爺の社会科見学 -24ページ目

爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

妻の病院への付き添いでJR武蔵野線の三郷駅で下車した。待ち時間の1時間程を駅の周りを散策した。
駅前に「三郷市市制50周年」の幕があった。昭和31年(1956)に東和村・彦成村・早稲田村が三郷村に、昭和39年(1964)には三郷町、そして昭和47年(1972)に市制施行した。
市名の由来は、この地域は早場米の産地として知られ、隣の吉川市と三郷市の地域を「二郷半領」と言われたことから、その「郷」と3村(彦成・早稲田・東和)の合併の「三」から三郷と名付けたと言われている。ちなみに「二郷半領」とは、二郷(吉川・彦成)と「下半領」彦成以南の地域を総称している。
三郷市は、埼玉県東南部に位置し、江戸川、中川、大場川が流れ、江戸川を挟み千葉県に接している、かつては純農村地域であったが、昭和48年(1973)の「武蔵野線三郷駅開業」、平成17年(2005)の「つくばエクスプレス三郷中央駅開業」高速道路網が整備され三郷ジャンクションができ、住宅都市化、物流施設等が集積するなど、様変わりした。あとで開業した隣の新三郷駅は、操車場跡地利用で大型ショッピングセンターの「ららぽーと新三郷」「コストコ」「IKEA」が出店し、三郷駅周辺が地盤沈下ぎみである。隣の千葉県流山市が人口増加話題になっているが、いかに鉄道網と大型ショッピングセンたーが起爆剤になっているかがわかる。
三郷市は、人口14.2万人(三郷市HP)。最近、三郷市で話題になったのが、埼玉県民に聞いた「埼玉県の住み心地が良い街ランキング」(2021年版)で1位になったことであるが、東京20k圏内で鉄道網と大型ショッピングセンターが充実しているからだろう。

前置きが長くなったが、1時間程度の待ち時間で近くのお寺にと思い、前にタウン誌に掲載された高応寺へ。
高応寺は、住宅街の中にありました。まるで箱庭のお寺のようです。入口の「高応寺(学問寺)の由来」の説明板がありました。高応寺は、今から400年ほど前に建てられた、日蓮宗の学問寺で、この寺子屋から早稲田小学校、前間小学校へと続いていきます・・・と。そのためか学業成就祈願が有名で、鬼子母神、大黒天も祀られています。現在の住職は、第27世 酒井菜法氏で、前住職は父にあたり立正大学名誉教授・文学博士、仏教学部長、カリフォルニア大学客員教授を歴任。現住職も異色の女性住職で、幼少期を米国で過ごし、臨床宗教師として緩和ケアの活動をしている。マスコミにも出演することも多く、テレビ朝日「ぶちゃけ寺」NHK「チコちゃんに叱られる!」「クローズアップ現代」等に。


境内には、ホタルが舞う小川、水琴窟、東屋、ベンチなど配置し、四季折々くつろげる境内です。高応寺内で、お寺ヨガ・書道教室・マルシェ・子ども食堂・がんカフエなど催すなど行動的なお寺です。

まだ時間があったので江戸川土手に、傾斜地一面に菜の花が咲いているが、菜の花も群生で咲いていると見応えある、都心から20kmの所に広々した心が休まる所が・・・。
これが三郷市の人気の一つかもしれません。

ここで妻からメールが入り帰ることに。

船橋に現存する、商家と「船橋」の地名の由来となった海老川に架かる橋を訪ねる。
船橋駅で下車する。

船橋市は鉄道が9路線が通る、千葉県2番目の大きい都市である。人口64万人で政令指定市を除くと、全国的にも一番人口規模の大きな市である。船橋市の社会経済状況をみると、東京から20Km圏内ということで交通手段は鉄道・徒歩が多いが、自動車が2割、自転車も1割と様々な手段が利用されている。製造出荷額や年間商品販売額は増加傾向にあり、市内の産業は卸売・小売が中心となっている。道路状況をみると、人口規模割には道路整備が遅れており、幹線道路に交通が集中し、渋滞が発生し県下ワーストクラスの旅行速度となっている。道路集中量は、通勤目的の集中が県内5位、業務目的の発生集中は県内2位となっている。道路計画を有しているが、整備率は県内でも低い状況である。(船橋市役所発行の資料による)
船橋の幹線道路から脇道や住宅地の道路状況をみると整備が遅れていることは理解できる。

駅前の通りから目的の本町通りに入る。商家はこの通りに2軒現存する。古くから港町と宿場町として栄え、今なお古い商家が点在し営業している。


〇森田呉服店
 江戸時代末期、本家から分家して創業。今の建物は明治5年建築、明治の2階建て商家の様式が感じられます。店舗の入り口に数十年前の写真が飾られていましたが、店主のお話では外見は昔と変わらないとの話でした。店内はスッキリした内部で古さを感じさせない。戦前は着物の販売、現在は、浴衣、手拭い、和装小物、バッグなどを販売。戦後は、本町通りは大神宮参拝者で賑わい、夜遅くまで営業していたとのことです。

〇廣瀬直船堂
 安政年間創業の和菓子店で、現在の店舗は大正7年建築の2階建て、江戸時代にみられた出し桁造りの様式。江戸時代は、「成田街道名所せんべい」が人気、成田詣での旅人がよく立ち寄ったとのこと。大正から昭和にかけては「真中まんじゅう」を売り出し、名物の土産として販売してました。

本町通りを歩いているとビルの谷間に鳥居がありました、鳥居の石板に厳島神社とありました、説明書もないので船橋宿と同時期の江戸時代の創建なのか?名称から広島の厳島神社と繋がりがあるのか?

さらに先の奥まった所に赤い鳥居がありました。御蔵稲荷神社とありました。現在地周辺に徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光と使われてきました。一角に九日市村のの飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建てられました。この郷では飢饉にも餓死した者はいなかった。寛政3年御蔵は出水のため流失。地元民が御蔵への感謝をこめ稲荷祠を大きく建て直した。文人太宰治氏は、ひなびた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも御蔵稲荷を背景に使っている。

隣の公園にこの辺一帯が船橋御殿跡の説明書がありました。船橋御殿は、海老川西岸の標高約3mの砂州上にあり、東京ドームより広かったようです。御殿は、中世の城と同じような防御用の土塁や堀があり、軍事的な拠点の役目もあったようです。

本町通りに戻ると京成本線の高架が見えてきました、その手前の川が2級河川の「海老川」です。何人かの人が橋の上で立ち止まっている所を見ると、ここが船橋地名発祥の橋だ。近づくと橋名が「海老川橋」とある。おもわず「船橋」じゃないんだ!橋の真ん中に船首が橋から突き出ているようなオブジェや、故・泉重千代さんの手形がありました、別名「長寿の橋」と。何故、故・泉重千代さんがと思うが、長寿記録の信憑性が出ているが・・・
地名の由来は、江戸時代の「船橋」は船橋五日市、船橋九日市村、船橋海神村があり、総称した名前であるが、その由来も海老川河口に小舟を並べその上に板を敷いて橋がわりにしたことによる、当時の、海老川は川幅が広く、水量も今より多く、橋を渡すのが困難だったようです。
海老川に架かる橋は、それぞれの橋にオブジェがありました。「七福神巡り」ならぬ「海老川の橋巡り」(13橋)もいいのでは。

本町通りの突き当りに大きな鳥居があり、ここが大神宮下である。京成本線にも「大神宮下」の駅名があり、大きな神社であることがわかる。階段上がった小高いところに社殿などがある。「日本三大実録」や「延喜式」神名帳に意富比神社の名がある船橋市を代表する神社です。通称「船橋大神宮」で1900年以上の歴史を持つ古社でもあります。400年以上続く奉納相撲、神楽の奉納などの、行事がおこなわれています。境内は綺麗に整備され、雑然とし市街地の中で、ここだけが空気が違う印象です。

境内にある「灯明台」(県指定文化財)は、木造建築で高さが12m、明治13年(1880)建造の擬洋風建築で光の距離は11km、海の安全を守ってきましたが、現在の風景からは想像できません、船橋のシンボル的な存在です。

その他、訪れる予定の「東照宮」「つるや伊藤」が見つかりません。「東照宮」の神社なら誰かは知っているかと思ったが甘かった。同年代の方にお聞きしたところ、分かりにくいからと案内までしてくれ、「つるや伊藤」まで道順を教えてくれました。感謝感謝です。案内してくれた方の話では、日本一小さい「東照宮」と言われ、家康が九十九里の帰りに立ち寄った場所で、御殿のあった場所との事、現在は町会で管理し行事のときに大神宮から宮司さんが来るとのこと。

もう一つの商家「つるや伊藤」は、手ぬぐいから舞台設備まで扱う船橋の老舗商家。安政元年に創業し168年、現在の建物は江戸時代建築の平屋を大正期に2階を増築したようです。
江戸時代の染物の技法を今に伝えています。手拭い、祭り用品、山車幕、校旗、緞帳などを制作しています。

この他にも、まだまだ立ち寄りたい所もありましたが歩き疲れて帰ることに。帰り道、駅近の脇道、飲食街の場所に「道祖神社」がありました。名前からして江戸時代と思われるが、場所がら商売人のパワースポットになっているかもしれません。

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岩倉使節団でアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国を調査・交渉してきた一員の内務卿・大久保利通が主導し、富国強兵・殖産興業の一環として交通網の整備を基盤とする東北開発構想があり工事された。社団法人土木学会が、日本国内の歴史的建造物のうち土木構造物について、保存に資することを目的として「選奨土木遺産」とし認定し顕彰した。「東北の三大土木遺産」に着目し、この国家プロジェクトを地形と土木技術、当時の社会背景からとらえ直す。


講師は、東北土木遺産研究所 所長 後藤 光亀氏です。

後藤氏は、三大土木遺産として「野蒜築港」、「安積疏水」、「万世大路」を上げているが、安積疎水は聞いという記憶があるが、他は初めて聞く。


Part1 野蒜築港(のびるちっこう) ~水と砂のものがたりと共に~

宮城県東松島市の鳴瀬川河口部に、レンガ造りの橋脚が残る「野蒜築港跡」である。日本一長い運河群や舟運起点の石井閘門(いしいこうもん)などを含め土木遺産として認定されている。


明治の三大築港は、福井県三国港、熊本県三角港、宮城県の野蒜築港と言われ、野蒜築港は東北開発の扇のかなめで大久保利通が強く推し進め、石井省一郎・内務省土木局長に調査を依頼し、オランダ人ドールンが調査、現地では早川智寛、黒澤敬徳が関わる。


日本の近代化を急務とする大久保は、野蒜築港を東北各地を結ぶ交通網構想の舟運拠点である。しいては中央集権化、殖産興業を基盤とした富国強兵のための事業に着手した。
□東北開発構想□
〇華士族の救済・開墾と農業開発
〇一般殖産の展望
 (各地の物産の保護改良と運輸の便をはかる)
    青森・三本木原、福島・安積原野、栃木・那須野原
〇野蒜築港、運河開設、既設港湾のと河川改修。
~目的~
〇北上川~東京への太平洋岸の運輸大動脈の確保
〇太平洋~日本海を結ぶ横断幹線の形成
〇野蒜築港を東北開発と対米貿易の拠点

野蒜築港は、仙台港の鳴瀬川の河口に造られた、構想は野蒜築港を中心とする土木工学を駆使して太平洋と日本海をつなぐ東北全体の水陸運路の利便性を高める開発構想にあった。


関連事業として7大プロジェクトで整備された。野蒜築港に繋がる運河群は、北上、東名、貞山運河で日本一長い運河群。


野蒜築港事業の関連事業として、ファン・ドールンが考えた市街地はマスメ状に区分され、下水道も暗渠も計画されていた。
(地元からは、悪水吐暗渠、近代土管、モルタルセメントが見つかる)    
工事にあたっては起業公債が発行され全国から集めた。当時としては面白い取り組みであった。

東日本大震災からの復興過程で分かった野蒜築港と先人の土木技術の高さ、近世から近代への土木技術を示す土木遺構である。
近世の舟溜まりと御蔵は、堀と河川をつなぐと洪水の時に逆流するという事で舟溜まりを造り、御蔵を建て一度荷を下ろした。近代土木遺産では、閘門を造る事により水位調整をして舟の水位を確保するので、そういう事はいらなくなった。
野蒜築港工事が始まる直前に大久保利通が斬殺される、事業は継承され完成するがやがて「幻の港」となる。

□なぜ砂が来るのか 東北の地形に原因がある□
東北の地形は、300万年以降、東西圧縮で隆起と浸食によって北上川、阿武隈川があらわれた、また、隠れ断層もあると言われている。北上川、阿武隈川の流れた先に野蒜築港が形成された。仙台湾は、氷河期から水深と海岸線の大きな変遷があった。
野蒜築港は、明治15年に開港するが2年後の嵐しで突堤が砂で埋もれてしまった。ムルデルは、翌年調査し再港不可能とした。明治18年に幻の野蒜築港となった。1801年伊能忠敬が測量して現在までの約220年間で海岸線は約1000m前進(約4.5m/年の前進)島であった不老山などは流砂、漂砂で埋没し「陸の松島」になった。国土地理院の治水地形分類図で砂州が現認でき、いまだに砂が流れ込んでいる。

※鳴瀬川河口付近では、流水によって形成される砂の堆積構造が見られる、波と沿岸流による砂州が広がっている。

鳴瀬川河口を適地として港湾を計画したオランダ人技師、ファン・ドールンの誤算があった、現地の地形、河川や海流による水と砂の動きを見誤ったと考えられる。

□復興創生に向けて□
〇自然地形ー最終氷河期から約1万8千年の自然造形⇒地形を読み解く力
〇歴史・文化ーここ酢百年の生活の場の変遷を考慮⇒まちを形成する力
〇学習ー語り続けられる歴史、風土、、文化、災害⇒次世代につなぐ力

住民の情熱、民間の技術力、研究機関の科学力、学校の教育力、行政の実行力画像アップロード
                  ーどう、うねりを創っていくかー
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Part2 安積疏水(あさかそすい) ~日本の土木技術者たちの功績~

1.猪苗代湖疏水(※開削当初は、猪苗代湖疏水といった)
    安積疏水
安積疏水は、猪苗代湖から取水した水を、福島県郡山市とその周辺の安積原野に給水する水路である。

この建設にも、オランダ人技師ファン・ドールンが関わり、事業を成功させた最大の功労者と称えられている。
安積疏水の完成により、不毛の地とされていた安積原野は、一大穀倉地帯に姿を変え、郡山の近代都市への発展に大きく貢献した。明治の国土開発では、最も成功した事例とされた。
日本三大疏水の一つ(安積疏水・那須疏水・琵琶湖疏水)安積疏水は、技術的先鞭をきった事業。選奨土木遺産となった認定理由は、ファン・ドールンによる安積疏水事業を物語る、大型可動堰と水路となっている。


日本初の国直轄の農業水利事業。大久保利通・内務卿、安場保和・福島県令、中條政恒・福島県典事、ファン・ドールン(内務省お雇い外国人が関わっています。


この事業は、猪苗代湖(標高514m)の水が西側の会津盆地(170m)に流れるのを、脊梁山脈で流れない安積原野、阿武隈川(220m)に流そうというものです。
安積疏水の路線図を見ると、きわめて精密による水準測量が行われていたことがわかります。

2.東北の地形の成り立ち
300万年以降の東西圧縮⇒隆起と浸食・断層、阿武隈川、猪苗代湖、奥羽
脊梁山脈ができる。標高約300m、火山岩と段丘堆積物の境界付近を安積疏水は正確な測量技術によって重力方向に自然流下していく。

3.安積原野開拓の夢
猪苗代湖の水を東進させたいとの議論は昔からあった。明治7年に郡山・豪商「開成社」大槻原の原野を開拓する事から始まります。それが注目されて安積疏水に繋がっていく。
~先人の地を見る力~
近世、郡山は宿場町として発展、灌漑用水を皿沼水道として郡山へ。


4,大久保利通の視点 殖産興業 
戊辰戦争前後、全国各地の士族の不満、困窮(明治10年西南戦争など)明治11年3月「一般殖産及華士族授産之義二付伺」「原野開墾ノ義ニ付伺」を上申。

〇猪苗代湖疏水事業 -日本の土木技術者たちの活躍-
ファン・ドールンの指示により、水位水量の測定。
ファン・ドールンが実地検分ー猪苗代湖の取水量や水位変化を試算。
明治12年、ドールンの巡検報告により疏水着工を正式に決定。
工期は3年1ヶ月、延べ人数85万人、総工費40万7100円(現価格約400億円)で当初予算の約2.9倍。工事には、既得水利権への配慮、工事の公開性を示した。

 

5オランダ人ファン・ドルーン
      ~野蒜築港からの帰京途中の視察~
山田寅吉(設計)、伊藤直紀(和算)、新渡戸七郎(伝の孫)が活躍。 ※新渡戸伝は、稲造の兄
この頃、留学から帰った技師、お雇い外国人活躍期(明治元年~15年頃)。
明治政府は、新政府の威信を示すため不燃橋の鉄橋や石橋を架設、日本初と言われる橋が外国人技術者によって造られた。

□安積疏水ものがたり□
・ファン・ドールンの銅像
 戦前、ドルーンの銅像が建てられた。戦中、供出を求められたが村人が山に隠し供出をのがれた。
・貧富の差の拡大、富は少数の地主への集約
・「貧しき人々の群れ」宮本百合子 (大正5年に18歳で発表)
  宮本百合子は、安積開拓で活躍した中條政恒の子、中條精一郎の長女。百合子は、開成山の祖母のところにたびたび訪れ安積開拓の地・桑野村で暮らす人々の生活実態を見て育った、「冬が長く地質も悪いようなところへ貧しい一群を作ったとしても、やはり非常に尊いことなのだろうか」。百合子は、かつて中條政恒らの安積開拓事業が、郡山の近代化に大きな一歩であっても、多くの貧しい小作人を生むという矛盾に気付き悩む。
貧富の差の拡大、富は少数の地主へ集約・・・その後の資本家による産業発展につながっていくのだが・・・
大久保利通が米欧視察後に目指した「殖産興業」「富国強兵」への動きは進が、その後、戦争への道を進ことになる・・・。
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Part3 万世大路(ばんせいたいろ) ~奥羽山脈を貫く~

万世大路は、福島県福島市と山形県米沢市を結ぶ約50Kmの新道、山を貫くだけでなく川を渡る。幕藩期の街道と異なり、荷車や馬車が通るのに十分な幅を持たせた近代的な道路である。事業の特徴は、当時の先端技術で掘られた隧道(トンネル)にあり、なかでも標高約900mに掘られた栗子隧道の延長は約870mで、アジアで最も長いトンネルだった。

1.三島通庸  ※土木県令? 鬼県令? とも言われている。
 ・急峻な山々に囲まれ急流の最上川が県の中央を流れる山形県
 ・山形県令 三島通庸                                 
    ・劣悪な道路状況を改善
    ・農産物などの輸送手段を確保
    ・経済活動を活発化する         
ことに力を注ぐ。明治10年10月、米沢から福島への馬車が通れる万世大路を開通させます。
土木遺産としての認定理由は、明治・昭和期の先端土木技術を駆使し、山形・福島両県の物流並びに人の交流と絆を育んだ歴史的地域資産。

2.山形の地形の成り立ち
300万年以降の東西圧縮⇒隆起と浸食・断層で最上川と奥羽脊梁山脈が出現。近世の時代は、板谷峠を参勤交代で通りましたが、極めて険しい。
東京に行くのに宮城県鳴子経由の遠回り。※標高の最も低い鳴子地区を通らざる時代もあった。特に、冬季間、万世大路は雪で半年近く通行止めになり、トラックなどの自動車は東京方面へは逆戻りする道順であった。
山形県は新潟へは飯豊朝日連峰、福島へは吾妻連峰、仙台・野蒜へは奥羽脊梁山脈があり、東西圧縮により高い所はより高く、低い所はより低くなった。道路整備が極めて不十分で地域振興の大きな障害。

□三島通庸(みしまみちつね)の道路整備□
万世大路
  ・山形~米沢~福島~東京~横浜港
小国新道
 ・米沢~関川~新潟港
関山新道
 ・山形~仙台~野蒜築港

港への流通路として隣県や県内の道路交通網の整備に力を注ぐ。
万世大路は、初代、2代目、3代目(国道13号)、4代目(東北中央自動車道)と続くが「万世大路」という道名を地元や管理者が使い続けていた。

3.三島通庸の新道開削、旧道改修
最上川~西回り航路の舟運(酒田~大阪)から万世大路(山形~福島)そして栃木~東京への陸路の整備へ人力車・馬車が通れる道路整備へ
大久保利通にかわれた三島は、山形に赴任するにあたり、
(1)道路建設                        (5)河川改修
(2)学校の設置                      (6)港湾建設
(3)病院の設置                      (7)殖産興業
(4)警察署の設置
の7つの方針を示す。

山形市に現存する済生館(病院・医学校)は三島によるもので、サクランボを初めとする果樹の栽培なども実施した。


明治初期までは「道路」冬の時代だったが幹線道路の整備は産業発展と軍事増強として重要だった。
明治10年5月工事許可が下りると、オランダ技師エッセルが調査、助言(測量)、世界に3台と言われる米国製削岩機1台を導入し栗子山隧道が貫通。
刈谷、中野新道の開通式に明治天皇が行幸し、翌年、「万世大路」のを賜る。
三島通庸は、県内に65の橋を架け、内11橋が石橋。当時、完成の域に達していた石橋の技術を参考にした。山形の石橋は、凝灰岩が使われているが、これは、山形の地層の堆積物が石橋の材料として供給できる下地があった。

大英帝国の旅行家・探検家・紀行作家イザベラ・バードも「日本奥地紀行」で山形の道に驚嘆した内容の記述がある。

※イザベラ・バードについては、オンライン講座5 「『日本奥地紀行』と旅する山形」2021.4.17も参考にして下さい。

4.「三県道路完成記念帖」
明治18年三島は、工事の記録を残している。洋画家・高橋由一、写真家・菊地新学、荷馬車、人力車、車社会到来を強調。

万世大路の開通1ヶ月の日交通量は人70人~112人、荷馬車10~27台、小駄馬5~17疋、その後、鉄道との競争関係となった。
5.初代~4代目の万世大路の利活用、ライフラインとしての役割
廃道の整備、利活用に地元が断続的な活動


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