爺の社会科見学 -29ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

コロナ禍で久々の「退職者の会」の日帰り散歩の参加である。コロナの緊急事態宣言解除されたとはいえ、東京都の感染者数を考えると東京に行くには・・・、埼玉県も同じようなものであるが、栗橋まで来れば大丈夫か?
都心から50Kmに位置する栗橋は、2010年3月に久喜市と合併し、かつての北葛飾郡栗橋町(人口約2万7千人)は消滅した。
東武日光線栗橋駅で下車する。この駅は、橋上駅舎でJR東日本と東武鉄道の改札口が隣同士になっている、隣の駅の「南栗橋駅」は、1986年(S61)に開業、2003年(H15)には半蔵門線、田園都市線への直通運転が開始し都心へのアクセスが向上している。

江戸時代には日光街道が利根川を越える要地で、水陸交通の要衝で宿場町であった。
栗橋の観光名所は、駅近くにある「静御前の墓・静桜」である。思わず「ここに!」ではあるが、久喜市のHPによると「静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に当地で亡くなったと言われています。当地には高柳寺と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。当地には静御前の墓が残されましたが、墓には墓標がなかったため享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代であつた中川飛騨守忠英により建立されました。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。」
静御前の墓所には、「静桜」という桜が植えられていました。かなりの稀少種で学術的にも珍しい桜のようです。この桜の原木は、宇都宮市野沢にあり、地元の言い伝えでは奥州へと向かった静が、義経の死を知り野沢の地に桜を植え菩薩を弔ったのがその名のおこりといわれています。当地にはその接ぎ木苗が寄贈されこの墓所に植えられました。一般の桜にくらべ開花の時期が遅く4月中旬で、訪れた時期には残念ながらお花見は出来ませんでした。

墓所を出て予定の八坂神社に向かう。途中、宝治戸池(ほうじどいけ)、香取神社、経蔵院(静御前が養生したという伝説がある)に立ち寄る。法治戸池は、寛保2年(1742)に発生した川の氾濫により出来た池である。

堤防工事脇の高台に栗橋宿総鎮守八坂神社があった。近づくと堤防とともに八坂神社も工事中である。
幹事のMさんの話では、ここの狛犬が変わっていて「狛鯉」との事、工事中で近づいて見ることができなかったが確かに狛犬もあるが狛鯉もあった。慶長年間(1596~1615)に利根川が氾濫した際、鯉と亀に守られた神輿が漂着したことから社が築かれたと言われています。神輿は、100人で担ぐ大きなもので関東三大神輿と言われている。
堤防工事のため八坂神社の本殿が解体移転、社務所の新築と大工事です。

地元の方は「スーパー堤防」といってましたが、この工事は、「首都圏氾濫区域堤防強化対策事業」といい、埼玉県と東京都への水害を予防するための大規模治水整備事業で、移転家屋は1226戸で栗橋地区も含まれている。この利根川は、最近では台風26号(2013年 H25)により埼玉県東部の5600戸以上が浸水被害、1947年(S22)のカスリーン台風では、堤防決壊により埼玉県はもとより東京都足立区東半分、葛飾区全域、江戸川区のほぼ全域も浸水被害となった。利根川水系に関連する市区町村は、水害との闘い続けている地域となっている。

名所となっている「栗橋関所跡」の場所も工事の影響があり、現在の場所は仮移転地のようである。
栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡に設置されたことから対岸の中田と併せて、「房川渡中田関所」と呼ばれた。関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、1869年(M2)の関所廃止まで約250年間続きました。この関所は、東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで関東三大関所の一つと呼ばれた。

日光街道の栗橋駅入口付近の福寿院に立ち寄りました、ここは七福神の福禄寿が祀られていますが、栗橋では七福神に一神の吉祥天を加え八福神としているようです。

昼食後は、天候を気にしつつ深廣寺(恵比寿)、浄信寺(寿老人)、顕正寺(毘沙門)、炮烙(ほうろく)地蔵を参詣した。
深廣(じんこう)寺は、南無阿弥陀仏と刻まれた「六角名号塔」がL字に21基並んでいた。六角名号塔は、千人供養塔で1基だけ三千人供養塔になっている。高さが360cmあまりで等間隔に並んでいた。

隣にあるのが浄信寺で寿老人が祀られています、栗橋宿の名主・梅澤太郎右衛門が中興した寺で梅澤太郎右衛門も眠っている。2代将軍が日光社参の際、流失しかかった船橋を命がけで守り、将軍も賞賛し名字帯刀を許されたと伝えられている。

栗橋宿を開拓した池田家の菩提寺が、顕正寺である。寺は、下総国古河領から移転したと伝わり
墓地には栗橋宿開拓者のひとり池田鴨之介が眠る。池田家は、開宿当初から本陣役を務め、当主は鴨之介の名を世襲した。

炮烙(ほうろく)地蔵は、昔処刑場があった地で、関所破りで火焙りの刑に処された人を哀れんで
作られたと伝えられ、今でも炮烙が奉納されている。

栗橋駅に戻り、幹事のMさんが「静御前の墓」の裏手に「一言神社」があるはずだが?ということで隣の商店の方が教えてくれた場所へ、奥まった住宅地の一角に祠があった。表示もなく聞かないと分からない場所であった。伝説では、亡くなった静御前の魂を鎮めるために侍女の琴柱(ことじ)が祠を建てたもの、静御前が最後の一言が義経の名を呼んだとする説と、もう一つが、洪水に見舞われた際、旅の母子を人柱にしたが、母が「最後に一言言い残したい」と切願したが水中に投げ込んでしまつた。以後、その霊と慰め、水害がおこらないことを祈って祠を建てたという。二つの説とも何とも悲しい話である。

街に「栗橋宿」のペナントが下がっているが、スーパー堤防の関係か?一部、古い商家だったらしい建造物が見られるが、維持管理の難しさが・・・残念である。

【その他のPhoto】

東京では、3月22日に満開ですが、わが街の桜はまだまだ満開には・・・

いつもの散歩コースで
今年は、中井氏の「ゆる鉄」を模倣してみました。

菜の花もきれいです

満開が楽しみです

「退職者の会」で寺社めぐりをする事が多い、お寺では本堂の仏像に合掌するが、仏像を深く考えることはなく、彫刻の見事さにただ感嘆するのみであった。
テーマである「徳一」や、会津の「仏都」についても初めて聞く、今回の講演で、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した仏像が,今後のお寺の参詣の際に,
仏像の見方が変わればと思う。

講師は、元福島県立博物館学芸課長 若林 繁氏である。

パート1 仏都・会津の礎を築いた高僧・徳一
平安時代前期、都が奈良から京都に移り、奈良の仏教界を批判する僧が現れた、贅沢を極めた僧侶などを嫌い高僧・徳一は、修行の旅にでた。東国に向かい落ち着いた先が会津であった。なぜ会津にと思うところであるが、会津が東北、関東、越後の中心に位置していた。都から離れ正常な地を求め、磐梯山もあり神聖な場所と思ったのだろう。徳一は、この地に徳一の考える仏教の理想郷を求めた、自身の修行の地であり、ここ会津の地から理想とする仏教を広めたいと願がった。彼は、それまで上層階級の文化・教養であった仏の教えを庶民に広めるため、会津一円の民衆教化に尽力した。

会津の大きいお寺は、徳一が開いたと言われる伝説が残っているが、確実なのは慧日寺(807年)と勝常寺の2ヶ寺である。特に慧日寺は、僧兵を擁する勢力を持ち寺院統治下のような会津となり、まさに仏教都市となった。


会津・湯川村の勝常寺には、希少な平安時代前期の仏像12体が伝わる。そのうち本尊である薬師如来と脇侍像の日光・月光菩薩は東北で初めて国宝に指定されており、会津仏教文化の至宝といえる。
  勝常寺の仏像は、都の仏師により造立されたと考えられている。平安前期から中期の造像はそうして始まり、やがて造像の技術が会津に根付いていく。徳一の業績とともに、仏都・会津の幕開けである。

 


パート2 一木造りにこだわり続けた会津の造像とその理由
平安時代後期に入ると、地方的な素朴な像が現れてくる。都の影響受けながらも在地の仏師による仏像が現れる。 一方で、中央で造られて当地に流入したものや、中央からこの地に来て活躍した仏師による仏像もある。
仏像が在地化し、仏像の種類も多様化した。京都の仏師・定朝が創出した寄木造りも「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれ、定朝が確立し広まった、会津の地にも早い時期にもたらされた。  
反面、この時期に在地化した会津の仏像は、独特な個性を携えるようになる。その最も顕著な特色が、一木造りによる造像である。中央では寄木造りが主流だったが、会津では一木造りに対する強いこだわりが見られ、鎌倉時代まで根強く踏襲されるものが多い。※一木式寄木造りもあった。
典型的な定朝様の作例として中善寺の薬師如来坐像や、法用寺の金剛力士立像などが挙げられる。

しかし勝福寺の不動明王立像、毘沙門天立像、薬師寺の阿弥陀如来坐像など会津では一木造りに強い執着があった。
なぜ、一木造りが鎌倉時代まで続いたのか?
それは、徳一の仏像の造形に対する考え方が現れているのだろう、仏像の木を霊木とし仏教伝来以前から存在した神道での「神木」が一木造にこそ魂が宿るとし、主流の寄木造りのなかでも一木造りを基本とする造形にこだわったのではないか、一人の仏師の制作のため仏師の思いがこもるのだろう。

      


パート3 仏都会津めぐりをより深める仏像鑑賞術
仏像は時代により変遷する、会津の場合、平安前期の仏像は奈良時代の趣を携え、平安後期は定朝様の優美を漂わせる。鎌倉期の仏像、武士好みの力強く写実性に富んだ造形が流行する。また、仏像は種類により、それぞれに特有の意匠や造像作法がある。ここ会津では、平安・鎌倉時代の仏像の歴史的流れが見ることができる。