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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

副題:~天下平定の仕上げ「奥羽仕置」と九戸一揆の真実~
      「豊臣秀吉が行った奥羽仕置、それに抗い、南部氏の勇将・九戸政実(くのへまさざね)は

   決死の籠城戦を繰り広げた。近年、九戸一揆の図式が揺らいでいる。最新研究から戦国乱世に

   終わりを告げた戦いの真相に迫る。」としている。

「九戸政実」や「奥羽仕置」初めて聞くが戦国時代に北東北の南部領内で何が起きたのか?
一般に「九戸政実の乱」と呼ばれる騒乱の背景には、同じ南部氏一族である両者の確執が

大きく影響している。近年は、反乱ではなく九戸一揆、九戸合戦と呼称も改めつつある。

講師は、県史や地域歴史を研究している、八戸工業大学第二高等学校教諭 熊谷 隆次氏である。

このテーマの舞台は、現在の青森県、岩手県、宮城県、秋田県であり、中心となる人物は、

三戸城の南部信直、九戸城の九戸政実、豊臣秀吉の3人である。

Part1 北奥羽を治めた南部氏とは
 1.戦国期の糠部郡と「戸」の領主
   ①糠部郡は、岩手県北部~青森県太平洋側、一戸・三戸・四戸・七戸・八戸・九戸があり、

   それぞれ戸には領主が存在した。
   ②「戸」の領主は、独立して領域(領土)と家臣団(「家中」)を保持する領主。
   ③「戸」の領主は、「南部」を名字とし惣領家の三戸氏を中心に連合的な族的集団(「一家」)

     を形成。
  2.戦国後期 四戸・櫛引氏と八戸氏の紛争
    それぞれが攻撃し、結果、八戸氏が勝利し領土を接収した。
  (1)戦国期の北奥羽
     戦国期、北奥羽の諸領主は、南部氏の領地(糠部郡、津軽、鹿角郡、久慈、岩手郡、

     閉伊郡)安東氏、浅利氏、戸沢氏、本堂氏、六郷氏、稗貫氏、遠野氏、和賀氏・斯波氏領、

     小野寺氏、葛西氏領         

 (2)永禄期「鹿角郡合戦」
     戦国期、南部晴政氏と安東愛季氏と対立、安東軍に対し南部氏は二経路から反撃、南部

     信直軍(糠部郡の領主)九戸政実軍(久慈、閉伊郡、浄法寺)により勝利を収める。

     後にこれが九戸一揆に関係する事になる。南部信直は、糠部郡を傘下に収め、九戸政実は、

     久慈、閉伊郡、浄法寺を傘下に収めた。

 (3)元亀期「斯波御所」との境目争論
     南部・不来方城と斯波郡・高水寺城が合戦
     南部軍には、南部高信(南部信直の実父)、九戸政実が参戦・・・・和睦
     元亀期「斯波御所」との境目争論の意義
     南部領の南側、岩手郡北を支配下に置く。南部高信と九戸政実が南部氏の南下政策の中心。

              鹿角郡合戦  と 斯波御所・境目争論
                          ↓
   南部晴政の時期、外征を機に南部高信・信直父子(田子)と九戸政実が勢力を拡大

  (4)南部信直の家督相続
      南部晴政、晴継父子の死により、天正9年(1581)南部信直が三戸南部家の家督を継ぐ。

Part2 北奥羽を襲った外圧、秀吉の「奥羽仕置」
  1.南部信直の家継承と内紛
  (1)クーデターによる家督継承
      南部信直は、晴政の長女と結婚、二女は、九戸実親(九戸政実の弟)と結婚。

      三戸南部の家督を九戸側で継ぐという事で内紛が。

  (2)南部晴継の存在
      新資料では、南部信直は、先代を晴継ではなく晴政を「先代」と記述。南部晴継は

      家督を継いでない、晴継そのものが存在しなかったと・・・。
  (3)「戸」の領主の内訌(ないこう)
     ①八戸氏:八戸氏の一族、八戸経継が九戸政実に内通。・・・経継を捕縛し殺害                      
     ②一戸氏:一戸政連の弟一戸信州、九戸政実に内通。信州が兄政連を殺害。・・・一戸家断絶
 2.天正後期 北奥羽の領主との紛争
    安東愛季が再び南部領に侵攻。・・・安東氏、戸沢氏との合戦で討ち死にし安東氏側が劣勢に
  「斯波御所」斯波詮直が不来方城に侵攻・・・南部側、九戸政実、八戸直栄を派遣し掌握する。
 3.豊臣政権への服属
  南部信直は、北信愛を前田利家に派遣。当時、前田利家は秀吉の重臣として位置づけられ東北の

    領地の服属に関わっていきます。利家の起請求文(南部信直宛)にも秀吉に対しての取り成し、

    南部信直を保護すると記しています。なぜ、派遣したかは内紛、安東氏、斯波御所との戦が

    背景にあるものと思われる。

4.津軽為信の挙兵と南部一族の内紛                                                          
    安東氏の領内で湊騒動がおきる。これは湊通季(豊島城主)の挙兵によるが、南部信直は

    比内郡を手に入れる。
    津軽為信(大浦氏・南部一族鼻和郡大浦城主)が南部を裏切り、安東実季と同盟関係を結び、

    南部を攻める事が出てきた。安東実季はこの混乱に乗じて比内郡を奪還する。為信も津軽領を

    手中に収める。天正18年(1590)までに一挙に領地を信直は失った。

    また、一族にもまとまりを欠く動きもあり、前田利家が信直宛の書状に家中にも反逆の輩がいると            記している。(七戸・九戸が該当)
  5.奥羽仕置と九戸政実
    このような津軽の反乱、南部の危機的な状況の中で小田原攻めに伊達政宗、最上義光、南部信直が

    参戦、天正18年7月小田原城落城後に会津「奥羽仕置」に出陣する。

                             奥羽仕置(おううしおき)
                   天正18年(1590)豊臣秀吉が東北地方の諸大名に

                   行った領土の配置換えや検地、刀狩りなどの統治策。

    「奥羽仕置」とは
     ①奥羽地方の領主の「近世大名化」の画期。
     ②奥羽地方に対して強行した「豊臣体制化」の推進。
     ③奥羽の「中世」から「近世」への画期。

天正18年(1590)7月27日、豊臣秀吉南部信直に送付した朱印状には。
   《内容》
      1.南部のうち七郡の領土の支配を信直の意思に任せる。
      1.信直の妻子を在京させること。(人質)
      1.知行の検地を行って蔵入地(直轄領)を確保し在京費用を維持すること。
      1.家中(家来)の城を破却し、その妻子を三戸城下に集住させること。
      1.右の四か条について、「異儀」(抵抗)におよぶものがいれば豊臣政権が成敗する。

  豊臣秀吉 ⇒ 南部信直 ⇒ 南部氏の「家中」(家来)・・・ピラミッド型の支配体制に

豊臣秀吉の奥羽仕置の責任者は、重臣の浅野長政であった。長政は、花巻城(旧稗貫郡・鳥谷崎城、

現在の岩手県花巻市)に八戸政栄、九戸政実ら南部信直一族・家臣を召喚し服従するように命じた。

豊臣秀吉の奥羽仕置の後、天正18年9月~10月にかけて、仙北・由利一揆、庄内・藤島一揆、

和賀・稗貫一揆、葛西・大崎一揆が立て続けに起きた。

Part3 政実の秀吉軍迎撃と籠城戦が物語るもの

  1.九戸一揆のはじまり
    天正19年(1591)2月始め九戸一揆が起った。
  2.四戸櫛引氏と一揆
    天正19年(1591)2月24日 根城(八戸)が島守城(櫛引氏)を落城させる。直後、

    櫛引城を襲撃。
    天正19年(1591)2月下旬頃、櫛引清長が南康義を攻撃、報復で南康義が櫛引清長を攻撃。

    戦国末期、奥羽仕置以前の天正期、南氏と櫛引氏は、四戸の地の境界をめぐり何度も紛争を

    起こしていた。
          【九戸一揆の緒戦】
        ①櫛引氏と八戸氏
        ②櫛引氏と南氏
               ⇓
              戦闘

   九戸一揆とは
   地域の領主にとって「奥羽仕置」で停止させられた地域紛争(私戦)の再発
   天正19年2月28日、奥羽仕置の担当浅野長政の家臣連署状(色部長真宛)で当時は、

 「九戸一揆」とは豊臣     政権の「奥羽仕置」に対する抵抗と言われてきた。他の資料でも

 南部一族の2・3名が逆心、または、南部家来の内、九戸、櫛引、その他、小侍が逆心と書状に

 記している。浅野長政の書状でも、九戸、櫛引の成敗と記している。
  古文書の原則では、最初の名前の者が首謀者。「九戸一揆」は、九戸政実が首謀者。櫛引氏は

 政実に次ぐ存在。九戸一揆は、戦国期の地域紛争の再発。豊臣政権への抵抗より地域紛争をもう

 一回復活させるという事。

                           □「逆意」□    □「逆心」□
奥羽仕置の際、「叛逆之族」「及異儀者」「不相届覚悟之輩」「愚意申族」と断定された、

九戸政実らを書状などから豊臣政権がずうっとマークしてきた。成敗する対象であった。

  3.豊臣秀吉による「奥羽再仕置」
    天正19年4月13日、九戸一揆を鎮圧する中央軍の派兵要請のため、南部信直は、

  南部利直(信直の嫡子)を京に派遣、6月9日豊臣秀吉に謁見、派兵要請。
    天正19年6月20日、豊臣秀吉は、朱印状を発行した、内容は「奥羽奥郡の一揆鎮圧の

  陣立て」で。
                      一番 伊達政宗
                      二番 蒲生氏郷
                      三番 佐竹義宣
                            宇都宮国綱
                      四番 上杉景勝
                      五番 徳川家康
                      六番 豊臣秀次        となっている。

    伊達政宗の調停を捨て、蒲生氏を主力とする豊臣中央軍による殲滅に方針転換。9月1日には、

  蒲生は三つの城を一日で鎮圧。9月2日には九戸城の鎮圧に豊臣政権軍が集結し9月4日に落城

  させた。書状によると9月2日~3日の間、火矢、鉄砲にて毎日攻めたとし、激しい籠城戦が

    あった。
    九戸城は、天正19年9月4日に降伏落城した。九戸と櫛引氏は豊臣秀次の本陣三迫(現・宮城県

    栗原市)で斬首された。また、家臣達は、九戸城にて処刑されたと言われています。

                                                                  (その数5千と言われる)
    従来は、九戸一揆は九戸政実が中心となって、南部信直を恨んで挙兵したと言われていた。

    現在、別の解釈が出てきた。

九戸城落城後の文禄期の南部信直の書状には、
〇昔を引きづって、九戸の親類共が九戸政実よりも戦国時代をこだわり過ぎて、九戸政実を

  滅亡においやった。
〇戦国時代、先代、南部晴政が安東と仲が悪かった。これは、先代晴政の恨みで迷惑であった。

  戦国時代は、自分の意志とは違った事を引きづっている。

本講座のまとめ
                    ◆奥羽仕置◆      ◆九戸一揆◆
二つの出来事を通じて起きた大きな転換点
転換点① 領主の配置換え
          ・津軽の独立、南部氏と伊達氏の領境接触など
          ・奥羽の「要」会津城主による中央集権的監視体制
                      ⇓
               奥羽大名の自立性の抑圧

転換点② 「戸」の領主による集団「一家」の解体
          ・戸という同族が無くなる、戦国的な考えの家系が消える。
     ・奥羽仕置により三戸・南部家と根城・八戸家が残った。
     ・戦後期、同族結合、連合体を作っていたが、ほとんど消えた。
                      ⇓
              南部信直の権力確立
                      ⇓
               奥羽の戦国の終焉


九戸一揆の時代は、戦国乱世という言葉がピッタリである。合戦により勝利と躍進、敗北と滅亡、

様々な謀略、裏切り、目まぐるしい合従連携など溢れる時代である。熊谷先生も最新の資料等で分析、

研究を紹介して頂きましたが、また、新たな資料が出るかもしれません。  

久々の電車である、「不要不急の外出は・・・」で秋葉原の電気街もいつもの賑わいは無い感じたが、講座の方も緊急事態宣言発令中のためリモートでの開催であった。
今回の講座は、2回おこなわれる。時代の変化の中で人々が守り抜いた、世界遺産合掌造りの集落の美しさを探る。

【講座1】「日本最後の秘境白川郷の今」

講演は、白川村教育委員会の松本継太氏で、世界遺産地区内の合掌造り家屋を中心とした文化財建造物の合掌造り家屋に関する保存、知識及び村の文化・暮らし・風俗に精通している。NHK ブラタモリ「白川郷〜白川郷はなぜ美しい?〜」に出演されている。


1.白山と白川村
白山と言うと石川県のイメージが強いが、白山は単独峰でなく周辺の山峰の総称であり、厳密には富山県、石川県、福井県、岐阜県にまたがる。一般的には最高峰の所在地は、石川県白山市と岐阜県大野郡白川村となっている。白山は日本三霊山(富士山・白山・立山)の一つで最高峰は白山信仰の対象で山頂には神社が奥宮にあり各地に白山神社がある。
※霊山には色々と他の名もあげられている。
周辺は、豪雪地帯で「豪雪地帯対策特別措置法」に指定されている。「豪雪地帯対策特別措置法」は、豪雪地帯のうち、積雪の度が特に高く、自動車の交通が長期間途絶することなどから、住民の生活に著しい支障が生じている地域としている。白川村では、昭和56年豪雪では積雪4.5m、累計降雪21mとなっている。赤道に近い豪雪地帯と言われている。このような閉ざされた地域から、昭和15年7月発行の「アサヒグラフ」では「伸びゆく傳説の秘境」として取り上げられている。


2.白川村の概要
観光パンフレットなど「白川郷」として目にしていているが、白川郷は近世幕藩体制時の郷村制の自治範囲の呼び名である。白川郷は、南北30km庄川沿いの集落である、明治8年に白川郷42か村の内の23か村が今の白川村となったが、他は、荘川村(現:高山市)である。白川郷と言った場合、白川村と高山市荘川を言う。
白川村は、岐阜県北西部に位置し、両白山地により石川県と北を人形山により富山県五箇山と区切られている。村の面積97%が急傾斜の山林が占め、庄川沿いの平坦地に集落がある、大きい集落である荻町集落は、茅葺建物114棟で人口522人、129世帯である。日本の典型的な冬型の気圧配置による北西の風、大陸からの寒気が白山に吹く豪雪地帯である。人口1,546人、世帯数602世帯(R3.8月)の寒村である。県庁所在地の岐阜市より金沢市、富山市の方が近い。

                                                                                                      二宮書店 高等地図帳
3.合掌造りとは

叉首(さす)構造の切妻造り茅葺き→合掌造りの定義
日本の茅葺き民家の主流は、「寄棟造り」と「入母屋造り」であるが、合掌造りは「切妻造り」である。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太を「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。特徴である屋根の傾斜は、豪雪による雪下ろし水はけを考慮し、家屋の中で家内工業として養蚕が行われている。他にも和紙漉き、*1塩硝作りなどもあった。
中でも、養蚕は明治時代以降も継続され我が国の重要な輸出産業でもあった。
*1.火薬の原料となる塩硝製作は、加賀藩政時代の五箇山では一大産業だったそうです。

白川村のような山間にあっては少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用し建築形態も寄棟・入母屋造りより面積等において有効であった。NHKブラタモリでも放映されたが白川郷の合掌造りの屋根がいずれも妻を南北に向けているが、3つの利点からと言われている。
〇冬場に屋根にまんべんなく太陽が当たり、融雪と茅葺き屋根の乾燥させるため。
〇強風から合掌造りの風を受ける面積を少なくするため。
〇夏場の屋根裏部屋に風を吹き抜けることにより、養蚕を暑さから防ぐ。
科学的に計算しつくされた合掌造りである。
古民家の維持管理は大変である。自治体によっては、茅葺の古民家を保存しているが建築資材の「茅」や葺き替え作業は大変である。維持管理で茅葺屋根をトタン屋根に変えた古民家もある。急傾斜の屋根である合掌造りは・・・?。合掌造りもその保全のため、約30年のピッチで大規模な補修や屋根の葺き替えを行う必要があり、人手と時間を要する大掛かりな作業である。住民は、互助組織を形成、その組織を「結(ゆい)」と言う。この「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源があるとされる。葺き替えなどの家は、「結帳」を作成し参加者を把握する、参加した方が同じような場合は協力する相互扶助である、こうした「結」制度が合掌造りを存続させている。

なお、萱は、萱場が数か所あり、今はトラックで集めているが、昔は、急斜面の残雪を利用し束ねて滑らして集めていた。

資料  -叉首構造-
茅は雨漏りを防ぐため45度以上の矩勾配で噴く必要があり、結果屋根高さが高くなる。また軒を深く出すため垂木に強度が必要で竹や丸太が用いられた。茅葺きの屋根の構造を叉首組構造(さすぐみこうぞう)という。「叉首組構造(さすぐみこうぞう)」は伝統構法の小屋組で茅葺屋根に採用される。別名「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれ、叉首組構造は、垂木や合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」と合掌の骨組みである丸太と垂木の上に横に渡す竹をワラ縄などで結び作られます。(中川幸生氏)                             

4.最後の秘境白川郷が世界遺産に

・昭和46年住民保存会「荻町集落の自然環境を守る会」設立
・昭和51年重要伝統的建造物群保存地区選定
・平成7年世界文化遺産登録
生糸の生産は、明治42年に世界一の生糸輸出国となりました。 輸出が始まった幕末から明治、大正、昭和の戦前までの80年弱、生糸は日本の総輸出品目の中で常に第一位、輸出の花形であり続けました。この地域も明治初期には一戸当たりの繭の生産量も飛騨地区のトップであった。
しかし養蚕業の衰退(昭和50年には無くなった)、電源開発ダム建設とともに合掌造りも大正時代の半減となり、昭和40年代には今後の生活が話題に、畜産もで出たが、当時、国鉄のディカバージャパンのキャンペーンもあり観光立村へ。昭和46年に「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を結成。白川郷の保存の原則として「売らない・貸さない・壊さない」とした。委員会のメンバーは、・7つの組の代表・飲食店、土産物、民宿組合・合掌家屋保存組合、大工組合・青年会、女性会・地元議員・その他推薦と多岐にわたった、これが保存活動が進んだ原動力となったのだろう。昭和51年には重要伝統的建造物群地区に選定され、平成7年には世界文化遺産に登録された。
世界遺産としての普遍的価値は、・合掌造りのその特異な形態と希少性(建築的な価値)・ほとんど消滅してしまった合掌造りの集落のなかでかつての集落景観を残すわずかな集落(集落景観の価値)・それらの価値が守られている(真正性の保証)で、とりもなおさず長年の努力の成果が結実した。


5.世界遺産から25年
・観光客数の推移 平成7年年間70万人→平成31年度年間200万人
急激な観光地化は、地域社会に様々な問題を引き起こしている。生活道路にまで観光客の自家用車が多く、村も交通社会実験により大型バスの通行規制など交通対策に取り組んでいる、旅館・土産物店・喫茶店などが建てられ唱和40年代の景観を守るのが理想でも急激な観光地化の波が大きい。

画像資料:講座リモート写真
        講座資料抜粋
        白川村観光振興課パンフレット抜粋

 

【その他のPhoto】

6月の「退職者の会」の散歩は、「日光街道古河宿の寺社を訪ねる」とし、関東地方のほぼ中央に位置する、古河市を訪れました。古河市は「茨城の小京都」と呼ばれ古くは宿場町・城下町として繁栄し現在にいたり、茨城県西側の経済圏の中心となっている。

早々に駅前のタクシー乗り場から「雀神社」へ古河市の北西に位置するようだ。幹事のMさん曰く、この神社を起点に古河駅に向かいながら神社・名所旧跡を効率よく見学していくようである。
さて、雀神社とは面白い名前の神社ではあるが、由来は地名の「雀が原」または国鎮めの神が転じたものと言われている。創建は、一説では貞観年間(859~877)に出雲大社から勧請とのこと。社殿は、慶長10年(1605)に古河城主・松平康長が造営したと伝わっている、社殿から屋根付き渡り廊下つきの神楽殿があり、神楽や獅子舞が奉納される。正面の参道には対の獅子が岩の上に、親獅子の下には子獅子が、親子獅子の暖かみを感じる。社殿の前にはユーモラスな表情の狛犬が鎮座している、元禄14年(1701)の奉納とのことで当時はこうした狛犬だったのだろうか。

神社の西には堤防があり下には渡良瀬遊水地が広がっているが、堤防の上には万葉歌碑があった、古河市は万葉の時代は「許我(こが)」と表記され、渡良瀬川と利根川が分離する所に位置し、水運の要所であった。。


次は南に位置する「永井寺(えいせいじ)」へ。永井寺は、猛将と言われた江戸時代の古河城主永井氏が創建し菩提寺となっている。


さらに南に歩くと「頼政神社」があるが、その名のとおり源頼政が祭られています。治承4年(1180)宇治の平家との戦いで敗れ自害した首を従者が持って逃れ古河に葬ったと伝えられています。なお、源頼朝、義経とは遠い親戚にあたるようです。


古河市の繁華街の方に歩いて「正定寺」に。江戸時代初期、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主土井利勝の開いた寺で土井家歴代の墓所となっています。境内がゆったりした配置になっており、黒門(江戸下屋敷から移築)、赤門があります。

正定寺の隣が、福寿稲荷神社です。

ここで昼食。「富久家」へ立ち寄った所お休みでしたが、店先で折角来たのになど、ワイワイ、ガヤガヤしていたら女将が出てきて1時間待ってくれたら用意するとの事で、ご配慮に甘えることに。
待ちの1時間は、長谷観音に。長谷観音は、明応2年に古河城の鬼門除けとして鎌倉の長谷寺から勧請した。大和(奈良)、鎌倉、古河の本尊は同じ1本のクスノキから作られたと言われ、日本三大長谷観音となっている。


長谷観音から戻り女将の心使いにより美味しい御蕎麦をいただきました。


コースである江戸町通りに入り、古い街並みが残っている、3階せ建ての蔵があり、「篆刻美術館」と案内板があった。入口で篆刻とは何だろう?ということで入館する。
篆刻とは、パンフレットによれば「7000年前にメソポタミアで発生した図象印章に期限がある。その制度が中国に伝わり漢字と融合し、秦漢時代には政治経済と結びつき、世界に稀な印章制度が築かれた。その制度は奈良時代に日本にも導入され、現在に至るまで続いている。」とある。
裏手の蔵では、テーマ「疫神」で30人の書家が疫神の篆書で表現していました。多様な表現に奥の深さに驚かされます。

美術館の通りに「永井路子旧宅」がありました。永井路子は、古河市の名誉市民であるが、生まれは東京市本郷で幼くして父を亡くし、母の実家である古河に転居し古河で育った。古河高等女学校、東京女子大学、東京大学と進み、作家として「炎環」で直木賞を受賞、歴史小説で菊池寛賞を受賞、NHK大河ドラマの「草燃える」「毛利元就」はドラマの原作となった。編集者としても優秀で今で言うキャリアウーマンであった。


雨が降りだし急いで「古河歴史博物館」へ。この区域は、文化的な街である、歩いていても気持ちがいい。人口14万ぐらいの都市で素晴らしい施設が整っており、城下町であった自治体の強味なのだろうか。
博物館は、モダンな建物である、景観を生かした建物は日本建築学会賞した。入ってすぐのホールには、オランダの楽器ストリートオルガンが設置されている。江戸時代の天保3年(1832)に雪の結晶の観察図鑑「雪華図説」を観光した古河藩土井利位やその家老であった鷹見泉石がオランダから知識を得たことを象徴している。常設展示は、鷹見泉石が収集、記録、研究した蘭学資料を展示、原始から近代までの古河市の歴史を解説している。

急に梅雨空で雨となり、早々にタクシーにて古河駅に。まだまだ見学場所があるが一日で回れないほど素晴らしい古河市でした。機会が合ったらまた訪れたい。

【その他のPhoto】