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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

埼玉県吉川市教育委員会生涯学習課の企画による文化財ツアーに参加した。
吉川市の広報誌には「吉川市は、川の恵みを受け、まちが発展してきました。吉川市の歴史と文化について、 関宿博物館から探ってみませんか?」とあった。
野田市の関宿地区については、関宿城と鈴木貫太郎記念館(終戦時の内閣総理大臣)を訪れてみたいと思っていたが、交通の便があまり良くなく後回しになっていた・・・
かつては千葉県最北端の町で埼玉県と茨城県と接している、関宿町は2003年6月6日に廃止され現在は野田市に編入されている。

古くから物流(河川舟運)と軍事的な拠点として発展。 江戸幕府の成立により、関宿は有力譜代大名の居城として整備され、関宿城藩主が幕府の要職を勤める点から「出世城」と言われたそうです。しかし近代に入り廃藩置県、舟運の衰退によって城下町、宿場町としての面影がなくなりました。関宿の道路網や鉄道網から離れた地理的位置が拍車をかけました。
平成7年(1995)には、関宿城跡の近隣敷地に天守閣を備えた千葉県立関宿城博物館が開設されました。

野田市関宿地区の地理  
関宿は、東は利根川を境に茨城県と、西は江戸川を境に埼玉県と隣接する。江戸川は関宿分岐点からの河川で、2つの一級河川に挟まれている。これは利根川水系の治水と水運のため江戸時代初期に行われた河川改修工事で「利根川東遷事業」と言われている。数次に渡る瀬替えの目的は、江戸湾に注いでいた利根川から江戸を水害から守る、また流路を変えることによる新田開発舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体制の確立にあった。しかし時代とともに水運が廃れ鉄道に移るとともに重要性が低下した。地形は、平坦であり両河川に挟まれた低地(最高標高約16m)肥沃な土地で農地が集中している)

見学バスは、埼玉県から江戸川を渡り野田市に入り北に向かって進む。朝8時過ぎで通勤・貨物自動車で込み合っている、道路状況が良くない。この辺は山がなく関東平野が続く、茨城県境町への橋の手前で左折すると関宿城が見えてきた、川沿いにスーパー堤防で整備されて公園として整備もされている、サイクリングロードになっていた。スーパー堤防の上にお城があるようだ、規模的には埼玉県行田市の忍城に似ているが関宿城の方がゆったりしている。お城は、平城で現在の位置にあったわけではない。

          千葉県立関宿博物館 
千葉の県立博物館は、県内8ヶ所にあり一番県北にあるのが関宿城博物館である。展示内容は、河川に関わること、関宿城(藩)に関わることなど、川の歴史と文化を掘り下げています。
入口には、博物館イメージキャラクター「カッピー」がお出迎え。

展示室1には、近現代の利根川・江戸川での洪水との闘いや河川改修工事など紹介。

※水塚ー洪水の際に避難できるように、屋敷内の土を盛った上に建物を建て、生活用品や非常食の食糧などをそなえていました。

※関宿水閘門ー利根川と江戸川の水量を調節し、船の航行を助けるために設置された関宿水閘門。1927(昭和2)年に完成すると、それまで水量調節を担ってきた「関宿棒出し」は役目を終えた。関宿の水閘門は、材質的にも、それまで主体であった煉瓦造りからコンクリートへ移行する時期の貴重な文化遺産とのこと。

※利根川の改修(築堤工事・浚渫工事)ー大正時代から蒸気機関車で土を運搬する作業が行われました。しかし、地固めなどの作業は人力による場合が多く、現場周辺の農家からも多くの人出が動員された。

川底にたまった土砂を取り除くことを浚渫といいます。これにより、船の航行をしやすくしたり、洪水をおこしにくくしたりします。船による浚渫作業は、明治33年(1900)の利根川第1期改修工事から導入されました。

※水運ー明治10年(1877)内国通運株式会社(日本通運の前身)が「通運丸}(外輪蒸気船)を利根川、江戸川に就航させました、両国、関宿間は、江戸川を遡るのに9~10時間、下るのに7時間かかりました。野田市と流山市、柏市との間を流れる利根運河は、オランダ人技師のムルデルが建設を担当し、明治33年(1890)竣工となりました。明治後期から大正時代にかけ多くの船が通行しましたが、昭和16年(1941)の洪水により水堰橋が壊れて運河としての役割を終えました。

展示室2には、近世の利根川の東遷事業の河川改修、手賀沼・印旛沼の干拓などの紹介。

   

※利根川の東遷事業ー江戸時代初期、幕府は河川交通の整備、新田開発、農業生産力の増強、洪水対策などの目的で利根川本流の開削工事を行いました。東京湾に注いでいた本流を途中で締め切ったり、新たに川をつくったりしながら少しずつ東へ流れをかえ、承応3年(1654)に本流を銚子河口から太平洋に流す工事が完了しました。この工事の中で、様々な河川技術が考え出され、今日の護岸工事などの基盤が築かれました。

※洪水ー近世、関東地方は何度も大洪水に見舞われました。なかでも天明6年(1786)の大洪水は、天明3年(1783)の浅間山の噴火により噴出した岩石が利根川を下り、川底を上昇させたことでより被害が拡大し、江戸中が大洪水に見舞われるなど、江戸時代最大の被害をもたらしました。戦後も、暴れ川と言われた利根川は、大きな災害をもたらしました。

※沼の干拓ー水害の防止や新田開発・水運の発達を目的とした沼の開拓工事が、徳川幕府によって継続的に試みられました。かつて関宿の周辺には大きな沼がたくさんありましたが、干拓によって姿を消しました。手賀沼も江戸時代初期から新田開発を行いましたが、度重なる洪水によって壊滅しました。その後もたびたび埋め立てを行い、新田開発が計画されましたが、成功しませんでした。印旛沼が姿を変えたのは、昭和21年(1946)の農林省直轄の干拓事業でした。

展示室3には、河川交通と伝統産業を取り上げ、水運で活躍した高瀬舟、河岸問屋と醤油蔵を再現、水運の推移、河川の発達でもたらした文化を紹介。

※利根川の水運ー利根川は、渡良瀬川や鬼怒川など多くの川が合流し、関東の大動脈として大消費地江戸を中心のい物資や人の交流など重要な役割を果たしてきました。江戸時代の利根川水運の主役は、高瀬船と呼ばれる大型の川船でした。その長さは、最大で30m位もあり、米俵約1300俵を運べました。このようにして、水運が盛んになると流域のいろいろな場所に産業がおこりました。このような船が、利根川や江戸川を大きな帆を張りながら行きかい、米はもちろん生活用品や各地の特産物、人々を運びました。明治時代に入ると蒸気船(通運丸)が登場し、銚子から利根運河~東京間を運航しました。

※河川が育てた伝統産業ー水運の発達により流域各地と大消費地江戸が直接結ばれ、河岸が形成され、さまざまな物資が利根川・江戸川流域で生産されるようになりました。野田・銚子の醤油、佐原の酒、流山の味醂、猿島(茨城県南西部)のお茶などの産業が発達しました。猿島のお茶は、品質改良により「猿島茶」として幕末には海外にも輸出されています。

企画展示室には、「関宿藩と関宿」藩の歴史、関宿城の資料、藩主久世氏の関係資料の展示。

※関宿藩と関宿城ー関宿は関東平野のほぼ中心にあります。戦国時代には「関宿を支配することは一国を支配するのと同じくらいだ」と言われるほど重要な場所で、ここを手に入れるために戦国大名が戦いを繰り返しました。近世に入ると江戸幕府は関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え、信頼できる譜代大名に関宿の支配をまかせました。藩主は、幕府の重要な仕事をこなすとともに、地元関宿では洪水対策、新田開発、産業(お茶の栽培など)に力を入れました。利根川と江戸川が分かれる関宿は河岸として栄えるとともに、「日光東往還」(日光街道の脇海道)の宿場町としても賑わいました。
関宿城は、今から500年以上前に簗田成助(当時、古河から関宿にかけて支配していた足利成氏の有力家臣)が建てたと言われています。天守閣は古い記録によると、寛文11年(1671)に江戸城富士見櫓の形をまねて建て直されました。関宿城は、佐倉城、忍城などどともに江戸城を守る重要な城の一つでした。

4階は展望室となっており、利根川・江戸川の流れをはじめ、筑波山・日光連山・富士山など関東平野を取り巻く山並みを遠望することができます。 見学して、野田市関宿地区と吉川市は、地理的に似ていると思いました。

現在、散歩コースになっている川沿いの道も多くの人々の歴史があったと考えさせられます。

コロナ禍や家族の病気などで参加も迷いましたが、半日の見学とのことで参加しました。企画担当の方も気分転換も考えコロナ感染に気を付けて実施しましたと言ってましたが、こうした時間も大切です。

【その他のPhoto】

※香取神宮の式年神幸祭での御座船、神の待つ牛ケ鼻を目指すお船渡の飾り。

※お城の北側は、庭園となっている。他にも公園として整備している。

 

ある博物館に行ったら、縄文時代の食事を展示してあったが、現在の食事と比較し興味をそそられた。中世の食事については古文書等に残っているが縄文時代となると遺跡からの出土物からの推測、想像でしかない。
今回は、最近、世界文化遺産に認定された北海道・北東北の遺跡を中心に、1992年より三内丸山遺跡担当し、現在、青森県世界文化遺産登録専門監の岡田康博氏の講演である。

Part 1   調理道具は縄文土器と黒曜石 ~①縄文キッチン~

今回、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の17の遺跡が認定されました。縄文時代は今から約15000年前~2400年前の1万年以上続きました、氷河期から温暖化が始まり、針葉樹から落葉広葉樹に、魚介類が豊富に生息できる環境となった。遊動から定住となり、定住を支えた生業は、西アジアでは牧畜・農耕、縄文遺跡群では、狩猟・漁撈・採集であった。
生物多様性に富んだ森林資源のブナ林が海岸線まで見られた。(北海道・北東北)また、サケ・マスの資源量が多く、上手く利用した。海流が東北沖で暖流と寒流が交差し、縄文時代における地域文化圏があった。土器を見ればわかる。

昔に比べてカラーになったが、カラー化の技術ではなく、いろんな情報が分かってきた。
  ・集落の家の数が多く、丸木舟、犬、隣の集落が書いてある等々。

〇縄文時代(文化)の特徴
「採集・狩猟・文化で定住を実現」
  ①土器と弓矢の登場
 ②村の出現(家・墓・ゴミ捨て場)
 ③持続的な資源利用技術の開発      
 ④大規模記念物(環状列石、盛り土、大型掘立柱建物など)の構築
 ⑤精神世界の発達
 ⑥広域での交流、交易

〇土器は人々の生活を変えた
 ・縄文時代になって土器が登場

  ⇒環境の変化がもたらした森林資源の利用
 ・土器は煮沸に使用    
   ⇒利用できる自然の恵みが拡大
      *固い物が食べられる、あく抜き処理
 ・衛生環境の改善
    煮沸により衛生的に 
  ⇒生活の安定に貢献
      *土器は偶然の発見ではなく初めから目的を持って作られた

〇最古の土器は青森県
 ・石器を作る材料(原材料)があった
 ・川があった・・・サケが遡上する川だと考えられる 
  まだ竪穴住居なかった、本格的な定住ではなかった。 
  考古学的には土器は定住の条件と考えられている、土器は移動には適さない。
〇土器の起源                                                          
 ・「自生説」と「伝播説」  
 ・古い段階の土器は、本州北半と九州北部、日本列島の両端
 ・自生説では日本列島南北に起源がある多元説となるが・・・
 ・沿海州などでも古い土器は見つかっている。
   *土器の使い分け
               大きいのは----貯蔵用
        小さいは----煮炊き用
 土器は、煮炊き用煮沸として生活に重要な容器でこれを持つことにより縄文時代は    長く続いてきた。
〇良質な黒曜石が持ち込まれた
 一方、調理するとき鋭く切れる利器が必要になります。そうした石器の黒曜石は北海    道が原産地で活発な物流があり、津軽海峡を越えてもたらされた。その他にも新潟    県のヒスイ、石斧の石材が海峡を利用していた。

Part 2 栽培する縄文人と生活環境の変化 ~②縄文フード~

〇縄文人の食卓を復元する
  ・遺跡に遺されている情報が少なく偏りがある
   ⇒有機質の情報は分解され残りにくい
  ⇒目に付く土器や石器が中心でミクロの情報を得るには相当の努力と覚悟が必要
 ・これまで考古学では当時の生活そのものを研究対象としてこなかった。
   ⇒縄文研究は歴史ではなく家庭科、生活科の分野である
〇食材
 ①ムラの中のゴミ捨て場や貝塚などに残された、食物残滓を分析する。
   ⇒シカ、イノシシ、ノウサギ、ムササビ、カモなどの鳥類や海辺では魚介類も豊        富。  
   ⇒クリの果皮やクルミの殻なども多く出土。しかし、有機質のものは分解されや        すい。

   *利用されない物が捨てられる。
〇貝塚は情報の宝庫
 貝塚には、道具(土器や石器)、食べ物の残滓(骨や貝殻、魚の鱗、木の実の殻)、    火を焚いた後に生   じた灰や炭が堆積している。
   *縄文人には単なるゴミ捨て場だが情報の宝庫である。
 

〇土は貴重な情報源
 フルイにかけて顕微鏡で種類を特定する。                                    
〇小さい貴重な情報
 マグソコガネ、ショウジョウバエのサナギ、クリの花粉化石など。
   *昆虫で暖かい寒い、きれいな所など調べられる。
〇三内丸山遺跡で出土した魚骨
   *フルイにかけて集めると、魚がたくさん見つけられる。ヒラメを見ると三枚に         おろしていたのではと推測される。何を食べたのか、どう調理したか想像でき         る。シャコ、イカ、タコも縄文人は好きだった。 

〇出土した骨や貝   
 ネズミザメ、ホホジロザメ、アカエイ、マイワシ、ニシン、カタクチイワシ、アナ    ゴ、サケ、コイ、マ    ダラ、サヨリ、メバル、ホッケ、アイナメ、カジカ、ス    ズキ、いなだ、マアジ、サバ、カツオ、マグ    ロ、サワラ、ヒラメ、カレイ、カ    ワハギ、フグ     
 ⇒現在も陸奥湾内で捕れる魚がほとんど50種類以上の魚類、タコ・イカ類、シャ        コ・カニ類も出土。
   *ハマグリが出てくると暖かい所と示している、北海道でもハマグリが発見され          た。  
   *アジ・サバなど、今も食べられている物も縄文では食べられていた。いろんな         魚を捕っている。魚も生息している所がそれぞれ違う、深さも違う海の様子を         陸地と同じように知っていたのでは。フグも食べていた。

〇魚の大きさ
 縄文人は、今日食べている魚より大きい物を食べていたのでは、マダイは1mクラス    の物を食べていたのでは、やはりマダイも三枚おろしで食べていたのでは。
〇魚類の組成の違い
    *内陸の集落と海側では、違いが見えてきた。物流があるので違ったものを食          べていた。
②湿地などに残された可食植物の種子や花粉化石などを分析する。
 ⇒クリやクルミ、トチなどが多く、キイチゴ、サルナシ、ヤマグワ、ヤマブドウ、ニ      ワトコなども出土。ドングリ類はほとんど出土しない。
    *クリは、たくさん出ている。炭化したクリは残りやすい。割った跡が見られる。
 

ふるいにかけて見つかった種にヒョウタンのタネもあった。ヒョウタンは、亜熱帯に生息。
当時は暖かった。ヒョウタンは、人間が管理しないと成長しない植物のため、植物の管理をしていたのでは。その他、ヤマブトウ、キイチゴなど森の恵みを利用したのがわかってきた。教科書にはドングリをたくさん食べたと書いてあるが、見つかるのはクリに関する情報が多い。三内丸山は、ブナ、ドングリ、クリが急に増える。本州から持ち込んだと思われる、クリは食料の安定に貢献した。縄文里山ができていく。  

③土製品を観察する
 ⇒イノシシ型土製品やキノコ型製品、クルミ型土製品が出土。
  *キノコ型には数種類のパターンがあり、図鑑的という説もある。自然に対する思        いもある、東北の縄文の特徴でもある。

④縄文人の歯や骨を分析する
 ⇒骨に含まれる、コラーゲン分析によると摂取している食料の8割が植物性。
  *森が支えた
〇炭素・窒素安定同位体分析    
 人骨から抽出したタンパク質(コラーゲン)、土器に付着した炭化物の炭素と窒素の    安定同位比を測定し、当時の人々の食性を推定。
 ・人骨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・食の傾向
 ・土器付着炭化物・・・・・・調理された食物 
  *魚を煮た手がかり
縄文時代は、米や雑穀はほとんど食べられていない、クリやトチが食べられている。北海道を中心として動物性タンパク質が主要な位置を占めていた所がある。(オットセイ、イルカ)土器付着炭化物をみてもヒエやアワは食べられていない、こういった物があるのはまちがいないが積極的に利用することはなかった。
⑤出土した食品を分析する
 ⇒縄文ハンバーグとクッキーが出土しているが、食材がそのまま口に入るということ    ではない。
  *さまざまな植物性、動物性タンパク質があった

 〇マメ、ヒエの検出

  最近、注目されているのがマメ、エダマメ、野生のマメ類、食をささえる食材であ     った。野生のヒエ(イヌビエ)が大量に出てくる、主たる食料としてはシフトしな     かった。イヌビエが将来的にはヒエに変わっていたかもしれない。  

Part 3 縄文人の食卓とニワトコの謎 ~③縄文ダイニング~  

縄文人の食事風景を考えてみます。土器から調理方法が推定できる、基本的には「煮る」や「煮込む」で焼くとかはあまりされていない可能性がある、火を受けた骨は少ない。焼くという調理の仕方は、うま味、脂肪分が落ちてしまうので決して効率的ではなかった。他に「蒸す」が基本であろう。 
シチューや寄せ鍋がそんなイメージでしょうか。

味付けはどうしたか?塩・油・キハダ・サンショウなどのタネが出てきますので調味料として使えるでしょう。味噌、醤油はその証拠はない、縄文時代には無かっただろう。塩は、海産物で手に入る、塩を作る土器が遺跡から出てきている、状況証拠から考えられる。食べられなかったのは甘味である。
〇いろんな道具類
  石器を見ると加工に使われた石器が見られる。デンプン粒が残存していることから    植物加工具の可能性大。地下に保存できる土器、切れる石器、石匙(セキシ)は、    イネ科植物特有の使用痕が見られる。土器を炉の中央に置いて、まわりで火をた      く、火を受けた所は赤く色が変わり、上の方はススになる。40~50cmの土器は、    水を入れると40分位で沸騰する、しかし壊れやすく、土器がたくさん見つかるのは    耐久性に問題があった。
  石器は、デンプンの粒子など残されているが、木の実のたぐいをすりつぶす、たた    くなどの 道具あった。

      ・石皿・・・・いまのマナ板
        ・手に持った丸石は・・・・タタキ石、スリ石

〇その他の石器

北海道の石器では半円状扁平打製石器、半円状の石器ですが、これはデンプンを取り出すために使われたかのうせいもある。利器は、ガラスと同じ鋭い、付着している物を調べるとイネ科の植物を処理するために使われた。今で言うカマの仲間である。こうした石器を何に使われたか調べると縄文の食のイメージが広がる。
イメージとして総合的に見ると、主流は鍋料理?が非常に効率的、合理的である。主食という考え方は無く、縄文人は季節に応じて手に入れられるものを食べていた。春・秋には森の恵みが豊富で、夏になると海や川など水産資源、魚介類を利用し始める、そうした事により一年をそこで暮らすことが出来る。冬は狩りのシーズン、四季折々の物を加工していた。四季の魚の骨が遺跡から出てくる、一年間そこで暮らしていた証拠である。遺跡でも鍋で使うオタマの様な物が見つかる。スプーンの様な物も見つかる、汁のような料理もあったのでは。

携帯食としてクリ、干し肉が食べられた、三内丸山では15cmぐらいの袋が出てきて、その中からクルミの殻が出てきている。縄文人は、そういう物を入れて森に出かけていた。動物を捕る、森の恵みを集めてくる際の携帯食と考えられている。

砂糖的な甘味はなかったが、山ブドウのような酸味ではなかったか、ハチミツは考えられるが証拠はない。秋はサケ、いろんな食べ方をした、縄文を支えたのはサケだと言われたりした。しかし縄文遺跡からサケの骨がたくさん見つかる事は非常に少なかった。サケは、残りずらい魚で、捨てる所がない魚のため、土壌の分析で見つかるようになった。サケの利用には大きな労働力を必要とする、そのため、この辺は大きな集落、ネットワークがあったのだろう、早く出来上がっていたと思われる。調理の痕跡で珍しいのは、フグ、当然毒があるが石器で解体した時の痕が残されている。
〇食事の作法・・・食べ方
  煮炊きした食材は、寄せ鍋の雰囲気だとすると小盛するような銘々皿は見つかって    ない。個々の食器が明確にあるわけではない。オタマやスプーン状の木製品が見つ    かっている。


〇食事はいろんな意味がある
  縄文時代は、家族の時代と言われている、竪穴住居を見ると、三内丸山では、大き    さがあまり変わらない、家族が一つのまとまり単位であった。縄文人の平均寿命か    ら言うと三世代同居は珍しかったと思う。夫婦親子が一つのまとまり、そういう時    間は、単なる栄養補給ではなく、家族の団欒、お互いの絆を強める、食事の持つ意    味は、協同に反映されている。

〇酒を飲んだか縄文人
  遺跡を調査すると、大量にタネが見つかる場所がある。これはニワトコと言う植物    のタネ、初夏に赤い実を付けるが食べられない。新芽を食べる事はあっても大量に    食べることはなかったが大量に見つかりそれと一緒にショウジョウバエのサナギが    出てくる。タネもヤマブドウ、キイチゴ、サルナシなどいろんな種類がブレンドさ    れている、ショウジョウバエのサナギがあることは発酵物であり、諸説ある一つの    選択しとして、お酒を造った可能性はないのか議論されている。

※ニワトコ

人間が関わった人為的生態系が、長時間続いていたが、自然に依存していたわけでなく自分達でさまざまな働きかけをしていることが分かってきた。そうした生活のバランスが出来なくなった事もある。三内丸山は大きい集落だが自然とのバランスが寒冷化によりズレてしまったことにより、小さく分散した集落となった。

【まとめ】
①基本は植物食である。
 ⇒季節によって変化、旬な食材を利用加工して保存食もあり、地産地消の原点
②食材が加工される場合がある。
③基本的には「煮る」である。
④資源(食材)を徹底利用するのでゴミは少ないはず。骨のズイまで利用している。
⑤食の安心安全は生活の基本であり、食を通してコミュニケーションを図り、互いの結    び付きを確認し、より一層深める格好の機会でもあった。

食は単なる栄養補給でなく人間が社会で生きていく情報、経験、コミニュ形成をつくる事が調査でわかってきた。


土器は、縄文時代になって登場したとのこと、縄文人の発明もしくは使われてきた土器は、生活そのもの、定住化を促進し、細かい所では、狩猟採集から食料の保存、加工、調理、食器へと発展した。土器の起源も興味のある所だが、粘土質の土壌が火によって固まったのか?
いずれにしろ、縄文人が自然との繋がりを持ち、四季折々の植物や動物を食べ暮らしてきた、人為的な生態系を保ことにより縄文時代が長く続いてきた。単なる生きていくための食のみでなく、今日でも考えさせる内容であった。

本講演は、河出新書より「日本史の法則」で出版されているようで、本郷氏も東京大学での研究も40年となり、日本史の歴史の特徴を探っているとのこと。
第1回の今回は「地理と歴史の流れ」のテーマで講演された、
本郷氏は、日本史の法則を6つあげた。
①日本は一つではない
②歴史も一つではない
③日本の歴史はぬるい
④信じる者は救われない
⑤日本では地位より人、血より家
⑥日本史の自由と平等

本講演では、「日本は一つではない」「歴史も一つではない」「日本の歴史はぬるい」の3つの内容で話された。特に「日本史はぬるい、変わる時は外圧」では、外国と日本を比較した。

🔳日本史はぬるい、変わる時は外圧
〇虐殺がない、戦争が長引かない
 ドイツ30年戦争、英仏100年戦争とか、日本では応仁の大乱で11年、焼け野原になった割に、仏像もお経も残つ      ている。
〇藤原京、平城京、平安京には城壁がなかった、遺骨にも戦いのあとがないらしい、欧州や中国では城壁都市であ     った。
〇平安京ができると、藤原氏が台頭→天皇は子どもの方が良い。(成人男子の天皇否定)
 軍事面から子ども、女子はだめになった。→平安時代は必要なかった
〇平安時代、遣唐使の廃止し、うちむきな日本。→国風文化花盛り。女流文学が花ひらく。
   外国からの刺激がない、ひらがな・カタカナも生まれた。
〇鎌倉北条氏の例外、血塗られた政争、
  北条氏は三位にはならなかった、武士を大事に・・・
  モンゴルの来襲と貨幣経済に・・・→社会を変える

近現代史になると多くの人が亡くなりました。スターリンのシベリア送り、ロシア革命、毛沢東の大躍進運動、文化大革命、カンボジアのクメールルージュの虐殺。
日本においても、日露戦争、第二次世界大戦でとらえ方が変わりましたが、それは明治時代から変わりました。

🔳日本は西高東低・・・固関
〇愛発、不破、鈴鹿の東が「関東」、関東はあっても「関西」はない
   悪いのは東から来る・・・
   壬申の乱は、不破の関周辺に拠点を置いた大海人が、関東で兵を集めて勝利した。
〇坂上田村麻呂は、蝦夷征伐→征伐であってもその後の統治がない。
〇織田信長の天下布武の「天下」、池上裕子氏によると「天下=京都」。もう少し広くても機内。
〇伊達政宗の東北制覇→会津を占拠したに過ぎない 会津・白川・米沢
 秀吉と奥州仕置→秀吉は会津までしか来ない
〇東国で国作りをした家康→米作りに「ほぼ均一な税」の活路を見出す。
    内需拡大路線への転換→鎖国


私達は、歴史を流れとして教えられてきました、その時々の分岐はなかったのか不思議なところです、別角度での検証も。
日本は、島国で鎖国等もあり独自の文化を形成してきたが、しかし文化や制度等は中国・朝鮮から流入してきたもので、無から有を作り上げたのではなく、あったものを改良・改革するのは得意である。筋が通ってないと言うか、理念が定まらない日本と言うか日本史から理解できるのかもしれない。
本郷氏は「日本史はぬるい」との言葉は言い当てているなと思った、政権が変わっても天皇制が存続している、今回の自民党総裁選挙においても敗れても要職につくなど、日本固有のものなのか面白い。

歴史に興味を持つとき、歴史の縦軸とともに地理の横軸を念頭に入れていかなければならないと考えさせられた。