようです。図の椿の白岩は、緑色凝灰岩で現在この辺はジオパークとなっています。

【3】秋田の文化(秋田の習俗に注がれた民俗学者・真澄のまなざし)
菅江真澄は、地域と人の暮らし、行事などにも貴重な図絵を資料として遺した。こうした習俗は、現在まで継承されているものや今日では見られなくなったものもある。八郎潟の「氷下漁業」(諏訪湖から伝えられた)は、昭和30年代の食料増産のための干拓事業により消滅した。

※八郎潟の氷魚を網で漁をする様子を細かく記しています。

一方残ったものは、「来訪神:仮面・仮装の神々」としてユネスコの無形文化遺産に登録された男鹿の「ナマハゲ」や集落の入り口に藁人形で祀る「人形道祖神」みられるが、道祖神は石碑・石像が多く観られるが、この地では人形道祖神で「ナマハゲ」と関連するかもしれない。厄災の侵入防止、子孫繁栄を祈願したのだろう、当時、疱瘡という疫病が流行していたが、現在のコロナ禍に通ずるものがある。

 

※秋田は銀・銅の鉱山での採掘が盛んであったが、秘密の場所をよく図にできたのでは。

※秋田音頭に唄われたハタハタのブリコ漁の道具や女性の採るようすが・・・

※秋田の古民家といえば、中門造りである。日本海沿いに点在する古民家であるが、秋田市の旧奈良家住宅は立派な住宅で両中門造りである。太平洋側の岩手県の南部曲がり家と比較すると豪華さが違う。


菅江真澄は、数千にも及ぶ図絵を遺したが、その業績は民俗学者の柳田国男によって掘り起こされ、のちに民俗学者の内田武志と宮本常一により「菅江真澄全集」として菅江真澄の業績をまとめあげた。

 

菅江真澄を「漂泊の旅人」、「旅行家」、「紀行家」と表するが、あまりにも業績が大きい。考古学、民俗、自然・人文地理と多方面に資料として遺してくれた。
それにしても不思議なことが多くある、旅行に関わる経費はどうしていたのか、なぜ蝦夷地や北東北に行ったのか、とりわけ秋田に住み続けたのは何故か・・・

図については、 秋田県立博物館、大館市立栗盛記念図書館による

オンライン講座も2回目である。苦手な歴史・・・年号に対するアレルギーがあるが、大航海時代の文字に引かれて受講することに。
講演は、東北大学名誉教授 平川 新氏である。

大航海時代といえば、学校で習ったコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランを思い浮かぶが、平川氏の講演は副題として「慶長遣欧使節と鎖国をめぐる秘話」とし3つのパートで講演。

1,ヨーロッパ列強と日本の国力
大航海時代は、15~17世紀を指すが、主にヨーロッパ、中国の航路開発であるが、日本が接触するのは、1543年種子島への鉄砲伝来、1549年イエズス会のザビエルの鹿児島上陸である。その前に日本が紹介されたのはマルコ・ポーロの「東方見聞録」であり、日本は金の国と紹介、黄金のくにとして認識されていた。また、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は、明国の加勢により撤退に終わったが、2回の出兵で15・14万人を派遣したことは世界をビックリさせた。
大航海時代における海外貿易は巨額の利益を伴うが、貿易には布教活動が伴った。布教はキリスト教国家になることで、日本征服であり海外ではそうであった。このことがこの後の禁教そして鎖国政策を進めさせた。

江戸時代初期(1600年代初期)の貿易は、西日本の海運の寄り付きがよく長崎や堺が南蛮貿易の中心であり。江戸は小さく、仙台はもっと小さくリスクをおかしてまで行くことはなかった、江戸・仙台にとって出遅れた感があった。
伊達政宗が目を付けたのが太平洋貿易であった、当時、フィリッピンとアカプルコ航路がが開発され、寄港地として仙台をとの思惑があった。スペインにとって布教可能、伊達政宗にとっては貿易が可能、ここでいう布教は仙台藩領内との条件で、家康の禁教と貿易の両立があった。
支倉常長の「慶長遣欧使節」は、1613年10月28日にサン・ファン・バウティスタ号が交渉に出帆した。スペイン国王の判断は、貿易がしたいなら日本の皇帝(将軍)は布教を許可すべきであると判断したが、在日宣教師からの布教に対する弾圧の報告も影響、また戦国時代の軍拡競争、朝鮮出兵による軍事国家であるイメージがあり交渉の成果はなかった。
支倉の帰国後、鎖国政策に入った。鎖国を実現できたのは、日本が小さくて、臆病な弱い国だからではなく、植民地国家のスペインとポルトガルを日本から追放し、ヨーロッパ勢力をコントロールできる軍事大国だったからであろう。

2,ソテロの不可解な日本報告の真相
 ソテロは、イエズス会に対立するフランシスコ会の宣教師として来日。
漂着した臨時総督ロドリーゴと徳川家康の外交交渉の通訳をつとめ、これを契機にスペイン領メキシコの交渉や慶長遣欧使節の派遣に繋がる役割を担いました。スペイン国王は、ビスカイノを大使として交渉に当たらせました。ビスカイノの狙いは、メキシコ貿易を足がかりにキリスト教布教、キリスト教国家に改造しスペイン国王の支配下に、オランダとの断行を条件にしたメキシコ貿易、日本沿岸の測量許可を求めるなどであった。家康は、沿岸測量を許可した。良港を探す一方、日本の地名にスペイン語の地名をつけた。属国あつかいである。
遣欧使節の通訳アマーティは、宣教師ソテロの話として、国王(政宗)は、礼拝所を荒らし祭壇を引き倒し、石像の首を打ち落とした。800体あった石の偶像と数体の巨象は一部は海に、一部は川に、一部は地面に投げ捨てられた。同時に、「キリスト教の神、万歳」という大きな歓声があがったと伝えた。 これは、ビスカイノの妄想記事みなされていたが、一部は事実であった。
それは松島の海中から板碑が見つかり、瑞巌寺の地中からも建て替えの際の礎石として板碑が見つかった。このような事は旧二条城・熊本城石垣、姫路城、福知山城でも使われており、転用石と言われていた。信長や正宗が不信心ではなく鎌倉から室町時代にかけて五輪塔・宝塔・板碑の供養から中国から禅宗の到来とともに位牌・戒名が伝わり、戦国時代には庶民が墓石を建てる習慣が始まった。このことから宗教感の変化、石材の不足のためお城の石垣などに転用された。
ソテロの話は、交渉が進展するように誇張したようである。

                                                                    資料;サン・ファン館

3,若林城の築城と廃城の謎
 江戸幕府は、一国一城令を制定し、諸大名に居城以外のすべての城の破棄を命じた、廃城にしたがった大名もあったが、例外もあった。伊達政宗の仙台藩には仙台城と例外として白石城があった。
さらに若林城の築城については屋敷としたが、堀と土塁を要する城である。若林城、白石城とも出城で若林城は東に回る敵を向かい打つ城の役割をもっていた。それは取りも直さず徳川軍への備えでもある。家康と政宗は、お互いに主従関係ではあるがお互いに油断のならない相手であると思っており、智略に長けた正宗には謀反の噂が絶えず疑心暗鬼が渦巻いたのだろう。正宗死後は、若林城は取り壊されたが堀と土塁だけは残した。

学校では深く掘り下げた勉強をしなかったが、時代背景が分かり面白いが新たな疑問も出てくるものである。 

このコロナ禍のなかオンライン講座か!!と、思いたくなるが、学校・大学では経験済みで大変だったろうと・・・、気楽な隠居の身の小生にとっては繰り返し聞けるので、これも良しか。
鳥瞰図については、前、埼玉県文書館地図センターが主催展示「鳥瞰図の世界」(2014.9.12UP)以来である。絵師の吉田初三郎は初めて聞く名であった。

講演は、医師、学芸員で私設「八戸クリニック街かどミュージアム」館長である小倉 学氏であった。このミュージアムは、父である前館長が鳥瞰図のコレクターで収集した作品を展示するために開館した私設ミュージアムである。木版画2000点、鳥瞰図3000点、吉田初三郎の鳥瞰図2000点、映画ポスター5000点を収集したとのことで驚きである。

吉田初三郎は京都生まれである。幼い時に父と死別、絵画好きから友禅図案師。のち洋画を学びながら商業美術に進み三越図案部などで勤務。
吉田初三郎の最初の鳥瞰図は、1914年の「京阪電車御案内」である。修学旅行で京阪電車の乗車した皇太子(のちの昭和天皇)の賞賛を受け持ち帰ったことから、大正から昭和にかけての観光ブームにのり鳥瞰図の依頼を受けた。犬山市や八戸市へ拠点を移し弟子たちと共同で多くの鳥瞰図を作成した。生涯にわたり3000点以上の作品を残し「大正広重」と言われた。


吉田初三郎    (資料)八戸クリニック街かどミュージアム

    
作風は、商業芸術の先駆者であることから独自の作風である。「大正広重」と言われるとおり広重の写実的描写、独自の景観表現、独特な遠近法、構図などは自他ともに「大正広重」である。もうひとり影響をあたえたと思われるのが幕末に人気のあった、歌川貞秀である。歌川貞秀は、「空飛ぶ絵師」と言われ、浮世絵にはない壮大な構図・鳥瞰図が特徴です。

鳥瞰図は、吉田初三郎以外にも多くの絵師により作成されてきた、金子常光は吉田初三郎の弟子であり最大のライバルでもありお互いに鳥瞰図の発展に寄与した。             
吉田初三郎の鳥瞰図は、地域を多面的に観察していた。吉田は、鳥瞰図の他にパンフレットや雑誌を出版していたが、その中の一つ「KWANKO」(観光)では副題として交通・文芸・芸術・学事とあり、その地域をいろいろな分野から掘り下げている。犬山市に工房のあった10年では、現地の地名等から桃太郎の生誕の地ではないかと桃太郎神社を創建するなど、地域の観光を盛り上げ、プロデュースしている。

                             (資料)国土地理院

歌川広重は、東海道五十三次で俯瞰的な構図でありながら人物描写が上手く、旅心を上手く描いている。吉田は、俯瞰的構図から鳥瞰図として地域を描いてきた。縮尺や方角・距離を犠牲にし該当地の地理・歴史を調査、現地での実地調査スケッチし鳥瞰図に落とし込んでいる、一般的には平行投影図法による鳥瞰図であるが、吉田は、独自の作風を確立し該当地をデフォルメし浮き出し、見えないはずの富士山やアメリカを表記している。   
吉田初三郎と八戸市の関係であるが、昭和7年十和田湖が国立公園候補地に決定され実地調査スケッチを終え、八戸市の鳥瞰図作成に入り、市内の種差海岸の景色を「日本一の絶景」と言い、八戸市に工房を設けるなど八戸市の発展に寄与しました。
鳥瞰図も現在は、合理的で正確に図案化出来るようになってなっているのでしょうが、当時も写真はあるものの絵師の感性、美術的素養がより求められた、鳥瞰図は芸術品であり、吉田初三郎は鳥瞰図に旅心を盛り込み観光ブームを築いた商業画家である。

北海道 鳥瞰図4点      (資料)八戸クリニック街かどミュージアム