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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

過日、2021.9.20UPした、オンライン講座7「九戸政実、覇王・秀吉に挑戦した男」に関わる小説がありましたので紹介します。
「南部九戸城落城」(毎日新聞社)著者・渡辺喜恵子氏は、オンライン講座7の内容と合致し興味ある内容であった。

渡辺喜恵子氏は、妻の遠縁に当たる方で、「馬淵川」(直木賞受賞)、「啄木の妻」を執筆しているが、代表作の「馬淵川」は、南部藩の御用商人であった池田屋万兵衛のもとに後妻に入ったさと子という武士の娘が,96歳で亡くなるまでの,夫である万兵衛や子ども,孫,曾孫一族四代にわたる波乱万丈の生活を描いた物語であるが、江戸末期から大正時代と時代背景が異なるが、地域は同じである。

さて、こちらの(南部九戸城落城)方は、女性の視点から、艶やかで、しかしもイキイキと、九戸の乱周辺の武家の女性と庶民を描いていて、男性を通しての歴史と違ってとても新鮮だった。
壮絶な最期の中にも、武士から土民までがそれぞれの思いで、九戸の乱を生き抜こうとしていたのが、伝わってくる作品である。

「九戸の乱」や「九戸政実」に関わる、小説や論文については他にも出ていますので、感心のある方はお読みになっては。

講座の方は、第1回目と同様緊急事態宣言発令中(9月29日現在)のためリモートでの開催であった。
今回の五箇山の講座は、白川郷に続く2回目の講座になります。同じ庄川沿いの合掌造りの違いなど興味のあるところである。
いままで、白川郷が岐阜県で五箇山が富山県であるイメージがなかった、あるときは岐阜県で、あるときは富山県でとの感じであったが今回の講座で明確になった。 同じ庄川流域にありますが、五箇山は越中富山の文化圏、白川郷は飛騨高山の文化圏に入ります。 ... 五箇山は、小規模ではありますが、より素朴な山村の原風景をみることができます。
五箇山のある富山県南砺市は、平成の合併により南砺市となったが、私が学生時代は、砺波平野の散居村やチューリップの生産量日本一で有名であった。散居村のような平地の場所もあるが、五箇山の方は、山地、高地に囲まれ起伏の激しい地形もある。気候は、日本海側であるため、日照時間が少なく曇天が多い。冬季は、降水量・降雪量が多く、五箇山方面は岐阜県白川郷と同じで、特別豪雪地帯に指定されている。

【講座2】「世界遺産相倉に住む」
講師は、五箇山で生まれ育った 池端 滋 氏である。池端氏は、現在、民宿「勇助」を経営している。写真家でもある池端氏は、多くの写真集を出版している。

1.五箇山の歴史や合掌造りについて                                                 
五箇山の歴史
〇縄文中期とみられる土器が五箇山の各地で出土する、約4000年前から生活を営んでいたとみら れる。
〇鳥獣、川魚、山菜、果実等山間部の方が平地より生活に適していたと思われる。
〇中世、人形山(1726m)は山岳信仰の山であり、また平家落人伝説も伝えられている。
〇1468年 蓮如上人が五ヶ山、白川郷を通り京都に着く。赤尾の道宗の働きかけもあり、本願寺      の影響が五ヶ山全域に広がる。
〇 1513年 実如上人の裏書に「五ヶ山」の文字が初めてみられる。
〇 1552年 古文書に「図書了観 あいのくら太郎次郎」の名前が初見する。
〇 1585年 加賀藩前田家の領地となる。同時に流刑地ともなる。 
        加賀藩時代の主な産業は、養蚕、和紙、煙硝
〇 1889年(明治22年)町村制の発令で五ヶ山は平村、上平村、利賀村となる。      
            昭和に入り五ヶ山を五箇山に変えて使う。
〇 1927年(昭和2年)城端ー下梨間道路開通304号線
〇 1930年(昭和5年)祖山ダム完成 平村に電灯がつく
              ※20Wが無料に、いまだに続いているとのこと。
〇 1952年  城端ー下梨間にバス開通
〇 1984年 五箇山トンネル開通   冬季の車での通行が可能にとなる
流刑地として
・五箇山地方は秘境であり、金沢からは15里60キロと距離も近く、管理しやすい場所であった。
・政治犯として加賀騒動の主犯:大槻伝蔵ら多くの武士らが流されている。
・遊女らもながされていて、おさよ伝説も残っている。
煙硝
・織田信長と本願寺との石山合戦(1570~1580)には五ヶ山の煙硝が送られた。
・加賀藩は、煙硝を税として毎年1260貫(4200斤)を納めさせた。
・煙硝の製造は五ヶ山に多くの富をもたらした。
※「煙硝」や「焔硝」は硫黄や炭末を加えた黒色火薬を指すが、加賀藩では「塩硝」と呼ばれ 五 箇山産の硝石を意味するとされる 。

合掌造りの歴史 合掌造りは平屋建て
・煙硝の製造で多くの富が生まれ、、400年ほど前に加賀藩の宮大工が合掌造りの一階部分を造り、 住民がその上に屋根部分を造った。
・一階を生活に、土間で和紙、二三層(2,3階)部分で蚕を飼った。
・合掌小屋から合掌造りへ少しずつ変化していく。
・合掌造りは五ヶ山から白川郷に伝わる。
合掌造りの保存
1960年 (昭和35年)国の文化財に
          岩瀬家 村上家 羽馬家、を指定。
1966年 (昭和41年)相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り保存内定・・・集落保存
1970年 (昭和45年)  
                    相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー国史跡指定
1994年       相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー伝建地区指定
1995年 (平成7年)白川郷 五箇山の合掌造り集落 世界文化遺産に登録

※手前の合掌造りの屋根が地面まで伸びているが、これが原始合掌造りか?

合掌造りはエコ住宅
・囲炉裏の火は食事の煮炊き、暖を取り、囲炉裏を囲んで団欒。
・茶釜のお茶で沢庵つまみに茶会も楽しいです。                                
・囲炉裏の煙のすすは木材をいぶし防腐剤の役目をはたし、わら縄より強くなります。
・15~20年で茅葺の屋根は葺き替えますが役目を終えた古茅は畑に敷き肥料や防虫剤の役目をはたします。

2.世界遺産相倉の一年

相倉合掌造り集落は
相倉集落は生活している事が一番重要なことです。15軒に48人が住んでいます、内13人が子どです、幼稚園、小中高、が歩いて15~30分、スクールバスで15分範囲にあります診療所、商店が車で5分、スーパーは20分です住民は助け合い、見守られ、大家族のようです相倉集落は自慢であり誇りです。

3.昭和30年~40年代の五箇山

4.世界遺産相倉の四季


相倉合掌造り集落に住んでいて思う事
相倉は、歴史 自然 生活 がバランスよく成り立っている。
毎日、自然と向き合って生活していると田舎にあって都市にないものが見えてくる。そういうものを伝えていけたらとおもう。
合掌造り家屋にすんでいると先人の知恵や能力を、先人達の豊かな生活を感じる。

                                                                    ♢終わり♢

合掌造りについて、それぞれ違う地域での説明を2回お聞きしました。庄川沿いに集落として保存されている事は、珍しいのではないでしょうか。
両地域とも養蚕、和紙、煙硝の産業によりあのような形態の住居に発展したのでしょう。
白川郷は、高山藩から幕府の天領地、五箇山は、加賀藩の統治下ということで違いがあるかと思い
調べたら下記の傾向があるようです。

白川郷と五箇山の違い?
〇はっきりしているのは、白川郷の方が規模が大きく観光化されている。
〇白川郷では、屋根の斜面側が入り口、五箇山では玄関が正面にある家屋が多いのが特徴。
〇建築様式にも違いが見られ、湿気が多く重たい雪が降る五箇山では、白川郷よりも傾斜が少し急 で、雪を落としやすい屋根となっているようです。
〇屋根の茅葺きの端が、少し丸く刈られているのが五箇山の特徴。白川郷では、きっちり揃えて作 られています。
〇加賀藩の手厚い保護を受けた五箇山は、重厚感あふれる豪華な内装が特徴です。鍋の高さを自在 に調節できる「自在鍵(じざいかぎ)」がある囲炉裏というのも、五箇山ならではの特徴。

日本人の心に刻まれた懐かしの原風景、なお暮らしの中に息づ伝統がここに残っています。五箇山は、日本でも特異な地域でもあり、いつか訪れてみたいですね。

画像については
            ・講演の池端滋氏のレジュメの写真
            ・富山県南砺市の観光パンフレット写真           を利用いたしました。

【その他のPhoto】

世の中、確かに便利になりました。人間、便利になると、さらにもっと便利にを求めます。

自分の生活を考えると、昔のような生活に戻れるか・・・。懐かしさを感じることは、良い時代だったのでしょう。

どこからか「こきりこ節」が聞こえてきそうです・・・

9月の「退職者の会」の日帰り散歩は、県内の行田市となりました。8年前に古代蓮を中心に見学しましたが、今回は忍城址公園、水城公園、市内の寺社巡りのコースとなりました。
 ※2013.7.16UP“「のぼうの城」の行田散歩”も参考に

 秩父鉄道の行田市駅で下車する。JRの行田駅もありますが行田市観光は、「行田市」駅の方が何かと便利なようです。幹事のMさんがCopyしてくれた観光経路も「行田市」となってましたが、「足袋と暮らしの博物館」が平日休館日ということで逆コースで、行田八幡神社へ。

行田八幡神社の創建ははっきりしないようだが、平安時代中期に源頼義・源儀家が奥州討伐のために戦勝祈願で勧請したと伝えられている。「封じの宮」と言われ、夜泣き、かんの虫封じから、癌の病、難病、ぼけ封などの祈願に訪れる方が多いようです。境内には「目の神社」などが祀られ、近年、「なで桃」がパワースポットになっているようです。

次は、コースからそれて「清善寺」へ。清善寺は熊谷市にあるお寺の末寺で、永享12年(1440)の創建と伝えられています。慶長9年(1604)には、徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領している。入口の大きい燈籠には新兵衛地蔵尊とあり、他にも新兵衛地蔵尊の碑が立ってました。新兵衛なる人物は、呉服商の番頭であった大澤新兵衛で、その長男の大澤龍次郎さんが寄附したものです。大澤龍次郎氏は、産業界から金融関係の大澤証券(現・インターネット証券大手のSBI証券)を設立し社長として活躍。行田市の福祉、消防、教育関係他に浄財を寄附した。清善寺では無縁墓石の整備や清善寺の通りに石で出来た橋の痕跡があったが欄干に「新兵衛橋」とあった。これも大澤氏に関りのある橋なのだろう。川は、埋め立てられており欄干も撤去すればと思うが、住民の大澤氏への感謝の思いが残させたのか。

ここで昼食のため「清善寺」の近くにある「あんど」というお蕎麦屋さんへ。行田市の足袋蔵を大改装したお蕎麦屋さんであった。「あんど」の蔵は「奥貫蔵(おくぬきぐら)」間口9間、奥行3間の2階建ての土蔵で「ほうらい足袋」の商標で知られた、奥貫家が大正~昭和の初めに建てられたと言われる足袋蔵です。
足袋蔵の内部はどうなているのかと思うほど変わっているようで、リノベーションと言ったほうが良い位こだわった内部でした。飾り、音楽もこだわり、メニューも凝っています。天ぷらセットを食べましたが、彩の良い野菜、出汁のきいた御飯、天ぷらは野菜中心でお塩でサクサクと食べます。もちろん蕎麦はコシのある蕎麦で、また、訪れたいお蕎麦屋さんです。

コースに戻り、天満社に入る。ここの住所は、行田市佐間と言う所で、案内板には「佐間天神社」とあった。
神社といえば鳥居ですが立派な山門がありました。慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請したようです。忍城の戦いでは、石田三成の軍勢を正木丹波守利英(忍城主・成田氏長の重臣)がこの「佐間口」で守りを固め死闘を繰り広げたと伝えられています。境内には、樹齢400年以上の欅の巨木があり、市の文化財に指定されています。

天満社の向かいにあるのが高源寺で、ここも忍城に関係のあるお寺で、忍城の戦い後に正木氏は、武士の身分を捨て現地に留まり、豊臣方、成田方双方の戦死者を弔うため高源寺を建立しました。

行田市民の憩いの公園が水城公園で、天満社の裏手にあたる位置です。この公園は、昭和39年に開園したもので忍城の外堀跡を利用して造られました、埼玉県初の都市計画公園。元々は、忍沼と呼ばれた天然の沼で水と湿地に囲まれた堅固守備の城で「浮き城」とは呼ばれた所以だったのでしょう。四季折々の花が咲き桜の名所としても知られています。園内には記念碑、古い建築物があります。
※1.旧忍町信用組合店舗
行田市の足袋産業を支え重要な役割を果たした「旧忍町忍町信用組合」。行田市の中心街で営業していた大正期の木造洋館を移築復原したものです。現在は、カフェとして活用。
※2.田山花袋の文学碑(田舎教師の碑文)
田山花袋の小説「田舎教師」の文中に主人公・林清三の実家が行田の古城跡の方にあったと書かれています。
碑には、「絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ」と刻まれていました。運命に逆らてはだめですネ・・・
田山花袋は、群馬県館林の生まれで、以前、文学館を訪れた事がありましたが、そちらのブログも参考に2016.08.09UP「猛暑の中、館林を歩く」
※3.三船久三
柔道家、講道館10段で名人と言われた、招聘で行田市を訪れた記念の三船十段偉業の碑。
※4.大澤龍次郎像
行田市のため尽力した大澤氏の像、のちに行田市名誉市民に。
※5.林頼三郎の碑
行田市出身の刑法学者、検事総長、大審院院長、司法大臣を歴任、行田市の名誉市民でもある。
水城公園は、平日にも関わらずご同業(年金生活)?大勢釣りをしていた。釣り人の間には「さぎ」が羽を休めていた。近くで「さぎ」を見るのは珍しい、近づき写真を撮っても動かない。皆それぞれ写真撮影、良い写真が撮れました。

水城公園を後にし、忍城へ。埼玉県には観光としての城は9城あるが見応えのある城は忍城と言っても過言ではないだろう。室町時代の文明年間(1469~1487)に築城されたと考えられている、難攻不落のお城です。
明治初期の城の取り壊しにより忍城も取り壊されたが、「忍城御三階櫓(おしじょうごさんかいやぐら」が再建された。

今日は、久々の晴れ間で湿度が高く、忍城の前にある「東照宮・諏訪神社」を立ち寄り帰る事に。信号を渡った鳥居の所に諏訪神社、参道の先に東照宮がありました。同じ境内に二つの神社を祀っているようです。東照宮は、派手なイメージがあるが、ここの東照宮はこじんまりした東照宮でした。

2回目の行田市訪問だったが、まだまだ観光スポットがあるようだ。


【その他のPhoto】