*社会人になって数年経った頃、尼崎で仕事をしていた時に帰り道で、ダンプカーに轢かれそうになった。その一瞬、飛びのいて命拾いした。
学校を出て就職したら社長を目指そう。大金持ちになろう。世界を雄飛しよう。自分の力で生きよう。成長しよう。有名人になろう。などと子供っぽい夢を漠然と持っていた。
。しかし何のために社長になるのか? 何のために大金持ちになるのか? 何のために世界を雄飛するのか? 何のために成長するのか? 根本的なことを全く分かりもせず、ただ世間の風潮に染まって漂流していただけ。
*しかし命は大切。ということをいつも頭の隅に置いていた。命拾いして荒い息をしているとき、これまで漠然と思い描いていた自分の夢の、はかなさ。虚しさ。小ささ。つまらなさ。に気づいたんです。同時に思ったことは
*自分の「命」を、生涯、喜ばせ、躍動させることが自分の人生だ。と。どの一瞬も、どの一日も、どの年も、生涯。喜びに満ちて生き抜きたい。
*しかし、どうすれば、喜ばせるんか? どうすれば喜べるのか? それが何年考えても答えが出ない。途絶えることのない喜びの連続の人生を。どうすれば得られるのか? 紆余曲折の年月が過ぎ去ってゆく。サラリーマン時代はおっとりノンビリとした性格であるから、昼あんどん、と揶揄されていた。輝くほどの大きな実績をあげても皆上司が自分の功績として持って行った。悪いことがあれば人のことでも全部僕が引き受け、また僕のセイにされても黙って引き受けていた。
*社会人になってから、大阪から神戸へ。神戸から名古屋へ。名古屋から東京へと転勤して遍歴したあと会社を辞めて、名古屋に戻った。そこで独立とは名ばかりのささやかな自営が始まり次第に拡大して大阪に移転。母が待つ兵庫に住むことになったのは社会人になって間もないころのあの事故から20数年を経たころ。それは自分の力で生きている。と思って過ごしてきた20数年でもあった。
*ある朝いつものように目覚めた。その時、ぼんやりとした僕の脳みそが気づいた。
*自分は今、無意識に「空気」を吸っている。自分が作ったものでもない、買ったものでもない「空気」。
この空気を吸わなかったら10分もしたら、俺の「命」は絶えてしまうやん?
*自分の力で生きている。と思い込んでいたけれど、そうではない。「空気」によって生かされている!
*これを知った時。と言うのは、ダンプカーに轢かれて死に損なった、あの時よりも大きな衝撃。だった。
*自分の力で生きているのではない。生かされているんや!
*「空気」だけやない。「水」もそうや。「食べもの。太陽」。自分の「体」。母や妻や多くの「人」。道路や電気設備や飛行機や山や川や海などをあらゆるものを包摂する「地球」。さらには恐らく地球や星々や空間を有する「宇宙」。
これら「空気」「水」「食べ物、太陽」「からだ」「人」「地球」「宇宙」の頭文字を取った「くみたかひちう」によって、俺は生かされている!
*「生かされている」ということは、「生かしている存在」があるはず! どこに存在しているのか知らないが必ずある筈や。
*僕の「命」を「生かし。守り。愛して」くれている存在がある!
*僕はその存在を、「Ikasi Mmori Aisuru Sonnzai」として、「I MAS」「アイマース」と名付けて、「アイマースくみたか」を片時も忘れず感謝しよう。と誓ったんです。それがボクのこのアメーバのブログネームです。
*24時間途切れることなく僕の「命」を生かして喜ばせてくれることに、「感謝」する。「感謝」は「喜び」なんです。
*僕が社会人になって間もない頃に遭遇した事故のあと、「自分の命を生涯喜ばせたい。どうすれば喜ばせることができるのか?」
その答えをやっと得られたのです。
*「喜び」こそ生きる力。原動力。です。
*しかし、僕の得た「喜びをもたらす存在と方法」は、釈迦の法華経の肝要である「妙法蓮華経」であり、妙法を唱えることであることが、とっくの昔に日蓮に説き表されていたのです。
*しかも、万人が幸福になる、成仏できる法として、文証。現証。理証。を示して、完璧に詳しく説き表しているのです。
*妙法は、「命」を生かし守り愛する「慈悲」と「智慧」と「歓喜」と「生命力」を持ち合わせていて、妙法を唱えるボクらの命にもたらしてくれる。それは、大宇宙と私たちの生命を貫く妙法という法です。
*「慈悲」と言えば、かって京セラの創業者である稲盛和夫さんが京都大学の教授と、宇宙のビッグバンから太陽や地球、人類の誕生に至る歴史を語り合ったとき、「宇宙には慈悲の気が流れている」と直感したことを明かしていました。
*唱題によって僕たちの「命」にもたらされた「慈悲、智慧、歓喜、生命力」は、同時に自他の「命」を生かそう、守ろう、愛そう、喜ばせよう。という心を湧かせて行動に移させるのです。
*それが、仕事であり、家族を養い守ることであり、妙法を教えて導くことであり、平和運動であり。と、展開するのです。すごいです。深いです。
*吉川英治が、その著「宮本武蔵」の最終場面で記しています。
「波騒は世の常である。波にまかせて泳ぎ上手に雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水の深さを」
妙法の心、妙法の深さは、妙法を唱える人に感じられるのではないでしょうか。
*ベートーベンの交響曲「第九」は、シラーの詩「歓喜に寄す」の「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」をモチーフとして歌い上げている。
いかなる悩みや苦しみも、妙法を唱える胸中には歓喜の命が沸き上がってくる。
アイマース久美高筆