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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

東武鉄道各駅に置いてある「マンスリーとーぶ」(東武鉄道広報誌)は、沿線を紹介しているが、2022.9月号の「みちくさ写真帖」のコーナーに新河岸川舟運(旧福田屋邸特別公開)について掲載されていたので、興味がわき行くことに。
特別公開の日に、最寄り駅の東上線上福岡駅で下車する。

ふじみ野市は、川越市、富士見市、三芳町と隣接している。埼玉県から東京へ向かう沿線(通勤圏)は、武蔵野台地、関東ローム層上にあり平坦地が多く、高低差が少なく山が見られない。
ふじみ野市は、2005年(平成17)10月1日、所謂、平成の大合併で成立した市である。私が退職する数年前までは、上福岡市、入間郡大井町であった。隣に富士見市があるのに、何故、ふじみ野市になったのか不思議であるが、当初二市二町の合併案であったが、色々、事情があるようだ。ちなみに、ふじみ野駅はふじみ野市ではなく隣の市である富士見市にある。

駅から歩いて20分ぐらいの所に、「ふじみ野市立福岡河岸記念館」があった。そばには、新河岸川と養老橋があったが、舟運の面影はない。
新河岸川は、武蔵野台地北部の雨や伏流水などを集めた川が、川越にて新河岸川と名前を変え東京北区の岩淵水門の隅田川に合流する荒川水系である。

江戸時代の川越藩主が、流路を「九十九曲り」と言われる屈曲持たせ流路を安定化させる河川工事で舟運の流路を完成させた。沿岸には河岸場が設けられた。福岡河岸もその一つである。

福岡河岸には舟問屋などの商家が多くあり賑わったようだが、現在は、記念館として保存している市指定文化財・回漕問屋「福田屋」(星野家)のみである。記念館は福岡河岸が新河岸川の舟運で栄えた明治中頃の様子を再現している。
訪れた日は、月1回の特別公開の日で木造3階建ての建物が公開された。
福田屋は、建物が4つの部分に分かれている、帳場(兼住居)、離れ(客人用)、文庫蔵、土間である。

   

   

                              

〇帳場
回漕問屋にふさわしい帳場・土間となっている。帳場の奥の部屋は田の字型の座敷となっている。(2階部分は非公開)帳場の横には4畳の金庫室があり、いかに栄ていたかがわかる。

〇離れ
明治時代の建築としては珍しい3階建ての木造建築である。接客用として使用され、3階からは新河岸川や筑波山、富士山を眺められたとの事。(2・3階が特別公開)木造の3階建ての建物は数少ないようです。


〇文庫蔵
文庫蔵内部の展示室では、舟運と問屋の暮らし、十代目当主・星野仙蔵氏の功績等を展示しています。

〇土間
台所は、多くの使用人をかかえた福田屋にふさわしい台所で、2階には下男部屋などがある。(非公開)

 

星野仙蔵氏は、経営者として先見性のある方で、川越街道での荷馬車輸送から、新河岸川での舟運、そして鉄道輸送と物流に関しては功績があった。

蛇足であるが、この星野家は、女優・星野真里さんの実家で実業家でもある星野仙蔵氏は曾祖父にあたる。


ふじみ野市には、もう一つ近くに「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」があり、帰りに立ち寄った。ふじみ野市には、その他に大井郷土資料館があり、人口11.3万人の市では恵まれている。

資料館に入ると正面に「陸軍造兵廠川越製造所」と「三福学校」模型展示があった。上福岡駅から約10分の所に、現在のUR都市機構の団地付近一帯が「陸軍造兵廠川越製造所」があったところです。建物の総数は、大小600棟以上、働いていた人は学徒動員・女子挺身隊など勤労動員を含めて数千人にも及んだと言われています。昭和初期には2千人だった福岡村の人口は終戦時には7千人を超えていました。

もう一つ正面に展示されていた模型は、「三福学校」で、120年前の明治15(1882)年、上福岡に初めて開校した小学校が「三福学校」です。三福学校は、福岡村・中福岡村・福田新田の3か村の村民の寄附により設立された学校です。その後、町村合併によって福岡村立福岡尋常小学校となり、現在の小・中学校に変遷してきました。


その他、資料館には上福岡の原始・古代、中世、近世までの歴史の流れと新河岸川舟運、機織り、手づくりほうき、民家、民俗芸能などを展示していた。

※1. 画像については、一部、ふじみ野市役所(記念館・資料館)等の資料を利用しました。
※2. 新河岸川については、2018.06.08にUPした「小江戸川越 新河岸川舟運めぐり」もご覧ください。

【その他のPhoto】

 

令和4年が酒井家が庄内藩に入部400年と言うことである。入部したのは第3代酒井忠勝のときであり、それか脈々と続き現在は第19代酒井忠順(さかいただより)氏です。今回の講座は、現在、庄内の歴史と継承、未来への発展に尽力している若殿と言われている19代酒井忠順氏の講義。

(1)徳川四天王筆頭 初代・酒井忠次
四天王とは安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕え江戸幕府の樹立に尽力した、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直正の4人の武将であるが、その中でも酒井忠次は、家康より15歳年上で最古参の譜代筆頭であった。

(2)藩祖・酒井忠勝
転封により禄高を上げ、第3代・酒井忠勝の時に元和8年(1622)出羽庄内13万8千石に転封した。忠勝は支城として難色を示したが、軍事上の重要な地であり庄内には酒田、鶴岡の両城がある、将軍が特に指名したと説得され納得し、以来、庄内は明治に至るまで酒井家の治政となりました。
忠勝は、鶴岡に着任してから家臣団の構成、鶴ヶ岡城の整備、城下町の区画整備等を進め庄内藩酒井家の礎を築きました。

※酒井忠勝 出展:Wikipediaより

(3)中興の祖・酒井忠徳と庄内藩校致道館
明和4年(1767)、酒井忠徳が13歳で第9代藩主となります。18歳ではじめて国入りしますが、その時、藩は財政難の真只中にあり、国入りにも事欠き落涙したと言われています。それにより忠徳は、財政改革に強い決意を抱くことになりました。自ら倹約に努め、家臣には高利負債の整理、農民には低利融資、災害基金の設立を実施し成果を収めました。忠徳は文化人でもありました、財政難とともに風俗の乱れ、藩士の士風低下から、改めるには学校の教育以外ないと「藩校致道館」を設立しました。藩校致道館は、荻生徂徠の唱導した徂徠学を旨とし個性を育てることを重点におこないました。5段階の学制で高学年はゼミナール方式で年間350人ほどが学び、ここでの教育が、学問を尊ぶ精神風土、地道に力を養おうとする「沈潜の風」という精神性の礎になっています。

(4)民衆のチカラ ー三方領知替え阻止運動ー
天保11年(1840)、幕府は庄内の酒井を越後長岡へ、越後長岡の牧野を武蔵川越へ、武蔵川越の松平を出羽庄内へと転封することを決定しました。実態は、財政難に苦しむ川越藩主・松平斉典が豊かな庄内への転封を願って画策したものとされています。酒田の本間家当主・光暉は、領地替えにより新領主となる松平氏の苛政を警戒し財政保全を図っていく一方で、阻止するために百姓一揆を起させる等の奇策を講じました。藩内の重臣、富農なども共に行動・協力し、秘密裏に組織された百姓代表一行は江戸に上り老中に駕籠訴(*1)しました。幕府内でも門閥政治批判、大名も庄内酒井に同情的になり転封命令は撤回されました。
*1:駕籠訴ー駕籠で通過うる幕府の上級者や大名に訴状をささげ訴える行為

※国替えに反対する領民の大集会

※転封中止が決まって喜び合う城下の人々

(5)酒井家の明治維新 ー戊辰戦争・松ヶ岡開墾ー
幕末になり江戸市中が政情不安となり、庄内藩が江戸市中の取締りをすることになりました、大政奉還となりましたが薩摩藩は浪人を集め武力倒幕の挑発行動が多くなり、庄内藩は、根城となっていた薩摩藩江戸屋敷を焼き払い鎮圧しました、これが「薩摩藩邸焼き討ち事件」です。これがきっかけとして「鳥羽伏見の戦い」、「戊辰戦争」につながり、庄内藩は会津藩とともに「朝的」の汚名を着せられることになりました。戊辰戦争では、庄内藩は、東北諸藩の中でも装備等は最も優れていたと言われ、一歩も領内に入れずに有利に戦いを進めましたが、盟友会津藩の陥落により大勢は決まり、明治元年(1868)9月に降伏しました。庄内藩では、敗戦によって厳しい処罰を覚悟していましたが処分も寛大なもので、これは薩摩藩の西郷隆盛の強い指示であったと後で知らされました。

刀を鍬に持ち替えて、新しい産業を興すべく旧藩士約3000人により、原野約311ヘクタールの開墾が進められました。月山山麓で蚕を育て、蚕糸業を興す、松ケ岡開墾事業は幾多の苦難を経てやりとげました。

※藩士の開拓の様子

 

(6)現在とこれから 

講師の酒井忠順氏は、温故知新のことわざを、さらに進めた温故創新を!!博物館はサービス業であり、次代への継承をより良い形で作る、観光・文化・振興のセンターとしての役割がある。酒井氏は、クラウドファンディング、大学での講演、企業とのコラボ、企画開発、Webメディアなど、いろんなことに取り組まれている、まさに、名言「人生の価値は 何を得るかではなく 何を残すかである」。
酒井氏にとって、令和4年酒井家庄内入部400年は、来年からがスタートであるのお話は、ここから酒井家の一歩が始まるの意欲が伝わってきた。

※郷土学習

※南洲神社「徳の交わり坐像」

【その他のMemo】

☆庄内というと同じ呼び名の荘内とは?
古文書に書かれているのは庄内が多く、荘はわずかに見られる程度。地域名に使われることが多く(庄内平野など)、団体や企業名では荘が多く使われる。(荘内銀行、荘内神社など)荘は荘園からきているが、これといった厳密な使い分けないようである。 ここでは、「庄内」に統一させていただいた。

☆鶴岡市

庄内藩の居城の鶴岡市は、庄内平野の南に位置する山形県第2の都市で人工11万。江戸時代は、庄内藩の城下町として栄えた。郊外には庄内米、だたちゃ豆の産地である。日本海側気候で冬の日照時間が他の市町村に比べて際立って短いが、内陸部に比べて冷え込みが少ない。加茂港は、北前船の着く港町である。新潟県境にある「鼠が関」は、勿来関・白河関とともに東北三関の一つである。このように鶴岡市は、江戸時代には交通の要衝、米作にめぐまれた所である。

★写真は、明記してないものは、当日、配布された資料等になります★

 

【その他のPhoto】

※山居倉庫 (米の倉庫)

※本間美術館 清遠閣・鶴舞園

コロナが第7波ということで、なかなか電車に乗り出かける事も少なくなりました。初期のコロナから変異して感染力が強く、4回のワクチン接種しても、なお、高齢者にとって恐い感染症です。

近い所で、訪れる場所を探しているところに、無料配布の地域新聞に八潮市の八條八幡神社が「国登録有形文化財」に登録されたことが掲載されていました。令和3年11月19日に開催された国の文化審議会において、新たに登録有形文化財(建造物)に登録するよう答申され、令和4年2月17日に登録が官報告示されました。
数年前に訪れた神社でしたが、本殿の彫刻の見事さに感心しましたが、八潮市の端の神社が、登録有形文化財の登録に驚きました。
地域新聞によると、『宝徳年間(1449~1452年)に山城国から八幡大神、武蔵国岩槻から久伊豆大伸、同大宮から氷川大神の三神を併せ祭ったのが始まりと伝えられ、他の八幡神社と区別するため「八條八幡神社」と呼称されている。明治24年(1891)に再建された本殿には、埼玉県内社寺に江戸時代から見られる彫刻建築の伝統を引き継ぎ、柱や桁の木口には丸彫彫刻、向拝柱には昇降対の龍の彫刻が。また、再建2年前に公布された大日本帝国憲法の発布式や御前会議の様子を題材とした彫刻も施されている。』八潮市の国登録文化財には他には恩田家主屋と蔵が登録されたが、現在、居住されているため見学ができない。

彫刻が帝国憲法発布、御前会議の様子が彫られていて珍しいです、また、全体に彫刻が施されています。

帰りに神社から近くにある「そうか公園」に立ち寄ることに。

途中、柿木浄水場がありました、昭和30年代における埼玉県への企業進出の増加や各種工場による無秩序で過剰な地下水の汲み上げにより地盤沈下が顕著になってきたため、工業用水法による汲み上げ規制の指定地域である草加・八潮地区において河川の水を浄化し企業へ配水することを目的に昭和39年11月に給水を開始しました。利根川水系中川より草加市・八潮市の57事業所に配水。
工業用水は、水道水のように滅菌処理や濾過を行っていないため、料金は水道水より安価に供給しています。

そうか公園は、昔、公園前を通ったことがあったが、中に入るのは初めてである。この公園は、人工都市公園で都市化の中で自然が失われたため、昭和49年3月に整備が始まり、平成6年3月に完成した、緑・水の自然に親しみ、スポーツ施設を兼ね備えた、総合公園となっています。昔は、木々も少なかったが今では木々が大きくなり、色々な施設が整備され訪れた時も、散歩や運動で利用される方で賑わっていました。