
副題:~天下平定の仕上げ「奥羽仕置」と九戸一揆の真実~
「豊臣秀吉が行った奥羽仕置、それに抗い、南部氏の勇将・九戸政実(くのへまさざね)は
決死の籠城戦を繰り広げた。近年、九戸一揆の図式が揺らいでいる。最新研究から戦国乱世に
終わりを告げた戦いの真相に迫る。」としている。

「九戸政実」や「奥羽仕置」初めて聞くが戦国時代に北東北の南部領内で何が起きたのか?
一般に「九戸政実の乱」と呼ばれる騒乱の背景には、同じ南部氏一族である両者の確執が
大きく影響している。近年は、反乱ではなく九戸一揆、九戸合戦と呼称も改めつつある。
講師は、県史や地域歴史を研究している、八戸工業大学第二高等学校教諭 熊谷 隆次氏である。

このテーマの舞台は、現在の青森県、岩手県、宮城県、秋田県であり、中心となる人物は、
三戸城の南部信直、九戸城の九戸政実、豊臣秀吉の3人である。

Part1 北奥羽を治めた南部氏とは
1.戦国期の糠部郡と「戸」の領主
①糠部郡は、岩手県北部~青森県太平洋側、一戸・三戸・四戸・七戸・八戸・九戸があり、
それぞれ戸には領主が存在した。
②「戸」の領主は、独立して領域(領土)と家臣団(「家中」)を保持する領主。
③「戸」の領主は、「南部」を名字とし惣領家の三戸氏を中心に連合的な族的集団(「一家」)
を形成。
2.戦国後期 四戸・櫛引氏と八戸氏の紛争
それぞれが攻撃し、結果、八戸氏が勝利し領土を接収した。
(1)戦国期の北奥羽
戦国期、北奥羽の諸領主は、南部氏の領地(糠部郡、津軽、鹿角郡、久慈、岩手郡、
閉伊郡)安東氏、浅利氏、戸沢氏、本堂氏、六郷氏、稗貫氏、遠野氏、和賀氏・斯波氏領、
小野寺氏、葛西氏領

(2)永禄期「鹿角郡合戦」
戦国期、南部晴政氏と安東愛季氏と対立、安東軍に対し南部氏は二経路から反撃、南部
信直軍(糠部郡の領主)九戸政実軍(久慈、閉伊郡、浄法寺)により勝利を収める。
後にこれが九戸一揆に関係する事になる。南部信直は、糠部郡を傘下に収め、九戸政実は、
久慈、閉伊郡、浄法寺を傘下に収めた。

(3)元亀期「斯波御所」との境目争論
南部・不来方城と斯波郡・高水寺城が合戦
南部軍には、南部高信(南部信直の実父)、九戸政実が参戦・・・・和睦
元亀期「斯波御所」との境目争論の意義
南部領の南側、岩手郡北を支配下に置く。南部高信と九戸政実が南部氏の南下政策の中心。
鹿角郡合戦 と 斯波御所・境目争論
↓
南部晴政の時期、外征を機に南部高信・信直父子(田子)と九戸政実が勢力を拡大
(4)南部信直の家督相続
南部晴政、晴継父子の死により、天正9年(1581)南部信直が三戸南部家の家督を継ぐ。
Part2 北奥羽を襲った外圧、秀吉の「奥羽仕置」
1.南部信直の家継承と内紛
(1)クーデターによる家督継承
南部信直は、晴政の長女と結婚、二女は、九戸実親(九戸政実の弟)と結婚。
三戸南部の家督を九戸側で継ぐという事で内紛が。

(2)南部晴継の存在
新資料では、南部信直は、先代を晴継ではなく晴政を「先代」と記述。南部晴継は
家督を継いでない、晴継そのものが存在しなかったと・・・。
(3)「戸」の領主の内訌(ないこう)
①八戸氏:八戸氏の一族、八戸経継が九戸政実に内通。・・・経継を捕縛し殺害
②一戸氏:一戸政連の弟一戸信州、九戸政実に内通。信州が兄政連を殺害。・・・一戸家断絶
2.天正後期 北奥羽の領主との紛争
安東愛季が再び南部領に侵攻。・・・安東氏、戸沢氏との合戦で討ち死にし安東氏側が劣勢に
「斯波御所」斯波詮直が不来方城に侵攻・・・南部側、九戸政実、八戸直栄を派遣し掌握する。
3.豊臣政権への服属
南部信直は、北信愛を前田利家に派遣。当時、前田利家は秀吉の重臣として位置づけられ東北の
領地の服属に関わっていきます。利家の起請求文(南部信直宛)にも秀吉に対しての取り成し、
南部信直を保護すると記しています。なぜ、派遣したかは内紛、安東氏、斯波御所との戦が
背景にあるものと思われる。
4.津軽為信の挙兵と南部一族の内紛
安東氏の領内で湊騒動がおきる。これは湊通季(豊島城主)の挙兵によるが、南部信直は
比内郡を手に入れる。
津軽為信(大浦氏・南部一族鼻和郡大浦城主)が南部を裏切り、安東実季と同盟関係を結び、
南部を攻める事が出てきた。安東実季はこの混乱に乗じて比内郡を奪還する。為信も津軽領を
手中に収める。天正18年(1590)までに一挙に領地を信直は失った。

また、一族にもまとまりを欠く動きもあり、前田利家が信直宛の書状に家中にも反逆の輩がいると 記している。(七戸・九戸が該当)
5.奥羽仕置と九戸政実
このような津軽の反乱、南部の危機的な状況の中で小田原攻めに伊達政宗、最上義光、南部信直が
参戦、天正18年7月小田原城落城後に会津「奥羽仕置」に出陣する。
奥羽仕置(おううしおき)
天正18年(1590)豊臣秀吉が東北地方の諸大名に
行った領土の配置換えや検地、刀狩りなどの統治策。
「奥羽仕置」とは
①奥羽地方の領主の「近世大名化」の画期。
②奥羽地方に対して強行した「豊臣体制化」の推進。
③奥羽の「中世」から「近世」への画期。
天正18年(1590)7月27日、豊臣秀吉南部信直に送付した朱印状には。
《内容》
1.南部のうち七郡の領土の支配を信直の意思に任せる。
1.信直の妻子を在京させること。(人質)
1.知行の検地を行って蔵入地(直轄領)を確保し在京費用を維持すること。
1.家中(家来)の城を破却し、その妻子を三戸城下に集住させること。
1.右の四か条について、「異儀」(抵抗)におよぶものがいれば豊臣政権が成敗する。
豊臣秀吉 ⇒ 南部信直 ⇒ 南部氏の「家中」(家来)・・・ピラミッド型の支配体制に

豊臣秀吉の奥羽仕置の責任者は、重臣の浅野長政であった。長政は、花巻城(旧稗貫郡・鳥谷崎城、
現在の岩手県花巻市)に八戸政栄、九戸政実ら南部信直一族・家臣を召喚し服従するように命じた。

豊臣秀吉の奥羽仕置の後、天正18年9月~10月にかけて、仙北・由利一揆、庄内・藤島一揆、
和賀・稗貫一揆、葛西・大崎一揆が立て続けに起きた。
Part3 政実の秀吉軍迎撃と籠城戦が物語るもの
1.九戸一揆のはじまり
天正19年(1591)2月始め九戸一揆が起った。
2.四戸櫛引氏と一揆
天正19年(1591)2月24日 根城(八戸)が島守城(櫛引氏)を落城させる。直後、
櫛引城を襲撃。
天正19年(1591)2月下旬頃、櫛引清長が南康義を攻撃、報復で南康義が櫛引清長を攻撃。
戦国末期、奥羽仕置以前の天正期、南氏と櫛引氏は、四戸の地の境界をめぐり何度も紛争を
起こしていた。
【九戸一揆の緒戦】
①櫛引氏と八戸氏
②櫛引氏と南氏
⇓
戦闘
九戸一揆とは
地域の領主にとって「奥羽仕置」で停止させられた地域紛争(私戦)の再発
天正19年2月28日、奥羽仕置の担当浅野長政の家臣連署状(色部長真宛)で当時は、
「九戸一揆」とは豊臣 政権の「奥羽仕置」に対する抵抗と言われてきた。他の資料でも
南部一族の2・3名が逆心、または、南部家来の内、九戸、櫛引、その他、小侍が逆心と書状に
記している。浅野長政の書状でも、九戸、櫛引の成敗と記している。
古文書の原則では、最初の名前の者が首謀者。「九戸一揆」は、九戸政実が首謀者。櫛引氏は
政実に次ぐ存在。九戸一揆は、戦国期の地域紛争の再発。豊臣政権への抵抗より地域紛争をもう
一回復活させるという事。

□「逆意」□ □「逆心」□
奥羽仕置の際、「叛逆之族」「及異儀者」「不相届覚悟之輩」「愚意申族」と断定された、
九戸政実らを書状などから豊臣政権がずうっとマークしてきた。成敗する対象であった。
3.豊臣秀吉による「奥羽再仕置」
天正19年4月13日、九戸一揆を鎮圧する中央軍の派兵要請のため、南部信直は、
南部利直(信直の嫡子)を京に派遣、6月9日豊臣秀吉に謁見、派兵要請。
天正19年6月20日、豊臣秀吉は、朱印状を発行した、内容は「奥羽奥郡の一揆鎮圧の
陣立て」で。
一番 伊達政宗
二番 蒲生氏郷
三番 佐竹義宣
宇都宮国綱
四番 上杉景勝
五番 徳川家康
六番 豊臣秀次 となっている。
伊達政宗の調停を捨て、蒲生氏を主力とする豊臣中央軍による殲滅に方針転換。9月1日には、
蒲生は三つの城を一日で鎮圧。9月2日には九戸城の鎮圧に豊臣政権軍が集結し9月4日に落城
させた。書状によると9月2日~3日の間、火矢、鉄砲にて毎日攻めたとし、激しい籠城戦が
あった。
九戸城は、天正19年9月4日に降伏落城した。九戸と櫛引氏は豊臣秀次の本陣三迫(現・宮城県
栗原市)で斬首された。また、家臣達は、九戸城にて処刑されたと言われています。
(その数5千と言われる)
従来は、九戸一揆は九戸政実が中心となって、南部信直を恨んで挙兵したと言われていた。
現在、別の解釈が出てきた。

九戸城落城後の文禄期の南部信直の書状には、
〇昔を引きづって、九戸の親類共が九戸政実よりも戦国時代をこだわり過ぎて、九戸政実を
滅亡においやった。
〇戦国時代、先代、南部晴政が安東と仲が悪かった。これは、先代晴政の恨みで迷惑であった。
戦国時代は、自分の意志とは違った事を引きづっている。
本講座のまとめ
◆奥羽仕置◆ ◆九戸一揆◆
二つの出来事を通じて起きた大きな転換点
転換点① 領主の配置換え
・津軽の独立、南部氏と伊達氏の領境接触など
・奥羽の「要」会津城主による中央集権的監視体制
⇓
奥羽大名の自立性の抑圧
転換点② 「戸」の領主による集団「一家」の解体
・戸という同族が無くなる、戦国的な考えの家系が消える。
・奥羽仕置により三戸・南部家と根城・八戸家が残った。
・戦後期、同族結合、連合体を作っていたが、ほとんど消えた。
⇓
南部信直の権力確立
⇓
奥羽の戦国の終焉
九戸一揆の時代は、戦国乱世という言葉がピッタリである。合戦により勝利と躍進、敗北と滅亡、
様々な謀略、裏切り、目まぐるしい合従連携など溢れる時代である。熊谷先生も最新の資料等で分析、
研究を紹介して頂きましたが、また、新たな資料が出るかもしれません。










































