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爺の社会科見学

年金生活14年目を迎えました。
好きな地理と写真を生かしたブログを目指していますが、年々、体力の衰えから投稿回数がすくなくなってきました。

職場で一緒だった友人Tさんから食事会のお誘い。千葉に住んでいるIさんが中華料理の美味しいお店を紹介してくれたとの事。
新鎌ヶ谷駅に着くと、ベンツで迎えに来てくれた。ベンツに乗ると高級感が感じるのは気のせいか?現職の時にも車には凝っていたが退職しても変わらない。
目的地の印西市に向かう。印西市は、人口10.6万人、千葉ニュータウンをかかえ人口増加率が千葉県でも高い。大きい商業施設、成田空港が近いせいか大型物流倉庫が目立つ、別名、「物流城下町」また、データーセンターが多いことから「情報城下町」とも言われているそうである。勢いのある市でもある。
どの辺を通っているのか分からないが道路行先標示に成田市が、目的の場所は印西市でも交通不便な所のようで緑が多い、吉田地区は印西市と2010(平成22)年に合併した印旛村だった、どおりで(失礼)。

Tさんと埼玉県と景色が違うと話す、私もTさんも平坦な地、Iさんがこれが北総の景色と・・・。北総台地(下総台地とも)で平坦地が広いが低い山が点在している。所によっては高低差のある場所もある。台地の先端部分なのだろうか?。


会食の場所の「旬菜中房 和華(のどか)」は、緑の多い開けた場所にあった。道路からは大きい看板も出てなくログハウス的な建物のため素通りしそうです。私達の前に車2台が待っていた、予約してないと入れないようです。奥様なのだろうかメニューを丁寧に説明してくれました。今までこんなに優しく丁寧に説明してくれたことがない!!
中華料理店との事だったが、創作中華か和中華といった方が良いでしょう。町中華や中華街の料理と違い、上品な中華料理で満足でした。平日にも関わらず予約で埋まっているのもうなずけます。


食事のあと、「千葉県立房総のむら」に案内をしてもらった。「房総のむら」は訪れたいと思っていた場所、商家の町並み・武家屋敷・農家・古墳群などが公開しているが、何分、本降りの雨となり寒さも加わり、入館をあきらめ、千葉ニュータウンでコーヒータイムとなりました。

普段、会えない3人で積もり積もった話題が堰を切ったように・・・。

「駒沢給水塔」と「向井潤吉アトリエ館」の見学を目的に田園都市線桜新町で下車する。途中、神社があったので立ち寄る、地図には桜神宮と表記しているが、明治13年(1880)に設立したというから、そんなに古い神社ではない。鳥居の横に「自習教本祠」の石碑があったが、神社や神道のあり方に問題意識をもち、本来の神道に戻すことを目的として設立したようです。

駒沢給水塔は、都民の日に、例年、一般公開しているとのことで訪れたが、コロナ禍で公開してないのか?門が閉じたままだった。残念!・・・
住宅街の中にある駒沢給水塔は、緑に覆われていて廃墟のようであった。「双子の給水塔」で有名な施設であるが、施設内でないと写真は良いアングルで撮れない。


この施設、大正13年に当時の人口増加の著しい渋谷町(現・渋谷区)の水道供給施設として竣工した、現在は、非常時用の応急給水塔として機能しているようだ。洋風の装飾等の意匠がほどこされていて、お城のような建造物である。
施設の役割は、多摩川河畔に取水所(砧下浄水所)を設け駒沢の給水所まで送水し、ポンプの力で給水塔に押し上げた後、重力で渋谷町へ送水された。 給水塔は、内径約13m、高さ30mで王冠を連想させられ装飾電球が付けられている、トラス橋で両塔が結ばれており独特の建築となっている。そうした建築から江戸川乱歩の怪人二十面相のアジトのモデルになったそうである。なお、この建築物は、土木学会選奨土木遺産、地域風景資産選定に選ばれています。

良い写真が撮れませんでしたので、「駒沢給水塔風景資産保存会」の写真を。

残念な思いで、近くにある「向井潤吉アトリエ館」へ。このアトリエ館、古民家だけの作品を展示している。
向井潤吉氏は、開館にあたり、「町の緑が次々と失われて行くことは悲しいことです。アトリエと作品を文化振興や自然保護に熱意のある世田谷区に寄贈し、日本の風景美や伝統の大切さを少しでも伝えることが出来、60年もの長い間お世話になってきた、世田谷区の美術文化の発展と青少年の啓発にお役に立てば幸いでおります。」と。向井潤吉の描いた民家と風景は今は見ることができない。古民家を見るには、市町村の保存公開している古民家を見るしかない。小生も保存されている古民家を訪れれことがあるが、街並みや風景の中の古民家は見られない。

館内には、向井氏の油絵、水彩画の作品とパレットやイーゼル、家具類が配置されている。アトリエでの作品展示は、美術館とは違い向井氏が仕事をしている様な感じをうけた。

向井氏が好んで描いた制作地は、
           1.埼玉県   340作品   32%
           2.長野県      205作品          19%
           3.京都府      138作品          13%
           4.岩手県       72作品           7%
向井氏が制作に励んだ時期
          前期   2月~4月
          後期      10月~12月
  前期は、関東だと梅の時期
  後期は、紅葉、新雪
  気候のいい時期は、繁茂した木草が邪魔になるそうだ。  
  旅のお土産として、包み紙や箸袋をスクラップしていた

作品を観ると、忘れかけていた郷愁がよみがえってくる。ホッとする瞬間であるが、向井氏の作品でしか今では感じることしかできない。

向井潤吉アトリエ館には、失われた原風景とそこでの暮らしを想像させられる。


【その他のPhoto】

「東京ステーションギャラリー」にて、「東北へのまなざし1930-1945」~タウト、柳宗悦、ペリアン、今和次郎らは何を見ようとしたのか~の展覧会が行われた。


名前の挙がっている、今和次郎氏については学生時代のレポートの題材であった「中門造り」「南部曲り家」について今和次郎氏の書籍「日本の民家」を神田の古本屋で購入し参考にし、レポートを仕上げることができた。
各氏がどのように東北地方と関わったか興味があり、展覧会に。
私のブログでも取り上げた、イザベラ・バードも日本各地を回ったが東北地方では好印象を与えた。東北はどうい土地なのだろうか、外国人の特有の物珍しさから来るものなのか?・・・
「東北へのまなざし」展は、1930(S5)年~1945(S20)年の東北地方にスポットをあてて、調査・研究・収集品を展示している。


チラシによれば1930~1945年の年代は、太平洋戦争傾斜を深める一方で写真などのグラフィカルな視覚文化が到来し、建築や生活文化が変貌するなど、モダンとクラシック、都会と地方の両極の時代で揺れ動いた時期でもあった。この頃、先端的な意識を持った人々が東北地方を訪れ、東北の建築や生活用品に注目。1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウト、民藝運動を展開した柳宗悦、1940年、商工省に招聘されたフランスのデザイナー、シャルトット・ペリアンなどが一例です。
この時期、1926(T15)年に柳宗悦らにより提唱された生活文化にかかわる民藝運動により、素朴なこけしや郷土玩具を収集する動きが広まりました。考現学の祖として知られる今和次郎や弟の純三、東北生活美術研究会を主導した吉井忠ら東北出身者たちも、故郷の人々と暮らしを見つめ直し、戦中期の貴重な記録を残しています。本展は、東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、庚申的な周縁とみなされてきた東北地方が、実は豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々のいとなみが、現在と地続きであることを改めて検証するものです。と、あった。

 

 

秋田市は、全体として今なおすぐれた伝統的文化を保持している、秋田の文化は建築と酒と食べ物と版画であると言っている。

展示品の中に、岩手県御明神村(現・雫石町)の農衣があったが、吉川保正(岩手県)が柳、タウトから地域文化の中に美と見出す姿勢を学び民藝運動に傾倒、1938年の民芸品調査の際、御明神村(現・雫石町)で見た若い女性の野良着姿を特に吉川が気にいった。吉川は「郷土の美の発掘者」と言われた。私も、東北地方の野良着は実用性とワンポイント美があり印象に残る、雫石町には年頃の女性を「雫石あねっこ」と呼ぶ、「秋田おばこ」と同じで美人の代名詞となっている。雫石町では8月に「よしゃれ祭」が行われるが当地の独特の野良着が見られる。秋田県羽後町の「西馬音内盆踊り」の編み笠、彦三頭巾、端縫いの衣装は東北独特のものであり美しさを感じさせる。

ブルーノ・タウトは、日光東照宮を案内された時、過剰な装飾を日記に「建築の堕落」とまで書いた。逆に桂離宮・伊勢神宮を皇室芸術と呼び称賛した。タウトのこうした考えが日本に大きな影響をあたえた。

※ブログ内の展示写真については、「東京ステーションギャラリー」のホームページからの転載で、一部、編集してあります。

展示品については、残念ながら写真撮影禁止であるが、3階から2階に移動の際、旧東京駅のレンガ等を写真撮影ができました。

東京ステーションギャラリーの鑑賞を終わり、お参りしたことがないパワースポット「将門塚」へ。途中、妻が数十年前に通勤していた「新大手町ビル」に立ち寄ったが、中に入っていた会社も相当数変わっているようです。丸の内・大手町は都市再開発で面影はありません。
「将門塚」は、日本三大怨霊(菅原道真・崇徳天皇・平将門)の一つ。平将門は、平安時代の関東豪族で恒徳天皇の子孫と言われ、平一族の抗争から朝廷に対抗し「新皇」を名乗ったため朝敵となり討伐された。怨霊と言われる由縁は、都心のオフィス街の一等地で再開発のたびに事故や不審死が起きたためです。いまでは、「勝負運」や「リストラ防止」の御利益が場所がら多いようです。
箱根駅伝のゴール至近にありTVを見ていて場所が気がつかなかった。

 

〇2021.04.17UP「日本奥地紀行」(イザベラ・バード)についても参考に